中国西域の話

平成十七年の夏、中国領中央アジアを旅してきた。私にとって初めての中国旅行の行程は、中部空港出発、上海(しゃんはい)、西安(せいあん)、敦煌(とんこう)、ウルムチ、トルファン、カシュガル、カラクリ湖、カシュガル、ウルムチ、上海、中部空港帰国であった。

この旅行では以下のことを調べてみたかった。これらはもちろん一週間の旅行で調べられるような内容ではないが、こうした目標があったお陰で、ある程度の収穫はあったと思う。

なぜ中央アジアの仏教は滅びたのか。
中央アジアに仏教は残っていないのか。
西域のどこまでが中国なのか。
西域の人たちは自分が中国人だと思っているのか。
インドから中国への仏教伝播は、なぜ最短のチベットを横断する道ではなく、西の方へ大回りする道でおこなわれたのか。

この旅行をするまで、中国がこんなに日本の身近な国になっているとは知らなかった。上海のテレビは日本のNHKや衛星放送の番組を日本と同時放送していたし、博物館や有名な観光地には日本語の解説者が必ずいた。日本と中国はすでに運命共同体に近い関係になっているようであり、互いに仲よくやっていかなければならないと思った。とはいえ警察官や役人がいばっている国を旅するのは、あまり愉快なことではなかった。

     
敦煌

敦煌の町は、中国と西域とを結ぶ河西回廊(かせいかいろう)と呼ばれる交通路の西の端にあり、漢の時代にはここが中国の西の果てであった。町の人口は三万人ほど、水がないからこれ以上の発展は望めない、とガイド氏。ここは沙州(さしゅう)と呼ばれる砂ばかりの土地なのである。

西安を離陸した飛行機はずっと砂漠の上を飛んできた。砂漠の空はいつも晴れているだろうという思い込みがはずれ、飛行機の下には雲海がしつこく広がっていた。それでも時おり雲の切れ間から赤茶けた大地が見えた。大地には魚の鱗のようなひだが刻まれており、大雨が降ると濁流が地肌を削って流れることが分かる。

敦煌の町は山に囲まれているが、山が遠く土地が真っ平らなため、大きなお盆の中に着陸したように感じた。台風で出発が一日遅れたため、敦煌では鳴砂山(めいさざん)と莫高窟(ばっこうくつ)しか回れなかった。

鳴砂山は鳴き砂の山、鳴き砂は歩くと鳴くように音をたてる砂地、であり、砂が鳴く場所は日本の海岸にも何ヵ所かある。ただし鳴き砂は汚れると鳴かなくなるから、観光用のラクダのフンで汚れた鳴砂山の砂は鳴かなかった。鳴砂山の下に月牙泉(げつがせん)という泉がある。三日月形をしているのが名前の由来であり、砂漠の中にありながらも涸れたことがないということで道教の聖地になっていた。ここの公衆トイレに行ったとき、トランプ遊びをしていた数人の男が「ユウリョウ」と言って手を出した。こうして毎日こづかい稼ぎをしているらしい。

莫高窟は鳴砂山の東にある崖に、五世紀から十五世紀の千年間に作られた石窟寺院群であり、莫は砂漠の漠から来ているという。現在確認されている石窟の数は四九二、そのうち一般開放されているのは二七、その中に有名な敦煌文書が発見された第十七窟も含まれており、ほかに特別料金で入れる十三の窟がある。なお莫高、龍門(りゅうもん)、雲崗(うんこう)、の三つを中国三大石窟寺院という。

ここで最大の仏像は第九六窟の弥勒大仏である。三四・五メートルという奈良の大仏の倍の高さがあるこの大仏は、大きさからしても、中央に位置していることからしても、莫高窟全体の本尊と考えられるので、この大仏さまの前で読経をした。読経が終わってからふり返ると、いつの間にか衆人環視の状態になっていた。

莫高窟は規模の大きさだけでなく、保存の良さにも驚いた。この旅行で見学したここ以外の仏教遺跡は、すべて何らかの破壊を受けていたが、ここには破壊の手が及んでいないようである。その理由はおそらく今もここに仏教徒が住んでいることであろう。ガイドの話では、敦煌の町には今も漢民族の仏教徒が住んでいて、仏教寺院も一ヵ寺ある、昔はもっと沢山あったが文化大革命ですべて破壊され、十五年ほど前にその一ヵ寺が新たに作られた、ということであった。今回の旅行の心残りは、そうした町の中の寺を見ることができなかった点である。

ガイドが仏教と道教は中国に残っているが、儒教は残っていないと言っていた。儒教は国を治めるための教えであるから、共産主義との並立は難しいかもしれないが、中国人は儒教を完全に捨ててしまったのだろうか。漢民族だというガイドに、「あなたは無宗教だというが、家族が死んだらどうするのか」と聞いたら、お別れ会をして埋葬してそれでおしまい、という答えであった。

敦煌の西には沙河(さが)とか流砂と呼ばれる砂漠が広がっている。砂が深いためにそう呼ばれるのであり、四世紀末にここを渡った法顕三蔵(ほっけんさんぞう)は、そのときの状況をこう書き残している。

「敦煌に停まることひと月余日、敦煌の太守の供給(くきゅう。援助)により沙河を渡る。沙河中、多く悪鬼熱風(あっきねっぷう)あり。遇えばすなわち皆死す。一も全き者なし。上に飛鳥なく、下に走獣なく、遍望極目(へんぼうきょくもく。見わたす限り)、渡る所を求めんと欲して、すなわち擬する所を知るなし。ただ死人の枯骨を以て、標識となすのみ。行くこと十七日、計るにおよそ千五百里あるべし、ゼン善国(ぜんぜんこく。楼蘭)に至ることを得たり」

また梁(りょう)高僧伝にはこうある。「上に飛鳥なく、下に走獣なし。四顧茫々(しこぼうぼう。見わたす限り果てしなく)として、おもむく所を測るなく、ただ日を視て以て東西になぞらえ、人骨を望んで以て行路を標するのみ。しばしば熱風悪鬼あり。これに遇えば必ず死す」

これらの文は西域を紹介する時には、必ずといっていいほど引用されるものである。私たちはその熱風悪鬼の砂漠を飛びこえてウルムチに入った。

     
ウルムチ市

天山(てんざん)山脈の東に位置するウルムチは、世界でもっとも海から遠い都市といわれ、いちばん近い海まで二二五〇キロあるという。人口は約二百万人、天山からの水のお陰でここまで発展できたとガイド氏。

天山の北側や東側では雨がよく降るということで、到着したときウルムチは雨だった。しかも八月というのに空港の建物を出たとき肌寒さを感じた。ここの緯度は北海道の北部に相当するのである。ここの市場でトラックに山積みにされたトウガラシを見た。その量の多さに驚いた。

新疆(しんきょう)ウイグル自治区博物館の目玉は砂漠で発掘されたミイラである。ミイラと言ってもエジプトのような人工的なミイラではなく、埋葬した遺体が自然乾燥してできたものであり、全部で十体展示されていた。その中でとくに有名なのが三〇年ほどまえの発見時に、日本でも大きく報道された楼蘭(ろうらん)の美女ミイラであり、ここでお目にかかるとは思わなかった。楼蘭は遺体がミイラ化しやすい、きわめて乾燥した土地だという。

新疆は美女の産地というから、生前は本当に美女だったかもしれないこのミイラは、ひふも完全に残っており、あまりに保存状態が良すぎるため、作り物ではないかと疑ったほどである。その美女ではないが、「このミイラの足がO脚なのは、いつも馬に乗っていたからだ」という説明は面白かった。

中国の博物館には、日本人をカモにしているような売店が付属しており、その商魂のたくましさにあきれた同行者が、これでは博物館の展示まで信用できなくなると言っていた。ウルムチの次は高速バスで三時間走りトルファンへ行った。

     
トルファン

トルファンは絹の道の天山南路(てんざんなんろ)と天山北路の分岐点にあり、現在も天山南麓を通って中国最西のカシュガル駅へ行く南疆線(なんきょうせん)と、天山の北側を通って隣国のカザフスタンへ向かう蘭新線(らんしんせん)との分岐点になっている。

トルファン盆地は高温、乾燥、強風の三つがそろった場所なので、火州(かしゅう)と呼ばれている。年間雨量はわずか二〇ミリ、四〇度以上の酷暑の日は年間三五日から四〇日、最高気温は四七度以上、地表の温度は七〇度以上にもなる、という場所であり、郊外の丘の上には、強風を利用した風力発電の風車が数え切れないほど並び、初めて見るトルファンの町は砂嵐の中に霞んでいた。

ここは世界有数の低地でもある。アイディン湖の標高マイナス一五四メートルは、西アジアにある死海のマイナス三九七メートルにつぐ世界第二の低地であり、そのため新疆から外へ流れ出る川は、北部のジュンガル盆地から北極海に注ぐエルティシ川しかないという。つまり他の川の水はすべて蒸発して消滅するのである。

「さまよえる湖」として有名なロプ・ノールも、今はほとんど消滅状態になっており、山上からの雪解け水の多いときに浅い湖ができるだけだという。手前で灌漑用に水を使うため、水が湖に届かないのである。

この過酷な環境のトルファン盆地に、何が良くて人が住むのかと不思議に思うが、カレーズと呼ばれる地下水路で天山から水を引いて、昔から人が住み続けてきたのだから、何か良いことがあるのだろう。トルファンの町ではロバやオートバイが引く荷車をよく見かけた。バス代わりの乗り合いの荷車も走っていた。ぶどうの産地らしく、ぶどう棚の街路樹が木陰をつくる魅力的な道があり、実がたくさん下がっていた。

トルファン観光の目玉は、五〜七世紀に栄えた高昌国(こうしょうこく)の遺跡、高昌故城である。この漢民族の移民が建てた高昌国に、玄奘(げんじょう)三蔵は二ヵ月ほど滞在している。密出国してインドを目ざしていた玄奘三蔵は、ここで手厚い歓迎を受け、旅の庇護を先々の国に頼んでもらうこともできたのであり、彼が書き残した大唐西域記の出発点が高昌国になっているのは、当時はここが中国の西の果てだったからであろう。

高昌国は彼が出発したあと唐に滅ぼされ、それが理由かもしれないが彼は帰国のときにはこの道を通らなかった。高昌国が滅びてからウイグル族が王国を建国し、ベゼクリク千仏洞に代表される高度な仏教文化が栄えたが、千仏洞のたくさんの仏画にはすべて泥が塗られていた。いくらイスラム教に改宗したとはいえ、これは先祖の顔に泥を塗るような行為だと思う。

トルファンから、一九九九年に開通した南疆線で西の果てカシュガルへ向かった。トルファン駅のトイレは、個室に戸が付いておらず中が丸見えだった。ディーゼル機関車が引く二階建ての寝台列車は、ベルも放送もなく定刻に発車し、六〇キロの速度であせらず着実に荒野を進んでいく。およそ二一時間の旅である。広軌のせいか揺れは少なく、寝たまま字を書くことができた。

窓の外には木も草も生えていない荒涼とした大地が続き、その眺めはパキスタンやアフガニスタンの旅を思い出させた。蓄積した塩のために地表が白くなっている場所があるのも同じだった。アクスの辺りで天山から流れてくるたくさんの川を横切った。川のある所には集落があり、集落には必ずポプラが植えられていた。水さえあれば人が住める土地なのであるが、水が流れている場所であっても草木はそれほど多くない。帰国して北陸道を走っているとき、日本の山には何でこんなに木が生えているかと奇妙に感じたほど、日本と中央アジアの景色の違いは大きいのであり、山に木が生えているのは当たり前のことではないのである。

     
カシュガル

中国最西部の中心都市カシュガルはパミール高原のふもとにある。持参した高度計は一三五〇メートルを示しており、これが爽やかな気候の理由であろう。二五万人の人口の九一パーセントがウイグル族ということで、町に中国的な雰囲気はほとんどない。この町は中国最西の砦であり、宿の受付に軍人優先と書かれた意味深長な木札が置かれていたから、有事の際にはホテルは軍の管理下に置かれるのだろう。

私たちはこの最果ての地で三食とも中華料理を食べていた。ここの朝食には米、ヒエ、アワの三種類のお粥が出た。この旅行の食事はおいしく、とくに新鮮野菜の炒めものは、うさぎ年うまれの私にはありがたかった。ただしコリアンダーという香菜が何にでも入っており、この臭いが嫌いだと言う人もあった。

中国国内には時差がなく、北京から遠く離れたウイグル自治区でも北京時間がそのまま使われている。そのため夜は十時ぐらいまで明るく、夜が明けるのは八時すぎであった。ただし地元の少数民族は二時間遅れの新疆時間を使っているという。

カシュガルへ来なければ新疆に来たことにならない、という言葉があるというが、確かにここに来てから旅行がおもしろくなってきた。とくに中国最大のモスク、エイティガール・モスクの奥にある職人街のバザールはおもしろかった。バザールの商人はみんなしたたかではあるが、親切でもあった。ナッツ屋の店先に何十種類もの木の実が置いてあったので、それらをすべて味見してみたいと思ったが、どうしたらよいか分からなかった。帰国してから、いくらかお金を出して味見させてもらえばよかったと気がついた。

町の中にシルクロードの十字路と呼ばれる交差点があった。「こちらはパキスタン、こちらはウルムチ、こちらはホータン、こちらはタクラマカン砂漠」とガイドが言っていた。

カシュガルの現地ガイドはウイグル族のヤリクン・ヤコブ氏、九歳と七歳の男の子がいるという三八歳の知的なイスラム教徒である。医学を学んでいるとかで、将来は医者になりたいと言っていたが、この歳でなれるのだろうか。「あなたは中国人か」ときくと、「私は中国人ではない。中国人というのは漢民族のことをいうのだ」という返事であった。

イスラム教徒は一日に五回、礼拝しなければならない筈である。「ガイドの仕事をしていると日中は礼拝できない。朝、一日分まとめて礼拝して来たのか」と質問すると、「神さまは優しいから大丈夫。年とって時間ができたら一生懸命に礼拝する」。エイティガール・モスクの壁に六つの時計が掛けてあり、それぞれが別の時間を示していたので理由をきくと、外国人が自国の時間で礼拝するための時計だという。

「モスクへ来なくても、自分の家で礼拝すればいいではないか」と言うと、家で礼拝するよりモスクでする方が良いとされているという。これは団結心を強めるための作戦だろうと思った。「女性はどうして来ないのか」ときくと、女性は家ですることになっているという。女性が団結することには反対らしい。

イスラム教徒は写真を嫌うと思っていたが、カシュガルではそのようなことはなかった。一声かけてからカメラを向けたが断られたことはなく、とくに子供たちは喜んでポーズをとってくれたし、顔を隠している女性もほとんどいなかった。

     
パミール高原

カシュガルからパキスタン行きのバスが出ている。国道三一四号線、通称、中パ道路がパミール高原を越えてパキスタンへ通じているのである。ただしパキスタンへ行くには中国側最後の町タシュクンガルで一泊しなければならず、カシュガルからそこまで二九四キロの距離だが悪路のため一日かかる、国境の手前に三ヵ所、検問所がある、という話であった。

そして二日目に、クンジュラブ峠(標高四七三三メートル)の手前で中国を出国し、峠の向こうでパキスタンに入国するが、中パ国境は確定しておらずこの国境は暫定的なものだという。なおこの道路は冬は雪のため閉鎖される。

私たちは、その中パ道路を通ってパミール高原の奥へと向かい、タシュクンガルの手前にあるカラクリ湖まで行った。カシュガルの郊外には平地が広がっていた。点在する集落に入ると、幹の白いポプラが道路ぞいに密に植えられており、ポプラの木に隠れるように民家の小さな入口があった。

平地を抜けるとバスはゲーズ川沿いにパミール高原の奥へと進む。落石の巣のような崖下の道が続く。ゲーズ川は濁った急流のかなりの大河である。これだけの水が砂漠の中で消滅するというのは、信じられないような話だと思った。カシュガルの東にあるホータンは玉(ぎょく)の産地として有名であり、ゲーズ川の上流でも玉が採れるという。

やがて霞の中に、パミール高原最高峰のコングリ山(七七一九メートル)が見えてきた。バスはコングリ山に向かってまっすぐ進み、山を一望する所で写真休憩をとった。山頂までの標高差が五千メートル以上あるのに、山全体を見渡すことができる。見るものすべて規模が大きい。山を回りこんで道がついているので山の裏側も見た。

一時ちょうどにカラクリ湖に到着。「カラクリ湖、名前の覚え方はかたくり粉」とガイド氏。カラクリは「黒い湖」の意味だというが、遠目には黒く見えても水は冷たく澄んでいる。対岸には「氷河の父」と呼ばれるムズターグ・アタ山(七五四六メートル)が鎧のように氷河をまとってそびえ、ふり返ると雲の中にコングリ山が霞んでいた。

高度計は三五七〇メートルを示しており、薄い空気のため動き回っていると息が切れる。湖畔の食堂で昼食、空気が乾燥しているせいか、道端のくだもの屋で買ってきた洋ナシとウリがおいしかった。ここのトイレは、縦二メートル横四メートルほどの穴の上に板を渡しただけのもので、三〜四人が同時に使用できるが丸見えである。シートで囲ってあるが屋根はなく、雨が降ったらどうするのかと心配した。足をすべらせて落ちたら悲惨である。ここがこの旅行の最西の地であり、地図を見るとタジキスタンとの国境がすぐ横を通っていた。

バスに水枕のような酸素ボンベが積んであった。はじめは水枕に酸素を詰めてきたのかと思ったが、説明文を読んで酸素ボンベとして作られたものと知った。ためしに吸ってみたらゴムの臭いがした。圧がかかっていないから押さないと酸素は出てこず、かさばるのも難点だが、浮き袋になる利点はある。

     
仏教北伝の道

玄奘三蔵はインドからの帰路にここを通過した。彼はアフガニスタンからパミール高原に入り、タシュクンガルからカシュガル、そして西域南道を通って長安へ帰ったのである。大唐西域記にカシュガルはこう記されている。

「伽藍は数百ヶ所、僧徒は一万余人、小乗教の説一切有部(せついっさいうぶ)を学習している。篤く仏法を信じ、福徳利益の行に精励している」。今では住民のほとんどがイスラム教徒というこの地に、七世紀には仏教が栄えていたのである。

もう一人の大旅行家である法顕三蔵は、インドへの往路でここを通過した。彼は天山南路の途中からホータン川ぞいにタクラマカン砂漠を横断し、ホータンからタシュクンガル、そしてパミール高原とカラコルム山脈を越えてパキスタンへ南下したのであり、カシュガルは通らなかったらしい。

今回の旅行では、パミール高原とカラコルム山脈の境はどこか、法顕三蔵はどこで山越えしたか、ということも調べてみたかった。このあたりの詳しい地図が日本で手に入らなかったからであるが、現地でも役に立つ情報は得られなかった。山越えの道があったのは確かだと思うが、道と呼べるような道ではなかったかもしれないし、あったとしても今は廃道になっているかもしれない。

現地ガイドが、パミール高原とカラコルム山脈は同じ山だ、中国ではパミール高原、パキスタンではカラコルムと呼んでいるのだと説明していたが、これは間違いだと思う。パミール高原の最高峰はコングリ山、カラコルムの最高峰は世界第二の高峰K2(ケーツー。8611メートル)、となっているからである。あるいは国境の中国側がパミール高原、パキスタン側がカラコルムと呼ばれている、ということかもしれない。だとすると国境のある稜線が境ということになる。

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