第二回インド旅行

平成十八年二月、三〇年ぶりにインドへ行ってきた。インドには心残りがひとつあった。それは八大聖地のうちのバイサリだけまだ行っていなかったことであり、今回の旅行でやっと聖地めぐりが満願になった。

バイサリ以外の初訪問地は、ブッダガヤの前正覚山(ぜんしょうがくさん)とスジャータの家の跡、クシナガラを流れる跋提河(ばつだいが)、世界最大の仏塔といわれる発掘途中のケサリヤの仏塔であった。また初めてガンジス川で沐浴をし、仏教の三霊樹(さんれいじゅ)の葉と、聖地の川の砂を持ち帰った。

インドの仏教聖地は四大仏跡とか八大仏跡などと今も呼ばれている。確かに以前は、仏跡と呼ばれても仕方のない聖地ばかりであったが、今ではたくさんの寺院が建ちならび、多くの参拝者で混雑している所もあるのだから、今は聖地と呼ぶべきだと思う。

成田からインドの首都デリーまで直行便で約九時間半、インド航空を利用したせいか乗客にはインド人が多く、臨席もコンピュータソフトの仕事でしばしば来日するというインド人男性であった。三〇年まえに来たときも飛行機はインド航空、臨席はやはりインド人であった。その人は大戦中にインパール作戦の巻きぞえで日本軍の飛行機に家を爆撃されたと言っていた。

隣のインド人は幸せ一杯という感じのインド映画を観て笑いこけていた。インド映画はこのような作品ばかりであり、人生いかに生くべきかといった映画は観たことがない。こういう映画を作る国で「人生は苦である。苦の原因は」などと説く仏教が興ったのは面白いことだと思う。

飛行機は日暮れにスモッグに覆われたデリーの上空に到着し、その汚れた空気の中に降下していった。空港を出たとき、変わらざる国といわれるインドもさすがに三〇年もたてば変わったかと思ったが、変わったのは大都市だけらしいとすぐに気がついた。

ただし車には大きな変化があった。三〇年前には乗用車はアンバサダーという国産の一車種しか走っていなかった。高い関税のため外国車は輸入できなかったのであるが、今は外国車ばかりという感じで日本車も多い。ところがガイドの話だと外国車といえど現地生産のみであり、今も輸入品には高額の関税がかかるという。

今回のガイドは四〇歳で三人の子持ちのクマル氏、疑問があればすぐに答えてくれるガイドがそばにいるのは最高の贅沢である。日本語はデリーの日本語学校で習った、デリーに日本語学校が四校ある、仏教聖地を回る日本人はそれほど多くない、仕事は年に六ヵ月間ほどある、バブルがはじけた後も日本人旅行者の数に変化はないがチップが少なくなった、などと言っていた。

三〇年ぶりとはいえ、自転車で引くリキシャ(人力車)も、小型三輪タクシーも、乗り合い馬車も健在であり、コルカタでは人間が引いて走るリキシャもまだ健在だという。すでに三〇年前その型のリキシャはコルカタ以外では走っていなかった。それが今も健在なのは禁止すると大量の失業者が出るからだという。バスの屋根に鈴なりに人が乗っているのも相変わらずなので、三〇年来の疑問「屋根の上はタダなのか」を質問をしたら、料金は同じだという。すし詰めの車内よりも屋根の上の方が気持ちがいいということか。

インドには道の駅という便利なものはない。だからバスで移動中のトイレ休憩はほとんど青空トイレであった。アメリカの西部開拓時代の幌馬車隊では、休憩のときには、男は右、女は左、というような具合に決まっていたという。これは良い方法であるが、インドは無人の荒野ではないからそう簡単ではなく、男はそのあたりで、女性はあそこの茂みの向こうで、というようにガイドが指示していた。

仏教聖地が集まるビハール州は、昔はインドの中心として栄えた地域であるが、今は一番遅れた州になっていて貧しい人々の姿が目についた。路上生活者の数も相当なものである。経済発展のおかげでデリーは近代都市になりつつあるし、上層階級は豊かになったようであるが、底辺の人々の生活は変わっていないように見えた。たくさんの貧しい人が存在することを自分の目で見るのはいい経験である。知らなければ何も変わらないが、知れば何か変わるかもしれないのである。

お金をやるから乞食がなくならないのだという人がいる。確かにその通りかもしれないが、インドでは乞食の子は乞食にしかなれないという現実もある。教育を受けたことがなく字も読めない人間が、いい仕事につきいい給与を貰うということはあり得ない。だから体力や知力に長けた貧しい人間が悪事に走るのは仕方がないともいえる。

インドの旅から学ぶことは多い。たとえば日本人は断ることが苦手であるが、インドの旅は断ることから始まる。乞食、物売り、大道芸人などしたたかな相手が無数にいて、絶えず断りの練習をさせてくれる。はっきりと拒絶すること、ときには人を無視すること、命令すること、堂々とした態度でチップを渡すこと、ホテルで紳士淑女のように振る舞うこと、など日本人が苦手とすることを練習するにはインドはよい旅行先である。

    
ブッダガヤの大塔

最重要の仏教聖地、ブッダガヤの大塔には夜八時ごろお参りした。午後九時まで参拝できるということで大塔はその時間でもにぎわっていた。二年前に世界遺産に登録された大塔はライトアップされており、しかも塔の周囲に点滅する電飾まで設置されていたので、カジノにでも来たような感じがした。三〇年まえは今よりもはるかに参拝者が少なく、しかもそのほとんどはチベット人か日本人であったが、今はスリランカ、タイ、台湾の人が多いようである。

高さ五二メートルの大塔は、一五〇年ほどまえにイギリス人の考古学者カニンガムによって発掘されたものであり、塔が地中に埋まっていたのは、イスラム教徒から守るために仏教徒が埋めて隠したからといわれる。ただしインドの平原地帯で地上に突き出ているものは、ことさらに埋めなくても放置しておけば風が運んできた土で埋まってしまうということもあり得る。大塔はヒンズー教の聖地にもなっている。地上に出ていた塔の上部がヒンズー寺院として利用されてきたからである。

その大塔の後ろで菩提樹の巨木が大きく枝を広げている。その枝の下に置かれた金剛宝座が釈尊成道の地である。金剛宝座の周囲には以前は石の柵があっただけなので、菩提樹に触ることも宝座を間近に見ることもできたが、今はそれら全体を高い柵が囲んでいる。この柵はオーム真理教の教祖が金剛宝座に入りこみ、私は仏陀の再来であるなどとやったことから設置されたという。

ブッダガヤの数珠屋は三〇年前よりもさらに悪質になり、今では日本人が来ると人数を繰り出して取りかこみ、むりやり自分の店に引っぱっていくということをしている。その強引なやり方には身の危険を感じるほどであり、こんなことになった原因と責任は日本人の側にもあるから、ブッダガヤでは一切買い物をしない方がよい。高価な買い物をする人がいなくなれば、ここに悪人は集まってこなくなる。このままだとこの聖地は悪人の巣になってしまう。

ブッダガヤの宿は意外にも畳敷きの和室であり、引き出しの中に和英対訳の仏教聖典が入っていた。またデリーの宿の引き出しには、英文の聖書とバガバットギーター(インドの宗教書)が入っていた。

聖地を訪れる人にひとつお願いをしたいことがある。それはお参りしたときには、きちんと読経や礼拝をしてほしいということである。日本では一般の人が五体投地の礼拝をすることはないが、聖地でまともな礼拝をしないのは日本人ぐらいであり、それを世界中の仏教徒が見ているのである。

     
前正覚山(ぜんしょうがくさん)

前正覚山は旅の予定に入っていなかった。私が行きたいと言うと、時間がないし道も悪いから無理とガイド氏。「ブッダガヤから見えているぐらいだから大した距離ではない。それに最近スジャータの家へ行く橋が尼連禅河(にれんぜんが)に架かったというから、さらに近くなったはずだ」と私が言うと、「見学する場所は山の向こう側にあるから、スジャータ橋のもう一つ下流の橋を渡って大きく迂回しなければならない。しかも道が狭くバスでは無理」、ということで結局、別料金でタクシーで行くことになった。

ブッダガヤから前正覚山まで四〇分ぐらい、道はかなりの悪路であるが、点在する集落の中を突っ切っていく、間近にインドの農家を見ることのできる興味深い道であった。タクシーの運転は乱暴きわまりなく、あれでは日本で二種免許はぜったいに取れない。

前正覚山は平地にぽつんとそびえる高さ二百メートルほどの岩山である。傾斜のきつい道も付いていないような山だが登ろうと思えば登れる。釈尊が修行したという洞窟は山麓のチベット寺院の境内にある。入り口は小さく中は広い、という洞窟としては理想的なトックリ形をしており、天井は高くはないが頭をぶつける心配はない。広さは八畳ほどなので二〇人も入ると身動きがとれなくなる。

洞窟の岩盤は中も外も線香とロウソクのススで黒光りしており、参拝者が多かったこともあって、洞窟内は人とロウソクの熱でむっとするほど暑く少し酸欠状態になっていた。正面に断食ブッダと呼ばれる仏像が安置されており、タイやビルマから来た人が金箔を張り付けたらしく金色に輝いていた。

     
スジャータの家の跡

スジャータは釈尊にミルク粥を供養した少女の名である。そのミルク粥が成道する前の釈尊の最後の食べ物になったことでその名が伝えられているのであり、セーナーニ村で一番豊かな長者の娘とも、最下層の身分の娘ともいわれる。

そのスジャータの家の跡という場所が大塔からそれほど遠くない所にあるが、私はこの言い伝えには根拠がないと思っていた。ところが行ったとき発掘作業がおこなわれていて、古い塔が半分姿を現していた。もしもこの塔がスジャータを記念して建てられたものならば、家の跡という言い伝えは正しいことになるのであろう。

塔はまだ半分が埋もれた状態なので上に登ることができた。登ったところに菩提樹の若木が一本生えており、そこから前正覚山がよく見えた。また別の方角にはヒンズー寺院が遠望できた。このヒンズー寺院のあるあたりに釈尊苦行の地ウルベーラーの苦行林がかって存在し、そこのガジュマルの木の下でスジャータがミルク粥を供養したとされる。スジャータ像があるというその寺には行かなかった。

スジャータ橋を渡っているとき、河原に人が集まっているのをガイドが指さし、あれは火葬をしているところだ、尼連禅河はガンジス川の支流の一つだから火葬のあと遺骨を川へ流せばガンジス川へ流れていく、ところが今は乾期で水が流れていないので遺骨はとりあえず河原に埋めておく、などと説明していた。そしてその近くには遺骨を埋めた砂の盛りあがりが幾つか見えた。雨期になれば水がすべてを流し去ってくれるのである。

     
ガンジス川で沐浴

ヒンズー教の聖地バラナシ市は以前はベナレスと呼ばれていたが、ベナレスは植民地時代に支配者のイギリス人が勝手に付けた名前ということで、元のバラナシにもどされた。ここで運転できたら世界中どこでも運転できるとガイドが言っていたが、人や牛やリキシャでごったがえす信号のついていない道を、センチの単位ですれちがって車が走り回っているのだからまったく同感であった。

ガンジス川の舟の上から日の出を見るのはバラナシ観光の定番なので、夜明け前に沐浴場へ行った。ガンジス川の川幅は五百メートルほどであり、対岸は木も草も生えていない砂地になっている。ところがこの対岸は本当の対岸ではなく川の中洲である。乾期のため流れが狭くなっているのであり、本当の対岸は三キロ先の木が霞んで見えている所にある。少し下流にある町パトナでは川幅が四キロあるため対岸は見えないという。

船着き場にもなっている中央の沐浴場は混雑していた。観光客のいちばん多い季節であるし、日の出のときは太陽神スーリヤに祈りを捧げるためにたくさんの人が沐浴するからである。
 舟で遊覧していたら物売りの小舟が次々に近づいて来た。ガンジス川の水を持ち帰る小さな金属製の瓶を売る船が来たので買ったら、目の前で川の水を詰めてくれた。生きた小魚を売る舟もあった。魚を逃がして功徳を積みなさいという放生池(ほうじょういけ)のような商売である。十ルピーは高いが功徳を積むために一匹逃がしてやった。つかまえては逃がし、つかまえては逃がしである。

ここで沐浴するのが目的の一つだったので、混雑している中央をさけて上流の沐浴場に舟を着けてもらった。沐浴希望者は私ひとりだけであった。乾期で水がひどく濁っている上にゴミが多く、そのうえインドとはいえ二月中旬の肌寒さを感じる早朝なので、水に入るのをためらっているとガイドが言った。「神様と一つになれるから、水が汚くても寒くても誰も気にしない。ガンジス川で沐浴して病気になった人はいない」

インド人は病気にならなくても日本人はなるかも知れない、などと思いながら服を脱いで川へ下りた。水着は宿を出るとき着てきた。雨季と乾季では十メートル以上水位が上下するため、沐浴場は川岸全体が階段になっている。「滑るから気をつけて」というガイドの言葉を背に慎重に一歩を踏みだした。

ところが水中の階段にはびっしりとコケが付いており、そのため一気に階段を滑り落ち、気が付くと背の立たない深みに入っていた。コケが多かったのは沐浴する人の少ない場所だったからであり、水がたまらないように階段に傾斜が付けてあるのも滑った原因である。しばらく泳いでから朝日を拝み短いお経を読んだ。水温は低いが寒さはまったく感じず気分爽快であった。ガンジス川は母なる女神ガンガーであり、この川で沐浴すればすべての罪が浄められるという。

     
入滅の地クシナガラ

釈尊入滅の地には涅槃像(ねはんぞう)を安置した涅槃堂が建っている。そこから一キロほど離れた所にラマバル塚という古いレンガ造りの塔がある。この塔は釈尊の遺体を火葬にした場所に建てられたものである。この塔の前で舎利礼文(しゃりらいもん)を読んでいたとき急に涙が出て止まらなくなった。聖地で泣く人は多く山田無文老師も涙が止まらなかったと書いているが、まさか自分が泣くとは思わなかった。涙で心の中が洗い流されてすっきりとした。

このラマバル塚の上に登ったことがある。今は公園のようにきれいに整備されているが、三〇年前は荒れ地のなかに崩れかけた饅頭型の塔があるだけだったので、塔の上に登ってあたりを眺めたのである。あとで説明書きを読んで火葬塚だと知り、これはまずいことをしたと思った。

跋提河(ばつだいが)は意外なほどラマバル塚の近くを流れていたが、ここを訪れる人は少ないという。この川の北岸の沙羅双樹の下で釈尊は般涅槃(はつねはん。完全なる涅槃)に入られたのであり、釈尊の末期の水はこの川の水だったのである。だからこの川は涅槃図には必ず描かれている。今はヒラニヤバティーと呼ばれているこの川は、昔は大河だったと伝えられているが、現在の川幅は数メートルしかなく、しかも乾期で水量が減っているため簡単に跳び越えることができた。

この旅行では聖地の川の砂を持ち帰った。これは聖地に行かなければ手に入らないものである。跋提河とガンジス川の砂は粘土のように細かく、尼連禅河の砂は粗く大きかった。砂は下流へ行くほど細かくなるのである。持ち帰った砂はきれいに洗ってから乾かした。インドの田舎では河原がトイレになっているからである。

     
バイサリ

八大聖地のひとつバイサリは、釈尊がしばしば訪れて滞在した場所であり、維摩経(ゆいまきょう)の舞台になった町であり、ジャイナ教の開祖マハービィーラ誕生の地である。釈尊時代の北インドには十六の大国があったとされ、その一つがバイサリを都とするリッチャビ族の国であった。この国は世界最古の共和制の国であったといわれ、通商の中心地として繁栄していたという。

バイサリは仏滅後百年に第二回仏典結集がおこなわれた所でもある。ただし仏典結集といってもその内容は戒律の修正問題に関する会議であり、このあと仏教教団は上座部と大衆部とに分裂し、上座部は戒を一切変えずに伝えていくことを決定したという。

ここのアショカ王の記念碑は、丸い石柱の上に一頭の獅子が載る砂岩製の石碑である。二千年以上の歳月を経ていながら、ほぼ完全な形を保ち表面のつやまで残っていることに驚かされた。その横で修復作業をしていた古い塔は、釈尊の遺骨を八つに分けて納めた塔の一つだという。

ここには釈尊に捧げるために猿たちが掘ったという長方形の池がある。水をどこから引いているのかきいたら雨水を貯めているだけだという。またここは猿たちが釈尊に蜂蜜を供養した所ともいわれ、そうした猿に縁のある聖地なので、この聖地を表す彫刻にはかならず猿が彫られている。芝生が広がる聖地の隅に小さなお堂があったので覗いてみたら、ヒンズーの神様が祭られていた。この聖地の鎮守さまといったところか。

初めて参拝したバイサリは、見るものは少ないが心引かれるのどかな場所であった。新しく作られた仏教寺院は三、四ヵ寺しかなく、日本の寺は日本山妙法寺のみだという。

     
娼婦アンバパーリーの話

涅槃経の中にアンバパーリーという娼婦が釈尊に食事を供養する話が出てくる。それを読むと当時のバイサリの繁栄がよく分かる。

「バイサリは富み栄え、人が多く、物資豊かで、七千七百七の宮殿、七千七百七の重閣、七千七百七の遊園、七千七百七の蓮池があった。遊女アンバパーリーがいたが、蓮華のように容色端麗で、舞踊、歌謡、音楽を能くし、求愛する人々に言い寄られ、一夜に五十金を受けた。彼女によってバイサリはますます繁栄した」

釈尊は最後の旅のときにもバイサリに立ち寄り、郊外にあるアンバパーリーのマンゴー林に滞在した。釈尊が自分のマンゴー林に滞在していることを知ったアンバパーリーは、さっそく美しい乗り物に乗ってそこへ行き、釈尊に近づいて挨拶すると一方にすわった。釈尊は法話でもって彼女を教えさとし励まし喜ばせた。

アンバパーリーが釈尊に言った。「尊い方よ。明日わたしの家で比丘たちとともにお食事をなさってください」

釈尊は沈黙でもって承諾の意を示し、彼女は承諾されたことを知ると座から立って別れの挨拶をし、右肩を向けてまわり出て行った。ついでリッチャビ人たちが車でやって来た。釈尊は法話でもって彼らを教えさとし励まし喜ばせた。

すると彼らも釈尊に言った。「尊い方よ。明日わたくしどもの家で修行僧たちとともにお食事をなさって下さい」

「リッチャビ人たちよ。私はすでに明日の食事を受けることを娼婦アンバパーリーに約束しました」

「ああ残念だ。我々は婦女子に負けてしまった。ああ残念だ。我々は婦女子にだまされた」

そしてリッチャビ人たちは座から立って釈尊に敬礼し、右肩を向けてまわり出て行った。一方のアンバパーリーは夜の間に食事を用意し、釈尊に告げた。「尊い方よ。時間でございます。お食事の用意ができました」

釈尊は朝早く修行僧とともに彼女の住居に赴き設けられた席に坐した。するとアンバパーリーは仏を上首とする修行僧の集いに、美味なる噛む食べものや吸う食べものを手ずから給仕して満足せしめ、釈尊が食べ終わって鉢と手を洗い終えると、下座の低い席にすわった。釈尊は法話でもって彼女を教えさとし励まし喜ばせ、座から立ちあがり去っていった。

     
最後の説法

バイサリの近くにある竹林の村は、釈尊が最後の説法をされた場所である。そこで雨期の安居をしていたとき、恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こり、その激痛を釈尊は禅定に入って耐え忍んだ。そのとき侍者の阿難(あなん)尊者が最後の説法を請うと釈尊が言われた。

「阿難よ。私はもう老い朽ち、齢を重ねて老衰し、人生の旅路を通り過ぎて老齢に達し、わが齢は八十になった。私の体は古ぼけた車が革ひもの助けでやっと動いているようなものだ。

しかし、向上に努めた人が一切の相を心にとどめることなく、一切の感受を滅した相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのからだは健全なのである。それ故に自らを島とし、自らを拠り所として他を拠り所とせず、法を島とし、法を拠り所として他のものを拠り所とせずにあれ」

この最後の説法の中の「島」は、漢訳仏典では灯火(ともしび)と訳されている。そのため日本でこの説法は「自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ」としては知られている。このあと悪魔がやってきて釈尊に入滅をすすめ、釈尊がそれを受けいれて入滅の決意をする場面が出てくる。釈尊は自ら決意して入滅したとされたのである。

バイサリは釈尊のお気に入りの地であったらしく、「阿難よ。バイサリはたのしい」という言葉や、バイサリを去るとき象のように町をふり返って言った、「阿難よ。これは私がバイサリを眺める最後である。さあバンダ村へ行こう」という言葉が伝えられている。

     
ケサリヤ(kesariya)の仏塔

バイサリの北四五キロにある発掘途中のケサリヤの仏塔は、直径一二二メートルという世界最大の仏塔であり、まだ半分だけ発掘された状態なので塔の上を歩いて回ることができた。

この塔が建てられた縁起としては、釈尊が出家したとき剃髪をした場所、最後の旅でバイサリの人々に鉢を形見として残した場所、かって釈尊が転輪聖王としてこの地を治めたとき無常を悟って出家した場所、などの説がある。玄奘三蔵の大唐西域記にはその三ヵ所とも載っており、三ヵ所すべてに大きな塔があったと伝えている。

ここは外国人がほとんど来ない場所なので、塔を見学していたら好奇心の強いインドの若者がたくさん集まってきた。ほかにチベット僧が一人見学に来ていたが、彼も若者たちにとり囲まれていた。このあたりのほとんどの人は、村の外へ一度も出ることなく一生を終えるとガイドが言っていた。ここへ来る道は旅人を疲れさせる曲がりくねった未舗装の道であったが、ガンジス川流域の農村地帯を貫く道なのでインドの広大さと田園風景を充分に味わうことができた。

     
アショカの木

仏教の三霊樹の葉が欲しかったのでガイドにそのことを頼んでおいた。三霊樹とは、釈尊の誕生に関係するアショカ、成道に関係する菩提樹、入滅に関係する沙羅(さら)、の三種である。ヒンズー教にも、菩提樹、ガジュマル、ミント、という三霊樹があり、ガジュマルはインドの国木ともなっている。そのためインドを旅していると菩提樹やガジュマルの大木が聖樹として祀られているのをよく目にする。なお沙羅とアショカの木はヒンズー教では特別視されていないという。

アショカは日本人にはなじみのない木である。これが三霊樹の一つになっているのは、摩耶夫人(まやぶにん)がルンビニでこの花を摘もうとして手を伸ばしたとき、その右脇から釈尊が生まれたとされるからであり、アショカの「ア」は否定の接頭語、「ショーカ」は「憂い、悲しみ」を意味するから、アショカは無憂樹(むゆうじゅ)と訳されている。仏教を保護したことで知られるアショカ王の名も同じ言葉なので、アショカ王は無憂王と訳されている。

アショカは高さ八メートルほどになるマメ科の常緑小高木であり、春一番に枝先や太い幹から花序を出して、赤みがかったダイダイ色の美しい小花をたくさんつけ、その花はインドの代表的な春つげ花になっているという。アショカの葉はブッダガヤの日本寺の庭で入手した。乾期のため葉に土ぼこりが付着しており、散りかけた花が少し残っていた。

     
菩提樹

仏教霊樹の極めつけはブッダガヤの大塔の菩提樹である。もちろんこの木は釈尊当時のものではなく、塔が発掘されてから植えられたものであり、手元の本によると現在の木は一八八五年に植えられた五代目とある。そしてそれはスリランカのアヌラーダプラの菩提樹から株分けされたものとされる。

なぜアヌラーダプラの菩提樹なのかというと、その木はブッダガヤの初代の菩提樹から株分けされた由緒正しい菩提樹とされるからである。スリランカには二つの宝物があるといわれており、その一つはアヌラーダプラの菩提樹、もう一つはキャンディーの仏歯(ぶっし)である。菩提樹は紀元前一世紀ごろ、スリランカに仏教を伝えたマヒンダ長老の妹サンガミッタが、尼僧になって来島したとき伝えたとされ、仏歯は紀元後三世紀ごろカリンガ国のグワシーバ王から贈られたものとされる。

菩提樹の葉はインドならどこでも手に入るが、私が欲しかったのはブッダガヤの金剛宝座の上に茂る菩提樹の葉であった。ところがこの葉はみなが狙っているらしく、いくら探しても一枚も落ちていなかった。もちろん木についている葉を取ることはできない。そんなことが許されるなら木が丸裸になってしまうし、第一はしごがなければとどかない。ということで大塔近くの別の菩提樹の葉を持ちかえった。

菩提樹は日本の寺にもよく植えられているが、それらは本物の菩提樹ではなく中国原産のシナノキ科の木である。中国には本物の菩提樹が存在しないので、仏教が中国に伝わったとき中国人は、葉の形が似ているこのシナノキ科の木を菩提樹の代用にしたのだと思う。そしてその木が日本に伝わり、その名前が定着したため、日本でもその木が菩提樹と呼ばれるようになったのであろう。日本にもこの中国菩提樹の亜種が自生している。それは大葉(おおば)菩提樹と、九州北部に自生する筑紫(つくし)菩提樹である。また西洋には西洋菩提樹がある。

こうした事情から覚樹(かくじゅ)とも呼ばれる釈尊がその下で開悟した菩提樹は、インド菩提樹が正式名になっている。この木はインドでピッパラとかアシュバッタと呼ばれるクワ科イチジク属の植物であり、イチジクと同様、花は外からは見えない。この木のハート型の葉はわずかな風にもそよぎ、さらさらと快い葉ずれの音を立てる。この音には耳の病を治す力があるといわれる。

タイを旅行したとき、宿の庭で小さなインド菩提樹を見つけたので、持ち帰って植木鉢で育てたことがある。ところが寒くなると落葉したので温室を持っている人に預け、春になると葉が出てきたのでそのまま数年間温室で育ててもらい、それから庭に移したがやはり枯れてしまった。インド菩提樹は日本では温室の中でしか育たないようである。

菩提樹の数珠(じゅず)というものが売られているが、インド菩提樹も中国菩提樹も数珠玉にするような実はできない。菩提樹の名がついた数珠玉には、金剛菩提樹、星月菩提樹、天竺菩提樹、蓮華菩提樹、日月菩提樹、鳳眼菩提樹、龍眼菩提樹、虎眼菩提樹などたくさんあり、こうして名前を並べてみると、珠数屋さんが売らんがために何にでも菩提樹の名を付けたことが分かる。

金剛菩提樹の数珠玉の正体は、インドジュズノキとかジュズボダイジュと呼ばれるホルトノキ科の木の実である。この実はルドラ神(シバ神の別名とされる)の目と呼ばれてインドでは神聖視されており、この実の数珠はインドの修行者になくてはならないものだという。また蓮華菩提樹の正体は蓮の実であるが、それ以外の数珠玉の正体は分からなかった。

     
沙羅の木

沙羅はフタバガキ科の植物であり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の呼び名は釈尊が二本の沙羅の木のあいだで入滅されたことに由来する。フタバガキ科の植物は図鑑で調べた限りでは日本に自生していないようであるが、沙羅の木の樹皮もその大きな葉も柿によく似ているから、フタバガキ科の「ガキ」は「柿」かもしれない。

沙羅はインド北部ならどこにでも生えており、今は見かけなくなったが以前はその葉をとじ合わせて皿にしていた。それに対して南インドではバナナの葉を皿にしていた。沙羅の木も日本の寺によく植えられているが、それらは沙羅とは別種のツバキ科のナツツバキである。本物の沙羅も日本では育たないのであろう。

沙羅の葉はクシナガラの涅槃堂前の双樹の下で拾った。私は三〇年前にこの二本の沙羅の木を見たことを覚えていた。ミャンマー寺院に泊めてもらったとき若い僧が「これが沙羅の木だ」と教えてくれたのであり、三〇年間にずいぶん大きくなっていた。ただしクシナガラにある沙羅の木はこの二本だけではない。聖地を整備したとき植えたらしく今この聖地は沙羅の木だらけになっているのである。沙羅は春に淡黄色の五弁の小花を多数つけるとあるが花は咲いていなかった。

     
信号のない国

インドは信号の無い国である。さすがに首都のデリーでは信号を見かけたが地方へ行くと数百万都市といえど皆無である。なぜ信号をつけないかときいたら、お金がない、停電が多く役に立たない、とガイド氏。もちろん信号がなくても車は問題なく流れている。環状交差点にすれば信号などいらないのである。

インドは自己責任の国である。信号が有ろうが無かろうが事故を起こすのは起こす人間が悪い、盗まれるのは盗まれる人間が悪い、だまされるのだまされる人間が悪い、という国である。もちろんそんなことをインド人が公言している訳ではないが、インドを旅していると、そんなことは当たり前だと誰もが思っていることを肌で感じる。

インドと対照的な過保護な国が日本である。そしてその過保護の代表が信号であり、多すぎる信号が交通の妨げになっている。これだけ無駄づかいをすれば国が借金だらけになって当然だと思う。ガイドと雑談していたとき、日本とインドは足して二で割るとちょうどよい、日本は何事においても過保護すぎる、インドは逆にほったらかしすぎる、と言って笑ったことがあった。

ただし信号に頼り切っていると、地震や停電のとき大混乱を招くことになる。信号機が使えなくなったときの交差点通過の規則が、世界最多の信号設置国、日本に存在しないのだから混乱するのは目に見えている。地震や停電のことを考えれば信号はないのが安心なのである。

     イ
ンド人の運転

インドの道路は幹線道路しか中央線が引かれていない。そのためインド人は対向車が走る部分であろうとお構いなく突っ込んでいく。またインド人はよく警笛を鳴らす。とくに追い越しをかけるときには鳴らしまくる。そのにぎやかな音が今も耳に残っているほどであり、初めのうちその警笛は「どけ。どけ。邪魔だ」と言っているように聞こえた。

ところが乗っていたバスの警笛が故障したことがあり、あんなに鳴らせば壊れて当然だと思っていたら、なぜかそれからまったく追い越しをしなくなった。その理由はトラックの後ろに書いてあった。そこには「警笛を鳴らせ」と書いてあったのである。

つまり「警笛を鳴らして追い越しを知らせろ」というのであり、逆に言えば警笛を鳴らさないと追い越しができないらしい。だからにぎやかな警笛は、「追い越しをするから道をゆずってくれ」という意味で鳴らしていたのであり、自分が鳴らしまくるだけに鳴らされたときにはすぐに道をゆずっていた。また「追い越しをするときにはライトを遠目にして知らせろ」と書いた車もあった。まさに所変われば品変わるである。

参考文献
「中村元選集第十一巻 ゴータマ・ブッダ」昭和四十四年 春秋社
「仏教の三霊樹」西岡直樹 大法輪誌 二〇〇五年一月号〜三月号
「大唐西域記2」水谷真成 1999年 東洋文庫

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