妙好人の話

妙好人(みょうこうにん)というのは、念仏の教えで安心(あんじん)を得た人のことをいい、安心とは阿弥陀さまを信心して得られる救い、つまり禅宗でいう悟りのようなものである。

また妙好人の妙好は「妙なること」を意味し、「妙好の華」は白蓮華(びゃくれんげ)を意味するという。つまり浄土真宗の教えが育てた白蓮華のような人、聞法(もんぽう)を重視し、機会あるごとに聞法の場を設ける布教活動の中に咲いた妙なる蓮の花、それが妙好人である。

ただし学問のある人や僧侶などは妙好人の中に入らないらしく、世俗の生活を送っている、字も読めないような、どちらかというと貧しい人が妙好人と呼ばれている。だから妙好人の信心は本を読んで得たものではなく、貧苦の生活の中で養われ鍛えられた筋金入りの信心であり、そうした人の中には純金の輝きを放つ人もいるという。

その妙好人の代表として、因幡(いなば)の源左(げんざ)さんをご紹介したい。因幡は鳥取県東部の古い地名であり、天保十三年に鳥取県気高郡(けたかぐん)青谷町(あおやちょう)山根で生まれ、同じ場所で昭和五年に八九歳で亡くなった妙好人が源左さんである。この近くには投入堂(なげいれどう)で有名な三仏寺(さんぶつじ)がある。

源左さんの転機は父親が急逝したことであった。父親は源左さんと一緒に稲刈りをしていたとき、急に気分が悪いといって家へ帰りそのまま亡くなったのである。そのとき源左さんは数えで十八歳、父親はまだ四〇歳であり、「おらが死んで淋しけりゃ、親さまを探してすがれ」、それが父親の最期の言葉であった。

「親がなあなってみりゃ世間は狭いし、さびしいやら悲しいやらで心がとぼけてしまってやあ。それから親の遺言を思い出して、どっかでも親さまを探さにゃならんと思って親さま探しにかかってのう」

ということで、源左さんは死ぬことのない親を探そうと、念仏と聴聞に打ち込むようになった。鳥取県は真宗の盛んな土地であり、とくに当時は活発な布教活動が行われていたときなので、毎日のようにあちこちの寺で法話の会が開かれていた。それを仕事が終わってから聴いて回ったのであるが、安心が得られないまま三〇歳になった。

三〇歳になったある日のこと。源左さんはたいへんな働き者で、夏はいつも朝飯まえに山へ草刈りに行っていた。草は牛の餌にするものらしく、その日も牛を連れて草刈り場へ行き、草の束を六つ作りそれを牛の背中に載せていた。そして三把目を載せたとき、「ふぃっと分からせてもらった」という。「世界が広いようになって、ように安気になりましたいな。不思議なことでござんす。なんまんだぶ、なんまんだぶ」

自分が刈った草を牛が背負って運んでくれるように、自分が背負うべき悩みや苦しみ、罪や業を阿弥陀様がすべて背負ってくれる。牛の背中に草を載せたときそのことが納得でき、心の中のお荷物を下ろしてしまった、理屈でいえばそういうことであろう。つまり念仏の教えのかなめは、おまかせすることにある。自分が抱えているいろんな問題を、すべて阿弥陀さまにおまかせして下駄を預けてしまう。するとお荷物を下ろすことができる。だから信心が大きければ大きいほどお荷物は軽くなる。

人間にはできる事とできない事がある。そして、歳も取らず、病気にもならず、死にもせず、といったことは、どんなにがんばってもできないことである。そのできないことを、何とか自分の力で解決しようとして人間は苦しんでいる。だからそうしたことはすべて阿弥陀さまにおまかせしてしまう。「こっちゃ死にさえすりゃええだ。助ける助けんは親さんの仕事だけのう」と下駄を預けてしまう。それが念仏の教えである。

ただし助ける助けんは阿弥陀さまの仕事でも、自分もやらなければならないことがある。それは自己反省することである。自分は極楽に行く価値のある人間なのか、阿弥陀さまに救ってもらう価値のある人間なのか、という問いを自分に突きつけて自己反省することである。するととてもそんな人間ではないと分かってくる。ところがそうした自己反省が徹底したとき、阿弥陀さまの慈悲が心底納得でき、安心がいただけるという。

阿弥陀さまのことは抜きにしても、自己反省が本当に徹底するなら、たとえこれから死ぬということになっても、それを素直に受け容れられるようになるという。人間の心はそういうものらしい。

     
源左さんの日常底

源左さんは本名を足利喜三郎という。ところが足利の姓は明治になってから名乗ったもの、喜三郎は源左衛門から改名したものだったので、改名後も源左さんと呼ばれていたし、本人もその名を使っていた。仕事は農業と紙すきがおもで、山も持っていた。

源左さんは早起きで有名で、とにかく目が覚めるとすぐに起きた。そのため夜中の一時とか二時に起きることもあった。起きるとまず仏間に入り、よく通る澄んだ声で朝のお勤めをした。字はまったく読めなかったが、お勤めの内容はすべて暗記していた。朝課がすむと土間に下りて、縄やわらじを作り、臼を挽き、外が明るくなると外仕事に取りかかった。夏は牛をつれて草刈りに行き、帰ってから家族と一緒に朝食を食べた。

夜も仏壇の前でお勤めをしたが、朝が早いのでよく居眠りをした。行儀が悪いと人に言われると、「親さんの前だでな。何ともないだいなあ」と言い、夜は早く寝た。夏場は精出して働くために痩せ、冬場は太った。背丈は人並みだったが体は頑丈にできていて、患ったり薬を飲んだりしたことはなかった。辛抱強い人で「困った」とか「えらかった」などと言ったことはなく、暑い寒いなどの言葉は挨拶のときにも口にせず、冬の寒い朝でも火を使わなかった。

人の家に逗留しているときも、障子の破れを繕ったり、庭の草を抜いたり、掃除をしたりと休むことなく働いた。他人の家であっても朝早く起き、かってに仏間でお勤めをし、それからみんなを起こして回った。

殺生が嫌いで、子供が魚や虫をとることも好まず、すべての生き物を可愛がり、犬や猫や魚や木にも話しかけていた。信心を得る機縁になった牛はとくに大切にし、彼の手にかかると牛はみなおとなしくなった。そのため暴れ牛は源左に頼めと言われていた。暴れ牛には、やさしく話しかけたり、一晩中さすったり、ということをしていた。

また仲裁の名人であり、彼があいだに入ると不思議ともめ事が丸く収まった。そのためよく仲裁を頼まれた。秋の収穫が終わると、法話をしてほしいとあちこちから呼ばれた。そういうときの話はただ「ありがたい」という話ばかりであり、むずかしい話はしなかった。人が死ぬときにもよく呼ばれ、源左さんが来ると家の中が和やかになるといわれた。

酒やたばこはやらず、熟した柿は人にあげて、自分は下に落ちたものを喜んで食べていた。常に人助けをしていても自慢することなく、悪口を言うこともなく、自分こそがいちばんの悪者だといつも言っていた。人を信じすぎてひどい目に遭ったこともあるが、周囲が傷つかないように丸くおさめていた。「さてもさても、ようこそようこそ、ありがとうございます」が口癖で、そう言いながら腹の立つことも、腹を立てることなく受け容れていた。

源左さんが好んでやりたがったことが三つある。それは人の荷物を背負うこと、人の肩をもむこと、お灸をすえること、の三つで、そうしたことをしながら信心の話を聞いてもらった。

あるとき山越えの道で、子を背負い両手に荷物を持った女の人に会った。源左さんはその荷物をもってあげて話をしながら峠を下り、「よう持たして下された。ようこそ、ようこそ」と言って別れ、家に帰ると「今日は大儲けした。大儲けした」とみんなにその話をした。人の荷物を背負うのは、自分の荷物を背負ってくださる阿弥陀さまへの恩返しのつもりであったという。

七〇過ぎの妹が帰るとき、その荷物を背負って峠まで送って行ったことがあった。峠に着くと妹が言った。「兄さんに重たいものを持ってもらって助かったけなあ。百円貰ったよりもうれしいぞなあ」。「お前がそがあに喜んでくれりゃ、おらも百円儲けたよりもうれしいがやあ。お前が百円儲け、おらが百円儲け、なんと今日は二百円儲けたどなあ」。そう言ってよろこび合って別れた。

米寿を迎えたころからほとんど外出しなくなり、やがて寝ていることが多くなり、苦痛を訴えることなく念仏を称えながら静かに往生した。これといった病気はなく老衰で自然に亡くなった。

     
源左さんの言葉

「わが身が大事なら、人さんを大事にせえよ」

「困ったときにゃ念仏に相談せえよ」

「人間生きとる間は、百年先のことを考えて、柿の木植えたり、栗の木植えたり、仕事せなならん。仏法のことや、後生のことは、今急いで、明日も知れぬと聞かにゃならんけえ」

「この心に相談すりゃ、まあちょっとと言うぞいな。いつ相談してもいけんけえのう。親さんに相談すりゃ、助ける、助ける、そのまんま助ける。いつ相談しても親さんには間違いないけんのう」

「我れが落ちようと思っても、親が先手をかけて、落とされんだけのう」

「こないだ家の猫が子を産んでやあ。親は子をくわえて上がったり下りたりするけど、親は落とさんわいなあ」

「たすかるとも。落とさん親が待って御座るだけ。悦ばして貰わにゃならんだけのう」

「十方衆生と呼びかけて下されてあるからにゃあ、虫も源左も同じことに助けて頂くだけのう。おらが助からにや親様が死ぬるとおっしゃるでのう」

「安心は出来いでも、お助けは違やせんけんのう。それで安心しなはれ。こっちゃ忘れても親さんは忘れんだけのう」

「三世に一仏、恒沙(ごうしゃ。ガンジス川の砂の数)に一体、仏の中の大王様が、われが生まれぬ先から後生を見抜いて下さって、助けにゃおかのの大願だけのう」

「親様にはい、と返事をすりゃあ、事は済んどるだがやあ」

「落ちるまんまを親様が助けて下さるだけのう」

「他人より悪いこの源左をなあ、一番真っ先に助けるの御本願だけえ、助からぬ人なしだがやあ」

「おらより悪い者は無いと知らして貰や、ええだけなあ。助ける助けんは、おらの仕事じゃないだけ」

病気のときに、「えらかろう。しんどかろう」と見舞いの人に言われての返事。「ちょっともえらいことはない。こんなことぐらい何でえらかろう。地獄に落ちる苦しみに比べてみなせえ。ちょっとも、えらいことはない」

やはり見舞い人に言った言葉。「えらいこたあ、ないだいや。蓮の花の上に寝させて貰っとるだけのう」

臨終間近の人に言った言葉。「親さんはお前を助けにかかっておられるだけ、断りがたたんことにして貰っておるだけのう。このまま死んで行きすりゃ親の所だけんのう。こっちは持ち前の通り、死んで行きさえすりゃええだいのう」

     
源左さんがよく口ずさんだ言葉

朝寝するなよ、もったいないぞ、明けてくださる、朝日さん。

仕事なされや、きりきりしゃんと、かけたたすきの、切れるまで。

忘れても、忘れぬ弥陀がある故に、忘れながらも、この身このまま。

あれば鳴る、なければ鳴らぬ鈴の玉、中に六字が、あればこそ。

たのむとは、声も形もなかりけり、すがる思いを、たのむとは言う。

わたしやづらがき(自在鉤)、あなたはこざる(留め木)、落としやせぬぞよ、火の中へ。

まいろまいろと、わしゃ気をもんだ、南無の二文字を、知らなんだ。

ただのただでも、ただならず、聞かねば、ただは貰われぬ、聞けば聞くほど、ただのただ、はいの返事も、あなたから。

参考文献「妙好人 因幡の源左」 柳宗悦編著 平成16年改訂版 百華苑

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