兜率の三関(とそくのさんかん)

ここでいう兜率(とそつ)は、兜率和尚と呼ばれた十一世紀の中国の禅僧のことである。この和尚は兜率寺の和尚ということで兜率和尚と呼ばれたのであり、その兜率という言葉は菩薩が仏になるための最後の修行をする場所、兜率天から来ている。

兜率和尚は力のある人だったので、腕に覚えのある修行者が武者修行のためたくさん兜率寺にやって来た。すると和尚はいつも三つの問題を出して修行者のできを調べた。それが無門関第四七則に載っている兜率和尚の三つの関門、兜率の三関(さんかん)である。

「兜率悦和尚、三関を設けて学者に問う。撥草参玄(はっそうさんげん)はただ見性(けんしょう)を図る。即今、上人(しょうにん)の性(しょう)、いずれの処にか在る。自性(じしょう)を識得すれば、まさに生死を脱す。眼光(がんこう)落つる時、そもさんか脱せん。生死を脱得(だっとく)すれば、すなわち去処(きょしょ)を知る。四大分離して、いずれの処に向かってか去る」

第一の関門は、「草をかき分けて参禅学道の旅をするのは、ただ見性を目的とする。ならば汝の性は今どこにあるのか。ここへ出してみよ」である。見性とは自己の本心本性を徹見することであり、直指人心・見性成仏(じきしにんしん・けんしょうじょうぶつ)の旗印のごとく、「衆生本来仏なり」という本心本性を徹見することで成仏するのが、禅のやり方なのである。

第二の関門は「本性を徹見すれば生死の問題を解決できる。ならば死ぬときにはどのように死ぬのか」である。「眼光落つる時」は死ぬことを意味しており、禅の道場では死に方まで師匠が教えてくれるのである。

第三の関門は、「生死の問題を解決すれば死後どこへ行くか分かるはずだ。その行き先を示してみよ」である。本心に目覚めれば、死ぬとどこへ行くのかも、後に何が残るのかも、分かるのである。

この兜率の三関のような問題を公案(こうあん)と呼び、師匠から与えられた公案を、坐禅をしながら究明していく修行法を公案禅といい、公案をめぐって師匠と一対一でする問答を禅問答という。

仏教は無我の教えであり、無我を体得する修行である。生きながら自分が無くなった大安楽の世界、寂滅をもって楽と為すという世界を体験するのが仏教である。だから無我に徹すれば公案は手の平を見るごとく明らかになるのである。

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