ブータンの話
平成十七年三月初旬、ヒマラヤ山脈の東端にある小さな王国ブータンへ行ってきた。この国は、国民の大部分が敬虔なる仏教徒という国であり、しかも絶対君主制の国である。つまりこの国には国王の権力を制限する法律が存在しないのであり、そのうえ国王親政というから、この国では王様が法律なのである。
ブータンは正式国名をブータン王国といい、国土の大きさは九州より少し広い程度、人口は約七〇万人である。だから私が住んでいる福井県の約八〇万人よりも人口は少ない。ただしガイドの説明によると、戸籍が整備されていないので正確な人口は分からないという。「戸籍がなければ税金が集められない。ひょっとして税金がないのでは」ときいてみたら、住民登録はおこなっているから税金はあるという。
国土は東西に長い四国に似た形をしており、首都や空港などの国の重要機能はその西部に集中している。そのため今回旅行したのは道の整備が進んでいる西部地域だけであった。整備が進んでいるといっても、山国ブータンに五〇メートル以上の直線道路はなく、乗り物酔いの薬を持参したのは正解であった。極端に道が悪いという東部地域まで足をのばす旅行者は少ないが、それだけにおもしろそうでもある。
首都ティンプーは標高二千四百メートルのところにある。これは立山の室堂(むろどう)と同じ標高であり、そのためエレベーターのない宿の三階まで階段で上ると息が切れた。この国の緯度は沖縄とほぼ同じであるが、高い標高のため夜はかなり冷えこむ。
ブータンに飛行場は一つしかない。ほかには軍の飛行場もなく、この国の軍隊は陸軍だけだという。ブータンに乗り入れている航空会社はブータン王室航空のみであり、四機の飛行機がタイ、インド、ネパールとこの国を結んでいる。そのブータンでただ一つという飛行場に近づいたとき、雪で真っ白にかがやく、尖った山頂をもつ山が見えてきた。こんな三角形の山は日本では見たことがない。これがブータン西部の最高峰、チョモラリ山(七三一四メートル)であった。飛行機が旋回したため写真は撮りそこねたが、この山は後日ゆっくり見る機会があった。
ブータン国際空港は狭い谷底に作られた小さな空港である。そのため飛行機が旋回しながら谷の中へ降下していくと、両側に谷の斜面が迫ってきて、それらがうしろに飛び去っていく。斜面には棚田がすき間なく並び、ところどころに家も見える。そして棚田を見上げる高度まで降下したとき飛行機は着陸した。こんな飛行場は初めてである。
ブータンの仏教
ブータンはチベット仏教の伝統を守り伝える貴重な国である。ブータン仏教の本山というべきチベット仏教は、国土が中国に占領されたことで壊滅的な状態におちいっているのであり、そうしてこともあってこの国はインド寄りの政策をとっている。
この国の仏教徒の割合は九七パーセントだという。なぜ百パーセントではないのかとガイド氏にきいたら、南部のブータン人が住みたがらない低地に、ヒンズー教徒のネパール人が住んでいるからだという。ブータンはヒマラヤの南斜面に位置しているため、南に行くほど標高は低く、気温は高くなる。だから南の方が暖かく作物もよくとれると思うのだが、ブータン人は低所に住みたがらない習性を持っている。高地民族であるチベット系の人々は、病気になるといって暑い低地へ下りていくのを恐れているのである。
ブータン仏教にはドゥク派とニンマ派があり、ドゥク派が国教になっている。ブータン語によるブータンの国名は「ドゥク・ユル」であり、これはドゥク派の国を意味する。ドゥクには雷竜の意味があり、そのため国旗にも竜が描かれている。国名のごとく雷の多い国なので、避雷針の立っている家をよく見かけた。
この国の僧は、六歳から十歳の間に出家することになっていて、三歳で出家する子供もいるという。昔は日本の寺も、貧しい家の子供をもらってきて後継者を育てていたのであるが、ブータンでは今も貧しい農家が小僧さんの供給源だという。豊かな家の子が出家することはまずないとガイド氏。
小僧さんになると、まず八年間の初等教育と四年間の中等教育を受ける。そうした教育はすべて寺の中で行われるため、一般の学校に通うことはない。そのためどこの寺へ行っても小僧さんがたくさんいた。小僧教育はなかなか厳しいらしく、ある寺で太い革のムチを振りまわしながら、小僧さんたちを叱りつけている老僧を見かけた。
これらの教育を終えて試験に合格すると、つぎは山ごもりの修行に入る。その修行期間は三ヵ月、三年、九年などとなっていて、その間まったく人と会わないという。そうした修行ための場所は山中にたくさん用意されており、タクツァン僧院を訪ねたとき、あれがその一つだと教えてもらった修行場は、切り立った崖の中腹にある小さな建物だった。山ごもりを終えると寺にもどってさらに修行を積み、師匠のあとを嗣いだり、小僧さんの教育係になったりする。
このようにしてブータンの僧は寺の中で一生すごすというから、寺はキリスト教の修道院のようなものである。一度出家したら還俗(げんぞく)は許されず、また還俗を希望する人もいないという。国の経費でもって生活し教育を受けてきたのだから、還俗するならそれらの費用を返さなければならない、とガイドが言っていたことを考えると、国教になっているドゥク派の寺は国の施設、そこに住む僧は国家公務員と考えていいようである。そのためかもしれないが托鉢はしていないという。
それでは四〇歳とか五〇歳になってから、世の無常を観じて出家したくなったらどうするのかときくと、「その年齢でも出家できるが正式の僧にはなれない。そういう僧はゴムチェンと呼ばれており、着るものも違う」とガイド氏。ゴムチェンは妻帯できるというから、戒律がゆるやかで妻帯可能とされるニンマ派の僧のことかもしれない。
お坊さんたちの最大のつとめは何かときくと、「それは祈りである」とガイド氏。人々の幸福とか、平和とか豊作を祈ることが最大のつとめであるというから、どうやらブータン人は祈りでもって、国を守ったり、ブータンを仏教の理想郷にしようと考えているようである。この国の仏教のいちばんの目的は、そこにあると感じたのであった。
彼らが殺生をしないように心がけているのも、仏国土を汚したくないというのが一番の理由のようである。川には魚があふれているのに釣りをする人はおらず、放牧している家畜が野生動物に襲われても、せいぜい柵を作るぐらいで射殺したりワナを仕掛けたりはしない。
殺生をしないのは彼らが肉食をしないからではない。肉も魚も食べているが、魚はインドから輸入した干し魚を食べているのであり、肉は国境の外で処理して運んできたものだという。特に旧暦の三月は、不殺生を徹底するため生肉を食べないことになっているということで、その時期に旅行した私たちも、干し魚と干し肉ばかり食べることになった。ブータン人は寺院を維持するための負担や、新鮮な肉が食べられない不便を、仏国土を守るために必要なことと受け入れているようである。
祈りのほかには何がお坊さんたちの勤めなのかときくと、踊りをしたり、楽器を演奏したり、タンカ(仏画)を書いたり、ダルシン(お経を印刷した旗)を作ったりすることだというから、どれも祈りに類する事ばかりである。お説教はしないのかときくと、ほとんどしないという。
ブータンの寺では外国人は歓迎されない。ほとんどの寺は外国人を門の中に入れず、入れてくれたとしても中庭までである。寺は神聖なる礼拝の場であり、僧たちの生活の場でもあるから、観光客が興味本位に見て回ったり、写真を撮ったりするのを嫌うのである。
私たちは和尚ばかりの集まりだったので、いくつかの寺では本堂へ入ることを許可されたが、ある寺では許可が下りたといっても、案内の僧は明らかに嫌がっており、灯りも付けなかった。ところが本尊さまの前で、ガイドにブータン流の礼拝を教えてもらいながらみんなで礼拝をしたら、急に態度が変わり、灯りを付けてくれたどころか、自分たちが住む部屋の中まで招き入れてくれた。
死者を送る
この国では死者がでると、まず占いをする僧に火葬の日取りなどを決めてもらい、それからたくさんの僧に来てもらって七日間読経してもらう。僧たちはその間その家の仏間や客間で寝泊まりする。読経を頼んでもお布施は必要なく、食事と宿泊の用意をするだけであり、ブータンでは病院も学校も葬式も無料だという。
そのあと中陰が終わる四十九日まで、家族や親類が集まってお経を読み、三・七日(みなぬか。二一日目)には山の上に百八本の旗を立てる。旅行中、山上でしばしば見かけた旗は、中陰のときに立てたものだったのである。旗には版木を使ってお経が印刷されている。
旗には二種類あって、一つは竿つきの旗、もう一つは一本の紐にたくさんの旗をつけた万国旗型である。色は白が多い。ブータン人は旗好きなので、空港の給水塔とか、避雷針とか、高いものにはたいてい旗が付いていた。ブータンでは毎日のように風が吹き、午後に強くなる傾向がある。そのため飛行機は午前中に離着陸する態勢になっている。風の国ブータンに旗はよく似合う。風にひるがえるたくさんの旗を見ていると、印刷されたお経が風に乗って飛んでいくように感じた。
中陰の最終日には満中陰の法要がおこなわれ、一周忌にも簡単な法要をおこなうが、それが最後の法要だという。ブータン人は輪廻(りんね)を信じており、輪廻説によれば死者は中陰の間に新しい体に生まれ変わるはずだから、中陰が終われば法要は必要ないという考えである。日本の仏教が長期間、法要をおこなうのは儒教の影響といわれる。
ガイドに「来生はあると思うか」と質問したら、「絶対にある。みんな輪廻する」という返事がかえってきた。「何が輪廻するのか」と聞くと、「マインド(心)が輪廻する」という。このはたち代前半と思われるガイドの人生最大の目的は、来世いい所に生まれることなのである。
ブータンは墓のない国である。輪廻を信じるブータン人は遺体や遺骨にあまり執着しない。そのため火葬が終わると遺骨を川へ流してしまうのである。そんなことをしたら川下の人が迷惑するように思うが、川下のインドも同じことをやっている墓のない国である。だから火葬場はすべて川のそばに作られているが、河原で直接火葬にすることは禁止されている。
火葬場を見せて欲しいとガイドに頼んだら案内してくれた。高く屋根をかけただけの吹きさらしの建物が火葬場であり、屋根の下に円形にレンガを積んだ横枠だけの炉が三つ並んでいた。炉の直径は一メートル半ほど、高さは一メートルほどであり、炉の中に薪を積み、その上に白い布で包んだ遺体を乗せ、その上にさらの薪を積み、バターランプで火を付けるという。バターランプというのは、バターを入れた小さな容器のまん中に芯を立てた灯明であり、ブータンやチベットの灯明はすべてこれである。
なお帰国してから案内書を読んでいたら、「以前は一部で鳥葬も行われており、その跡が今も残っている」とあった。これはぜひ見たかった。
この国の民家を見学したとき、仏間も見せてもらった。案内されたのは標準的な農家ということで、二階建ての建物の一階が物置、二階が住居になっており、二階へは外階段で出入りする。二階のいちばん奥が客間になっていて、その奥に鮮やかな色彩を施した三畳ぐらいの仏間がついていた。
仏間にまつられているのは、釈迦牟尼仏、シャブドゥン(ブータンを統一した政教一致の王様)、パドマサンババ(チベットに仏教を広めたインドの高僧)の三尊である。他にも仏画がたくさんかかっていたが、先祖の位牌などは置いていない。
仏間を見ていたらその家の人が「どうぞ坐ってくつろいでください」と言って客間の隅の敷物を指さした。ここまで靴を履いたまま入ってきたが、靴を脱いで敷物の上に坐れというのである。腰を下ろして待っていると、頼んでおいたブータンの伝統的な食べ物や飲み物を出してくれた。煎り米とか、ぺしゃんこにつぶした生米とか、ツァンパというはったい粉のような麦粉とか、ポップコーンとか、質素な食べ物ばかりである。これらがブータン人のふだんの食べ物であり、こうしたものは外国人が泊まる宿では出てこないのである。
ブータンの法律
ブータンには珍しい法律がある。それはブータン人はブータン服を着て、ブータン風の家に住まなければならないという法律である。
外出のときには、民族服の着用が義務づけられているのであり、違反すると罰金を取られるという。いなかの町でブータン服を着ていない人を見かけたので、ガイドに理由をきいたら、ここには警察官がいないという返事であった。
とはいえこのかなり面倒と思われる法律を、ブータン人は大して苦にしていないように見える。ヒマラヤ一の着道楽といわれるブータン人は、安くはない民族服を美しく着こなすことに、大きな喜びを感じているように見えるのである。ただし警察官と軍人はブータン服ではない。
ゴと呼ばれる男の民族服は、日本の男ものの着物に似ている。また顔も日本人と見分けがつかず、彼らの方が日焼けしているという程度の違いしかない。そのためブータン人は日本人のルーツではないかと言わたことがあるが、ほかに一致する点が見つからないことから、最近この説は下火になった。
キラという女性の民族服は、三枚の布を縫い合わせて作った着物であり、体に巻くように身に付ける。町に住む女性はキラで足元まで完全に隠している。それを見て、あんなに長いと歩きにくいだろうし、馬のフンで汚したりするのではないかと心配になったが、足元を隠すのがおしゃれなのだという。また女性は足を見せるのを恥ずかしがるともいう。農家の女性は動きにくいためだと思うが、足首の上まで出しているから、長いキラには町に住む女性の見栄もあるのかもしれない。
この国では建物もすべてブータン風に作られていて、四角い建物は一つもない。昔ながらの木と土壁で作る家も、鉄筋コンクリートの家も、外観はすべて伝統的な形をしている。しかも五階までという高さ制限があって、看板なども規制されているから、町並みには調和と美しさが備わっている。
そのような国であるから、空港に降り立った瞬間からすべてがブータンである。建物は管制塔にいたるまでブータン風に作られており、空港職員もブータン服で迎えてくれるのである。
帰国してから一つの疑問が湧いてきた。なぜそこまで伝統にこだわるのかという疑問である。そうしたことが観光資源になるのはたしかなことであるし、調和を考えて家を建てるのも当然のことであるが、それにしてもやり過ぎではないか、と思ったのである。
これにはどうやら、この国の置かれた地理的な状況が関係しているらしい。ブータンは南半分をインド、北半分を中国と国境を接している。つまりこの国は大国のはざまに浮かぶ陸の孤島のような国なのである。そしてヒマラヤ山中にはブータン以外にも、シッキム、ネパール、カシミール、ラダック、チベットなどの国があったが、いま独立国として残っているのはブータンとネパールだけである。
シッキム、カシミール、ラダックなどの王国はインドに併合され、チベットは中国に占領された。ブータン人は、国が武力で占領されたり併合されたりするのを、間近に見てきたのであり、自国の独立に関しても大きな危機感を持っている。もちろん今は武力さえあれば、他国をすぐに侵略できるという時代ではないが、内部から崩壊すればつけ入られる恐れはある。そのため国民の団結心を強固にするべく、ブータン政府は服や建物を統一しているのだと思う。
ブータンの社会
ブータンは長女が家督を受けつぐ母系社会である。子供を育てる女親が財布を握っているのは、理にかなったことかもしれないとも思うが、そのため男が一家を構えるには、家付きの長女と結婚するか、自分で家を建てて独立しなければならないという。それができなければ、生まれた家で一生居候することになるというから、男にとっては厳しい社会である。
結婚は男が女のところへ通う通い婚であり、相手の女性と仲良くなり、ほかの家族にも気に入られると同居することになる。結婚式はほとんどしないということで、既成事実あるのみという形態のためか離婚が多く、離婚した場合、追い出されるのは男の方である。
子供が生まれると三日目に寺で名前を付けてもらうが、お坊さんが付けるのは仏教的な名前ばかりなので、どうしても同名の人が多くなるという。子供はこうして仏教徒としての生涯を歩み始め、十五歳で成人とみなされるが成人式はおこなわず、十八歳で選挙権が与えられる。
多くの男性が出家するこの国では、在家の男が不足する。そのため一夫多妻が認められており、現国王にも四人の妃がある。しかもその四人は四人姉妹なのだという。これはブータンでは珍しいことではなく、複数の妻をもつ場合、姉妹をもらうことが多いという。
この国はのら犬天国であり、どこへ行っても道のまん中でのら犬が昼寝している。彼らは決して人に吠えたり噛みついたりはしない。これは狂犬病の犬でない限り保証できる。のら犬の安心しきった寝顔は、彼らが人間にいじめられた経験がないことを教えてくれるが、そのおとなしい犬が、夜になるとしきりに吠えているので理由をきいたら、「それが彼らの仕事だ。鹿や猪が山から下りてくるのを防いでいるのだ」という説明だった。
「のら犬の起源は何か。ブータンは昔からのら犬だらけだったのか」とたずねたら、「大昔からのら犬がいた訳ではなく、野生動物が山から下りて来ないように飼ったのが起源らしい。今ではまったく飼い主はいない。増えすぎて問題が起きているため、最近は不妊手術をしている」とか。
タイのお寺でものら犬をよく見かけた。お寺は安全地帯なのでのら犬が住みつくといっていたが、ブータンはすべての場所が安全地帯のようである。ワンデュ・ポダンという町では、野鳥の多さと、野鳥が人を怖れず近づいてくることに驚いた。ここでは野鳥の合唱が目覚まし時計だった。
ブータン旅行の特徴
ブータン旅行には他の国にはない制約がいくつかある。まず禁煙国家なのでタバコは売っておらず、喫煙も私室でしかできない。
また一日の滞在費が二百米ドルと決まっており、どんな安宿に泊まってもこの金額は変わらない。このような柵をこしらえてヒッピーのような人が入国するのを防いでいるらしい。この金額には、宿泊費、食事代、現地ガイド、運転手付きの車、などが含まれているから必ずしも高いとは言えないが、少人数の場合は割増料金がかかる。なおガイドや運転手を付けずに勝手に旅行することはできないという。
ブータンに来る観光客はアメリカ人がいちばん多く、つぎが英国人、そして三番目が日本人だという。英国人にはトレッキングのために来る人が多く、その場合も一日二百ドルである。
トレッキングは昔からの街道を歩く山旅なので、点在する集落に泊まって山の民の暮らしに触れたりしながら、旅をすることができる。ただし街道とはいっても、標高五千メートル以上の峠を越える道もある。
旅行地図にトレッキングの道が十本ほど書いてあり、宿泊地も書きこんであったので、日数をかぞえてみたら、最長では一ヵ月以上も連続して歩くことができそうである。トレッキングには案内人と料理人と馬と馬方(うまかた)がつき、幕営地ではテント張りも料理もやってくれるというから、王様の気分で山歩きができる。
ブータン人は商売気のない淡泊な人達である。バザールで買い物していても、寄ってきて一応の説明はするが、すぐに離れていってしまう。国民のほとんどが自給自足の生活をしているというから、それが商売気のない理由かもしれない。衣食住が確保できていれば、付きまとったりする必要はないのである。それとこれはタイやビルマを旅行したときにも感じたことだが、仏教国には謙虚でおおらかな人が多いように思う。だからブータンはきわめて旅行しやすい国であり、この国の人々を見ていると、「国民総生産の量よりも、国民総幸福量の方が大切だ」という国王の言葉が納得できる。
その他の想い出
飛行場のある町パロの郊外に、ブータン観光の目玉になっている切り立った崖の中腹に建つタクツァン僧院がある。山形市にある立石寺(りっしゃくじ。通称やまでら)も険しい崖に作られた寺であるが、崖の高さと険しさではタクツァン僧院の方が上である。
この僧院へは馬で行った。馬で登山するは初めてなので最初はこわかったが、すぐに慣れた。鞍にしがみつくのではなく、上体の力を抜き、足で馬の体をはさむようにすると体が安定する。四〇分ほどで見晴らしのよい台地に着き、そこから見上げると僧院が小さく見えていた。
そこの茶店で休憩し、こんどは徒歩で三〇分ほど登ると、景色のいい展望台に出た。タクツァン僧院は目の前にあった。その先には道があるようには思えなかったが、よく見ると断崖に細い道が通じていた。屋根の上に小僧さんが二人いたので手を振ったら、「カム、ヒヤ」と返事がきた。ところが警察官ががんばっていて外国人は通してくれなかった。この山の老木にはカサカサに枯れた蘭がビッシリと着生していた。このカサカサの蘭が雨期になると生き返って一斉に花を付けるという。馬での下山は危険ということで、帰りは歩いて下った。
ブータンを離れる前日、チョモラリ山を見るためチェレ・ラ峠まで車で往復した。途中の山腹は巨木が立ちならぶ針葉樹林帯になっており、キジのような鳥がたくさんいた。またヤクも放牧されていた。ヤクはヒマラヤ野牛というべきウシ科の動物であり、長い毛を持っているため暑さに弱く高山でしか生息できないという。神経質な動物なのでカメラを向けるとすぐに逃げてしまう。
景色のいいところで写真休憩をしたとき、運転手さんがモミの枝を切って車に積んでいた。持って帰って、翌日の法要のときお香として焚くのだという。ブータンの家の前には、人の背丈ほどもある焼却炉のような白い香炉が立っている。これが木の葉をお香として焚くための香炉であり、ふだんは朝日が昇るときに焚いているらしい。ただし町なかでは松葉を焚いていたから、モミは山へ行かないと手に入らないのだろう。帰国してから試しにモミの葉をつぶして嗅いでみたら、針葉樹のさわやかな香りが快かった。なおブータンの男はいつもナイフを持ち歩いているということで、モミを切ったのは彼の守り刀であった。
チェレ・ラ峠に立つ道標には、三九八八メートルの標高が記されていた。ところがガイドブックによると、実際の標高は三八〇〇メートルぐらいのはずだとある。それでも私がこれまでに到達した最高地点、富士山の三七七六メートルを二四メートルほど更新したことになるが、車で上ったのだから自慢にはならない。この日は天気に恵まれチョモラリ連山の峰々がよく見えた。
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