達磨さんの話
招福の縁起物として親しまれている張り子のダルマは、中国禅宗の祖、達磨大師の変わり果てた姿というべき人形である。その達磨大師の生涯を、景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)という禅書からの引用でご紹介したい。景徳伝灯録には伝灯の祖師一七〇一人の記録が収められており、書名の景徳は景徳元年(一〇〇四年)にこの本ができたことによる。
伝灯録にまず登場するのは過去に出現した七人の仏祖、過去七仏(かこしちぶつ)であり、その最後は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ。お釈迦さま)である。そしてそのあとに、インドで禅の法灯(ほうとう)を伝えた二八人の祖師、西天二十八祖(さいてん・にじゅうはっそ)が続き、その第一祖は釈尊の法を嗣いだ摩訶迦葉(まかかしょう)尊者、第二十八祖が中国へ禅を伝えた達磨大師である。つまり中国の禅は達磨大師から始まるのであり、そのため初祖菩提達磨大師(しょそぼだいだるまだいし)がダルマさんの正式な呼び名となっている。
達磨大師は南インド香至国(こうしこく)の第三王子であった。第三王子が二十八祖になったいきさつを伝灯録は次のように伝えている。あるとき香至国王が値も付けられない高価な宝珠を、二十七祖の般若多羅(はんにゃたら)尊者に布施した。尊者はその宝珠を三人の王子に見せながらたずねた。
「この珠は円明なり。よく此れに及ぶもの有りや」
すると第一子と第二子は答えた。「この珠は七宝(しっぽう)中の尊なり。もとより及ぶものなし」。
ところが第三子、菩提多羅(ぼだいたら)の答えは違っていた。「これは世宝にして、いまだ上となすに足らず。諸宝の中においては法宝を上となす。これは世光にしていまだ上となすに足らず。諸光の中においては智光を上となす。これは世明にしていまだ上となすに足らず。諸明の中においては心明を上となす」
つまり、最上の宝は仏法である、最上の光は智慧の光である、最上の明かりは心の明かりである、というのである。こうして菩提多羅は尊者の弟子となり、名を菩提達磨と改め、やがて二十八祖になったのである。達磨大師は多年にわたりインド各地で法を説きながら、師の遺命を果たすべく中国布教のときを待っていた。そして正法が充分インドに広まったのを見とどけると、海路で中国へ渡った。
梁(りょう)の普通八年(西紀五二七年)九月二一日、大師は広州に上陸した。そのときの中国は南北朝の時代であり、広州を含む中国南部は梁の武帝(ぶてい)が治めていた。武帝は仏法興隆に尽くしたことや、中国で初めて盂蘭盆会(うらぼんえ。お盆)や施餓鬼(せがき)法要をおこなったことで知られる皇帝である。武帝は大師が来たことを知ると、さっそく金陵(きんりょう。南京)に招き質問した。
「私は即位してから数えきれないほど、寺を造り、経を写し、人を出家させた。どれほどの功徳があるのだろうか」
「無功徳(むくどく)」
「なぜ無功徳なのだ」
「それらは真の功徳ではない。まだ迷いの世界に属するもの、影が形にしたがっているようなもの、有るといっても実ではない」
「ならば真の功徳とは何か」
「浄らかな智慧は妙円にして体おのずから空寂である。そのような功徳を世の人は誰も求めようとしない」
「仏法の第一義は何か」
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
「そなたは一体、何者なのだ」
「不識(ふしき。知らず)」
武帝は大師の言うことが理解できなかった。そのため大師は金陵を去って揚子江を渡り、洛陽(らくよう)から遠からぬ嵩山(すうざん)の少林寺に留まり、終日、黙然と、壁に向かって坐禅をした。この風変わりなインド僧を人は壁観婆羅門(へきかんばらもん)と呼んだ。その坐禅が九年間におよんだことから、これを面壁九年(めんぺきくねん)という。
あるとき神光(じんこう)という僧がうわさを聞いてやって来た。しかし大師はひたすら坐禅をするのみで相手にしなかった。十二月九日の夜は大雪になり、積雪は神光のひざをこえた。大師はそれを見て哀れに思いたずねた。
「汝、久しく雪中に立って何を求めているのか」
「ただ願わくは、和尚、慈悲をもって甘露の法門を開き衆生を救いたまえ」
「諸仏の無上の妙道は果てしない精勤であり、行じがたきを行じ、忍びがたきを忍ぶことである。小徳、小智、軽心(きょうしん)、慢心にして求むべきものではない」
神光は刀を取って左腕をひじから切り落とし、大師の前に置いた。大師は神光が法の器であることを知り、弟子になることを許し慧可(えか)の名を与えた。慧可が質問をした。
「私の心は安らかではありません。どうしたら安らかになるのでしょう」
「その心をここへ出してみよ。安らかにしてやろう」
「不安な心を探しても、どこにも見つかりません」
「心が安らかになったであろう」
こうして慧可は法を嗣いで二祖となり、禅は徐々に中国に広まっていった。
大師は風のごとく雨のごとく、あまねく甘露の正法を施した。そのためその活動をうらやむ者によって毒を盛られ、六度目に毒を盛られたとき、説くべきことは説き、法を伝える人も得たと、太和十九年(西紀四九五年)十月五日、端然として亡くなった。一五〇歳であった。
遺体は熊耳山(ゆうじさん)に葬られ、塔は定林寺に立てられた。熊耳山は熊の耳のように二峰が並びそびえていることから付けられた山名だという。なお西紀五二七年に中国に来て、四九五年に亡くなるはずはないが、原文はそうなっている。年号の書きまちがいかもしれない。
三年後、宋雲(そううん)という僧が西域を旅しているとき、葱嶺(そうれい。パミール高原からカラコルム山脈にかけての山域)で達磨大師に会った。大師は手に履き物の片方をぶら下げていた。宋雲が尋ねた。
「先生はどこへ行かれるのか」
「インドへ帰る」
帰国した宋雲は皇帝にそのことを報告し、皇帝は大師の墓を調べさせた。すると棺の中は空っぽで、ただ履き物の片方のみが残っていた。後に皇帝から円覚大師の名を贈られた。
参考文献「景徳伝灯録巻三。第二十八祖菩提達磨」
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