鈴木正三の話

鈴木正三道人(すずきしょうさん・どうにん)は、仁王禅(におうぜん)の唱道者として、また日常生活の場を仏道修行の場とする世法即仏法の唱道者として知られている。道人は曹洞宗の人なので禅師と呼ぶべきかもしれないが、参考にした本が鈴木正三道人全集となっているので、私も道人と呼ぶことにした。

道人の禅が仁王禅と呼ばれているのは、「仏道修行は仁王の大堅固の機をうけて修する事ひとつ也。この機をもって身心をせめ滅ぼすよりほか、別に仏法を知らず」、というように、仁王の心で坐禅せよと道人が常に説いていたからである。

道人は言う。仁王禅の行きつく先は如来禅であるが、そこへ行きつくためには仁王の気迫が不可欠である。それはちょうど寺の入口に仁王をまつり、いちばん奥に如来をまつることに似ている。そうしたことを知らずに、初めから只管打坐(しかんたざ)のような如来坐禅をしていると煩悩に負けてしまう、と。そのため曹洞宗の人でありながらも、道人の宗風は臨済宗的であり、懇意にしていた禅僧も臨済宗の人が多かった。

道人ゆかりの寺、心月院にある道人の坐像は、握りしめた手を左右のももの上に置き、眼をしっかりと見据え、奥歯を強く噛みしめている。このような姿でもって、心を奮い立たせておこなう坐禅のことを、仁王禅と呼ぶこともある。

道人は武家の生まれであり、二三歳のときには関ヶ原の戦いに参戦している。そしてそのときの勇猛精進の体験から仁王禅が生まれというから、仁王禅は関ヶ原生まれの禅といえる。また道人は大阪城攻めの冬の陣と夏の陣にも参戦している。

     
道人の生涯

道人の伝記である石平道人行業記(せきへいどうにん・ぎょうごうき)をもとに、道人の生涯を見ていきたい。

一五七九年、道人は愛知県北部の足助町(あすけちょう)で、則定(のりさだ)城主の鈴木重次(しげつぐ)の長男として生まれた。誕生日は不明である。平成十七年に豊田市と合併することになっている足助町は、周囲は山ばかりという山里の町であるが、このあたりにはそれほど高い山はない。

則定城は城跡から判断すると、大きな砦というべき規模の城だったようである。戦国時代に作られたという足助城も、発掘復元された状態から判断すると、やはり砦と呼ぶ程度の山城である。

道人は武家の育ちであったが、生まれつき仏教に縁の深い性格の持ち主だったようであり、幼いころから死を見つめて生きた人のようである。行業記に次の記述がある。「四歳にして同生(どうしょう。同い年)の児死す。たちまちこれを疑っていわく、死とは何ぞや、彼いずれの処に去るやと。これより生死に疑滞して、つねに忘れず」

十七歳のとき、宝物集にある雪山偈(せっせんげ)の話を読んで、無常幻化をさとり、身命を惜しまざる意を発し、無我に通徹する、とある。

二三歳のときには、関ヶ原の戦いに従軍した。「師は本多佐渡守にくみして務めぬ。もとより義に勇に忠に死せんことを要し、単単に捨身の心を鍛錬し、冥(めい。深く)に仏の勇猛精進に契得す。故に言えり、この機鋒(きほう。心の働き)煩悩を破滅し、一切に受用して、すなわち開悟に至らんと」とある。

四二歳のとき、江戸で出家したが、受業(じゅごう)の師は不明である。出家するとき、懇意にしていた臨済宗の大愚和尚に名前を付けてくれるように頼んだところ、「公の道価重し、誰か名を安ずることを為さん。旧名可なり」と言って和尚は辞退した。そのため俗名の正三をそのまま僧名にしたという。僧名は受業の師に付けてもらうものなので、これが受業の師不明の理由かもしれない。また誰の法嗣か、ということも不明である。

五四歳のとき、石平山恩真寺を建立した。

六一歳の一六三九年八月二八日の暁、「廓然として開悟す」とある。

六四歳のとき、島原の乱で荒廃した九州の天草に滞在し、寺や神社の復興に尽力した。滞在は三年間におよび、このときキリスト教を批判する破吉利支丹(はきりしたん)を書いた。

七〇歳のとき、江戸に移り住んで教化を盛んにし、晩年は江戸で過ごした。

一六五五年六月二五日、江戸で示寂した。七七歳であった。

     
道人ゆかりの寺

正三道人が創建した仁王禅の根本道場である石平山恩真寺(せきへいざん・おんしんじ)は、足助町に近い豊田市山中町にある。山の中の町、山中町のいちばん奥の集落から、さらに奥に入ったところにある窪地に恩真寺は建っている。その窪地の地名の石ノ平(いしのたいら)が山号の由来である。行業記には「石平山は三州(さんしゅう。三河の国)岡崎城の北五里にある。その地は四方を山がとりかこみ、林樹がうっそうと茂っている」とある。

石ノ平は花崗岩の巨岩が立ちならぶ名前の通りの土地である。このあたり一帯は花崗岩の岩盤が露出した土地になっているようであり、そのことは則定から恩真寺へ山越えする途中に、花崗岩の小さな採石場があったことからも推測できる。そうした自然の岩を上手に利用して、このあたりの寺や神社は境内に趣をそえている。恩真寺にある「鈴木正三の坐禅石」も上部の平らな自然石を坐禅石に見たてたものであるが、大きすぎてハシゴがないと登れないのが欠点である。

恩真寺の本堂と庫裡は、鉄の支柱にささえられながら、少し傾いて立っていた。私がここを訪ねたのは平成十七年一月中旬のことであり、その時期に雪が全くなかったのだから、雪の多い土地ではないはずだが、水が集まる窪地に建っているため湿気が建物を傷めるのだろう。同じ愛知県でも少し北へ行くと雪がよく降るということで、「トンネルをひとつ抜けると、びっくりするほど雪が多くなる」と足助城の受付の人が言っていた。

寺の建物にはすべて鍵がかかっていたし、人が住んでいる気配もなかったが、駐車場やそこへ入る道が最近整備されており、寺を復興する意気込みのようなものが感じられた。本堂うらの歴代住職の墓地に道人の墓があったが、道人は江戸で亡くなったので東京にも墓がある。

なお平成十六年十二月に、則定小学校うらの高台にある則定城跡に、鈴木正三史跡公園が完成していて、そこに道人と弟の重成(しげなり)公の銅像も建てられた。重成公は道人に代わって鈴木家を嗣いだ人であり、道人の活発な教化活動は重成公の助力に負うところが多かった。

その公園の入口には鈴木正三記念館があり、その近くに道人が開山した心月院もある。この寺はもとは則定城内の道人の生家があった場所に建っていたが、それを明治の初めに今の場所に移転したのだという。

     
驢鞍橋(ろあんきょう)

ここから先は道人関係の本の抜き書きである。正三道人と言えばまず驢鞍橋であるが、これは道人の著作ではなく、弟子の恵中禅師が書いた道人の語録であり、そのためかえって生き生きとした道人の面目がよく表れているといわれる。

驢鞍橋という書名は、「驢鞍橋を認めて阿爺(あや。父親)の下頷(かがん。下あご)となすなかれ」という禅語から来ている。この禅語は、ある愚かな男が戦死した父親の骨を探しに行き、ロバの鞍(くら)の切れはしを父親の下あごの骨とまちがえて大切に持ち帰った、という故事が元になっている。

つまり「私には道人の面目を伝えることなど、とてもできません。この本は勘ちがいや聞き損ないばかり集めた本です」、と謙遜して恵中禅師がこの書名をつけたのである。驢鞍橋はロバの鞍の一部分とあり、橋とあるからおそらく橋の形をした部品だと思うが、実物は見たことがない。なお驢鞍橋では仁王を二王と書いている。

師一日示して曰く。近年仏法に勇猛堅固の大威勢あるということを唱え失えり。ただ柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人よくはなれども、怨霊となる様の機(き。心の働き)を修し出す人なし。何れも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊となるべしと也。

一日示して曰く。仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。仏像というは、初心の人、如来像に目をつけて、如来座禅は及ぶべからず、ただ二王不動の像等に目をつけて、二王座禅を作すべし。まず二王は仏法の入口、不動は仏のはじめと覚えたり。しかればこそ、二王は門に立ち、不動は十三仏の始めにいます。彼の機を受けずんば煩悩に負くべし。ただいちずに強き心を用いるの外なし。

二王不動の堅固の機をうけ、修し行じて、悪業煩悩を滅すべしと、自ら眼をすえ、拳を握り、歯ぎしりして曰く、きっと張りかけて守る時、何にても面(つら)を出す者なし。始終この勇猛の機ひとつを以て修行は成就するなり。別に入ること無し。何たる行業(ぎょうごう)も、ぬけがらに成りてせば用に立つべからず。強く眼をつけて、禅定の機を修し出すべしと也。

一日示して曰く。仏道修行というは、二王不動の大堅固の機をうけて修する事ひとつ也。この機をもって身心をせめ滅ぼすより外、別に仏法を知らず。もし我が法に入らんと思う人は、機をひったて、眼をすえ、二王不動、悪魔降伏(ごうぶく)の形像(ぎょうぞう)の機をうけ、二王心を守って、悪業煩悩を滅すべし。古来より、この仏像の沙汰したる人聞かねども、如何にしても、我が胸に相応して用いて万事に自由なり。

仏は勇猛精進と諸経に多く説き給うと見えたり。この機を受けずして、煩悩に勝つこと有るべからず。第一に、仏像の機を受くるという事をよく知るべし。無精にしてこの機移るべからず。もっぱら仏像に眼をつけて、二六時中、金剛心を守るべしと也。

修行の肝要は自己を守る一つなり。一切の煩悩は機の抜けたる処より起こるなり。ただ強く眼をつけて、十二時中、万事の上に機を抜かさず、きっと張りかけて守り、六賊煩悩を退治すべし。夢中ともに抜かぬほどに守らでかなわず。ずいぶん守ると思うとも、覚えず抜けて、彼の煩悩に負くべし。

ともすれば、意馬(いば。心が馬のように)妄想のくさむらにかけ入り、心猿(しんえん。心が猿のように)名利の梢にひょっひょっと移るべし。強く眼をつけ、莫妄想(まくもうぞう)の一句を轡(くつわ)づらとなしてきっと引き詰めて守るべし。刹那も機を抜かすべからずと也。

一日誦経(じゅきょう)のついで示して曰く。体をすっくと持ち、機をほぞの下に落とし付け、眼をすえて誦経すべし。かくの如くせば、誦経をもって禅定の機を修し出すべし。ぬけがらになって誦せば、功徳とも成るべからずと也。

一日、武士来たって法要を問う。師示して曰く。後世(ごせ)を願うというは、この糞袋(くそぶくろ。身体)を何とも思わず打ち捨てること也。ここを仕習うより別の仏法を知らず。我れは若き時より、こればかりを仕習いし也。まず千騎万騎、抜き揃えたる中にかけ入り、胴腹をつき抜かれて、死に死にして死に習いしに、これはやがて仕習いてかけ入られたり。

一日示して曰く。初心の人は、まず信心を祈り、呪(しゅ)陀羅尼(だらに)をくりて、身心を尽くすが好き也。あるいは八句の陀羅尼を、十万辺も二十万辺も二十六万辺も唱えて業障を尽くさば、志も進み、真実も起こるべし。

一日、僧、師を辞す。師示して曰く。まず、道中油断なく心を守り、古塚(ふるづか。古い墓)あらば、施餓鬼(せがき。ここでは経名)を誦し弔うて通るべし。塚に残る亡魂たしかに有るもの也。おろそかに思うべからず。是れ一つ。

また今時の出家、無信心にして、小用の後、手も洗わず経巻を取り、仏を礼する也。かしこに至って、左様の格を作すべからず。如何にも身心清浄にして礼拝誦経し、仏神三宝に道心を祈り、万霊を弔い、自己の功徳を勤むべし。是れ一つ。

また和合僧とて、僧は和合を守らでかなわず、六和合を守って衆に交わるべし。その故は、人悪き者は、まず居所もつまるもの也。ただ人に負けば、いづくに在っても住み好かるべし。是れ一つ。また、かしこを住所と定め、近国のよき人を尋ね行き、逢うて帰り帰りすべし。十人に逢わば十の徳あるもの也。是れ一つ。また、つつしみて身を惜しまず、屎尿をも飛びかかってつかんで捨てんと思うべし。総じて、修行には身を使うが好き也。

     
盲安杖(もうあんじょう)

道人は筆まめな人だったらしく、かなりの量の著作を残している。それらは短いものばかりだが、内容はよく練られていて無駄がない。

盲安杖は出家する前年、四一歳のときに書いた最初の著作であり、生前に二回出版された。盲安杖は「衆盲を安きに引くための杖」を意味し、仏法によってこそ処世の安きを貫くことができるとして、処世の信条十ヵ条を説き示したものである。その一部をご紹介する。

  一、生死を知って楽しみある事をたしかに知るべし

それ生者必滅の理、口に知って心にしらず。小年はやく過ぎ去って、頭に霜をいただき、額になみをたたみ、五体、日々におとろえ、露命、朝夕にせまるといえども、さらに驚く心なし。去年は今年に移り、春すぎ、秋来たれども、飛花落葉の理をわきまえず。石火電光、目の前なれども、無常幻化なる事をしらず。

まことに衣鉢をくびにかけ、出離に道に入りて、諸方、空なる理を修行する人もついに常住の機はなれがたし。さればこの身を全たしと思うゆえに、日夜の苦しみ、やむ時なし。まことに身を思う人ならば、速やかに身を忘れよ。苦患、いずれの所より出るや。ただこの身を愛する心にあり。とりわけ武士の生涯は、生死をしらずば有るべからず。生死をしる時は、おのずから道あり。しらざる時は、仁義礼智もなし。

  五、分限を見分けてその性をしれ

碁、将棋の上手下手、その位さだまりたり。人々の分別も、なんぞ是れにことならんや。人のひがごとを憎まんならば、碁、将棋の下手、悪き手つかいするも、ひがごとならんと憎まんや。是れをもってしるべし。いずれの人も行い悪しくせんとはあらねども、心たらずして我が身をも滅ぼすなり。たとえば貧人の過分のふるまいかなわざるがごとし。さればおのれが分限より上のはたらきなるべからず。とかく心のいたらざる故と心得て、結句あわれむ心あるべし。

おのれ素直なる時は、うき世に悪しき人なし。おのれ、ひがごとなる時は、悪しき人おおし。歌に「我れよきに人の悪きがあらばこそ、人のわろきは我れわろきなり」この歌、心の鏡なるべし。

  七、おのれを忘れておのれを忘れざれ

まことに身をおもう心の中に悪業の鬼あり。一切の苦患(くげん)あり、八万四千の煩悩あり、つたなきかなや。はやく万事を打ち捨てて、身をおもわぬ身となるべし。歌に、身を思うこころぞ身をば苦しむる、身を思わねば身こそやすけれ。

  八、たちあがりてひとりつつしめ

万事を慎む人も、うき世のおもわくばかりに恥じて、外をかざり、内心のあやまりをかくすなるべし。かたのごとく世にそむかぬほどの人も、内心には科(とが)あるべし。心を敵にして、ひとりつつしめ。心中のあやまり、人はしらねども、我れたしかに是れをしる。心をすまして是れをおもえ。

     
万民徳用(ばんみんとくよう)

これは世法即仏法の教えを説く、道人の主著というべきものである。内容は、修行の念願、三宝の徳用、四民、の三章からなり、修行の念願には仏道修行の目的が、三宝の徳用には仏法を日常生活に使いこなすための方法が、四民の章には士農工商に分けての世法即仏法の具体的な生活方法が、記されている。いいとこ取りでご紹介する。

  第一章、修行の念願

一、仏宝(ぶっぽう)、法宝(ほうぼう)、僧宝(そうぼう)、これを三宝(さんぼう)と崇めたてまつる也。この三の宝をうけて万民に施し、国土の宝となすべき旨なくして修行するは僧にあらず。願わくは、三宝の旨を守って修行したまえかしとの念願なり。

一、仏法は、成仏の法なり。しかれども成仏のこころえに邪正あり。もし邪正の差別をしらずば皆もって邪法なるべし。願わくは、成仏の処に眼を着けて修行したまえかしとの念願なり。

一、仏語に、世間に入得すれば出世あまりなしと説きたまえり。この文は、世法にて成仏するの理なり。しからば世法即仏法なり。華厳(経)に「仏法は世間の法に異ならず。世間法は仏法に異ならず」かくの如く説きたまえり。もし世法をもって成仏する道理を用いざるは、一切仏意をしらざる人なり。願わくは世法を即仏法になしたまえかしとの念願なり。

  あとがき

それ仏法は、人間の悪心を滅する法なり。仏弟子その道を用いざらんや。しかるに今時、仏意にいたるべき修行、おろそかにして、名聞利養に住し、邪路に落つ。願わくは、仏弟子、真の道に入りて、迷いの衆生を引導したまえかしと念願のほか、他事なし。

  第二章、三宝の徳用

  前書き

医師は肉身の病をなおし、仏弟子は煩悩業苦の心病を治する役人なり。真実の道心なくばかなうべからず。仏の大法、世間の宝にあらずば、三宝の名も偽りとなるべし。

  一、仏法の宝、武勇に使うこと

仏法修行は六賊煩悩を退治するなり。心弱くして、かなうべからず。法身堅固の心をもって、信心勇猛精進のつわものを先となし、本来空の剣を用いて、我執貪着の妄想心を切りはらい、切に急に進んで、十二時中間断なく、金剛の心に住し、夢中ともに用い得て、自然に純熟し、内外打成一片(ないげだじょういっぺん。心を統一すること)となって業識無明(ごっしきむみょう。煩悩)の魔軍をことごとく討滅し、忽然(こつぜん。たちまち)夢さめ実有の城郭を打破し、生死の怨敵を切断して、般若(はんにゃ。智慧)の都に居住を定め、太平を守る。この心、すなわち武勇に使う宝なり。

  四、仏法の宝、諸芸能に使うこと

仏法修行は慮知分別の心を去って、着相の念を離れ、無我の心にいたって私(わたし)なく、物にまかせて自由なり。この心すなわち諸芸能に使う宝なり。

  五、仏法の宝、渡世身すぎに使うこと

仏法修行は邪欲を除滅す。これによっておごる心、へつらう心、むさぼる心、名聞利養の心なし。この心すなわち渡世身すぎに使う宝なり。

  七、仏法の宝、身心安楽に使うこと

仏法修行はもろもろの業障(ごっしょう。煩悩と悪業の報い)を滅尽して、一切の苦を去る。この心すなわち士農工商の上に用いて身心安楽の宝なり。

  九、仏法の宝、心病を治すること

仏法修行は迷闇(めいあん。煩悩の闇)の心を去って、三毒の心を離る。この心すなわち諸煩悩を断じて、心病なき宝なり。

  十、仏法の宝、極楽浄土に住すること

仏法修行は、有為(うい。迷い)の法を断じて、本源自性にかなう。この心すなわち不生不滅にして、極楽浄土に住する宝なり。

  第三章、四民

  一、武士日用(ぶしにちよう)

仏道修行の人は、まず勇猛の心なくして、かない難し。怯弱(きょうじゃく。臆病柔弱)の心をもって仏道に入ること有るべからず。堅く守り、強く修せずば、彼の煩悩にしたがって苦患(くげん)を受くべし。堅固の心をもって、万事に勝つを道者とし、着相(じゃくそう。執着)の念にして、万事に負けて苦悩するを凡夫とす。

されば、煩悩心をもって、血気の勇を励ます人、一旦鉄壁を破る威勢ありといえども、血気ついに尽きて変ずる時節あり。丈夫の心は、不動にして、変ずることなし。武士たる人、これを修して、何ぞ丈夫の心に至らざらんや。

  二、農民日用(のうみんにちよう)

農人問うて言う。後生の一大事、おろそかならずと言えども、農業時をおってひまなし。あさましき渡世の業をなし、今生むなしくして、未来の苦を受くべきこと、無念の至りなり。何としてか仏果に至るべきや。

答えて言う。農業すなわち仏行なり。意を得ること悪しき時は賤業なり。信心堅固なる時は、菩薩の行なり。楽を欲する心あって、後生願う人は、万劫を経るとも成仏すべからず。極寒極熱の辛苦の業をなし、鋤(すき)鍬(くわ)鎌(かま)を用い得て、煩悩のくさむら茂きこの身心を敵となし、すきかえし、かり取ると、心を着けてひた責めに責めて耕作すべし。

身に隙(ひま)をうる時は煩悩のくさむら増長す。辛苦の業をなして、身心を責める時は、この心にわずらいなし。かくの如く四時ともに仏行をなす。農人なにとて別の仏行を好むべきや。

それ、農人と生を受けしことは天より授けたまわる世界養育の役人なり。さればこの身を一筋に天道に任せたてまつり、かりにも身のためを思わずして、まさに天道の奉公に農業をなし、五穀を作り出して仏陀神明を祭り、万民の命をたすけ、虫類などにいたるまで施すべしと大誓願をなして、ひと鍬ひと鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし。

  三、職人日用(しょくにんにちよう)

何の事業もみな仏行なり。人々の所作の上において、成仏したまうべし。仏行のほかになす作業有るべからず。一切の所作、皆もって世界のためとなる事をもって知るべし。仏体をうけ、仏性そなわりたる人間、意を得ること悪しくして、好んで悪道に入る事なかれ。本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したまうなり。

鍛冶番匠をはじめとして、諸職人なくしては、世界の用いる所、調うべからず。武士なくして世治まるべからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして世界の自由、成るべからず。ただ是れ一仏の徳用なり。

後世を願うというは、我が身を信ずるを本意とす。まこと成仏を願う人ならば、ただ自身を信ずべし。自身を信ずるというは、自身すなわち仏なれば、仏の心を信ずべし。仏に欲心なし、仏の心に瞋恚(しんに。怒り)なし、仏の心に愚痴なし、仏の心に生死なし、仏の心に是非なし、仏の心に煩悩なし、仏の心に悪事なし。

  四、商人日用(あきひとにちよう)

売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべし。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道になげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天のめぐみふかく、仏陀神明の加護あって、災難を除き、自然に福をまし、衆人愛敬、浅からずして万事心にかなうべし。

一筋に国土のため万民のためとおもい入りて、自国の物を他国に移し、他国の物をわが国に持ち来たって、遠国遠里に入り渡し、諸人の心にかなうべしと誓願をなして、国々をめぐる事は,業障を尽くすべき修行なりと、心を着けて、山々を越えて、身心を責め、大河小河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、この身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これを守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の人となる。

     
麓草分(ふもとくさわけ)

文頭に「仏道修行におもむく人は、浅きより深きに入り、麓の草を分けて頂上に登るべし」とあるから、この書名には「初心者のための書」の意味があるらしい。山麓の草原で道に迷い、登山口にさえたどり着けないようなことでは、とても頂上は極められない。だからまだ麓だなどと思って油断してはならない、というのであろう。内容は十七章から成っている。

  四、行脚(あんぎゃ。修行の旅)に功徳あること

諸方行脚をなす。険難の道をすぎ、身心を責め、業障をつくすの徳あり。体つかるれば諸念なし。色体安楽なる時は種々の念増長す。念により三界火宅の炎やすむ事なし。念滅すれば自己清浄なり。清浄なれば仏心に近し。されば国々を回り、山々を越え、浦々をつたい、大河小河を渡り、心を清め、霊仏霊社に参詣して信心をおこし、霊性清浄の気をうけて自己清浄となすべし。

  十、捨身を守るべきこと

法性城中(ほっしょうじょうちゅう)に自己の怨敵きそい起こって、すでに国を傾けんとす。何れの所より来る怨敵ぞや。明らかに知るべし。身を思う一念なり。この念より起こって三悪四趣(さんあくししゅ。地獄、餓鬼、畜生、修羅)となり、分かれて八万四千の煩悩となる。皆これ自己の怨敵なり。

この心を除滅せんこと、捨身を守るにしくはなし。身に添う敵防ぎがたし。大事の敵を滅すべき事、心よわくしてはかなうべからず。信力堅固を大将軍と定めて、捨身の軍兵を先として、勇猛精進の武士を頭と定め、幻化無常の剣を用いて、自己の本源に向かって、十二時中、切に急に責め入るべし。

ややもすれば色身すなわち煩悩の城郭となり、この心は悪業無明の主人となりて、己を滅ぼすなり。我らが敵はこの心なり。この身は煩悩の袋なり。彼にしたがう時は悪道に入り、彼をしたがゆる時は安楽世界に入る。ひとえにこの身心を愛すべからず。

・・・ただよく捨身を守って、歯をくい合わせ、眼をすえて、直に頸(くび)をきらるる心を用いて、生死を急に守るべし。あるいは屍となって棺の中に入りて、薪の火にもゆる心を用うべし。あるいは大火中に飛び入りて、火中の心を守るべし。あるいは千騎万騎の敵の中へかけ入りて、大将の頭を取るべき心を用うべし。捨身堅固ならずして、出離の道を修すること、全くかなうべからず。

  十一、自己を忘るべからざること

猫のねずみを捉えるが如く、頭尾一般にして双目まじろがず、自己を正しく守るべし。心、他に移るときは、煩悩の賊きそい起こって自己の主人となる。彼に司どられて後は、彼を滅ぼすこと難し。されば常に六根門をかたく守って煩悩の賊を防ぐべし。

仏道修行の簡要は自己を守る所にあり。十二時中において刹那も間断すべからず。夢中ともに守る心なくしては全くかなうべからず。自己を離れて道なし。もっぱら自己に眼をつけて本源を知るべし。仏界魔界、是非善悪、万法すべて自己にあり。心外に法なし。自己を愛楽(あいぎょう)するときは妄心迷乱す。自己を殺得(さっとく)するときはこの心無事なり。

心はただ心をまどわす敵なり。心に心ゆるすべからず。古人いわく、煩悩は心によるが故に有なり。無心ならば煩悩何ぞかかわらんと。されば、心生ずるを凡夫とし、心滅するを道者とす。

  十二、修行に多途あり邪正を知るべきこと

仏祖の本意に相応して、有為の法を去って、無上菩提にいたるべき願力をもって修行する人まれなり。誠の道心というは、初学より三界出離を強く守って、離相離名に住し、有相執着の念根を裁断して、虚空同体となる修行者を可なりとす。このほか何の殊勝をあらわすとも、皆もって虚妄なるべし。

法のため悪しき人多しと言えどもとりわけ七つあり。一には酒を好む人、二つには世間を是非する人、三には悟りをやすく授ける人、四には闊達を用いて勤行おろそかなる人、五には我慢の心ある人、六には名聞のつよき人、七には欲ふかき人、このほか、心をつけて悪しき友に遠ざかるべし。仮にも生死の大事を説き、幻化無常を談ずる人に親近すべし。

  十四、亡者を弔うに得失あること

亡者を弔うに経陀羅尼(きょうだらに)を誦し、仏行を修して亡者の功徳とす。仏語の中の真理、仏行の功徳、まず自己に移り来たって、真実の心おこり、すなわち自己清浄となる。清浄きわまる時は無心無念となる。この心虚空にあまねくして、不通の処なかるべし。しかれば、亡者を弔うには、まず自己清浄にして、無念の得益あり。かえって亡者に弔わるるにあらずや。

  十六、一寺の主、欲心を離るべきこと

一寺の主たる人、我が家と思うべからず。寺舎はただ仏菩薩の家なり。家財雑具などに至るまで、さらに我が物にあらず。この身元来、地水火風の借り物なり。すでに三界を出るをもって、出家と名を得たり。何をか我が物となすべきと観察すべし。もし施物来たらんには、すなわち本尊の物となして、預かり置くべし。まったく心に受くること有るべからず。

  十七、檀那(だんな。檀信徒)対談の事

檀越(だんおつ。檀信徒)、寺に参詣せば、住持思うべき様は、総じて諸檀那は沙門(しゃもん。僧)に帰して成仏すべきためと也。この人々を救い得ずば出家のとがなりと、深く心に置くべきなり。しかれば我れに衆生済度の徳ありやとかえり見て慚愧すべし。

およそまず檀越に信心をおこさしむること第一なり。信心をおこさしむる方便は、常に勤行正しく、亡者万霊をよく弔い、仏前を清浄にして、焼香間断なく、塔廟を掃地し、庭の塵を掃いて、人の心を清むべし。

住持の心清浄に用い、或いは生者必滅のことわりを説き、或いは無常幻化のことわりを言い、或いは十悪万邪のことわりを説き、或いは臭肉不浄を談じ、或いは顛倒迷妄せることわりを説き、或いは上四恩を教え、或いは三悪四趣の苦患を説き、そのほか、機にしたがって仏語祖語を与え、もっぱら著相(じゃくそう。執着)の念を奪うべし。仮にも渡世の沙汰、栄耀名利を言うべからず。

     
二人比丘尼(ににんびくに)

これは道人が五四歳のときに、母のために書いたものといわれ、日本の小説の先駆ともいわれる。「一休骸骨」と「一休二人比丘尼」が素材になっているとされ、道人の著作の中でもとくに有名なものであり、生前に出版され版を重ねた。

この物語は、小説を読むように興味を引かれて読み進めるうちに、諸行無常、生者必滅、捨身念仏、などの教えが身に付くように工夫されている。また文章が洗練されていて、吟じやすく耳に快く、そして挿入された和歌が話を引きしめ、理解を助けてくれるようになっている。つまり大乗経典のごとき物語なのである。ここでは初めの部分を少しだけご紹介する。

ここに、しもつけの国の住人に、須田弥兵衛という者、二十五歳にして、うちじにし、誉を万代にのこす。妻女十七歳にして、愁歎のなみだにむせび、おもひの火にむねをこがす。一七日、二七日、五七日もすぎゆけば、うつる月日のほどもなく、一しうきにもなりぬ。貴き僧を供養中、ぼだいをとふぞ哀なる。妻女去年のけふの心ちして、一しゆかくなん。
 うらめしく、又なつかしき月日かな、わかれし人のけふとおもへば

     
破吉利支丹(はきりしたん)

これはキリスト教を批判するために書いた、道人の批判精神がよく表れたおもしろい著作である。これを書いた理由は次のようなことであった。

道人の弟の鈴木重成公は、一六三七年の島原の乱を平定するために従軍し、平定後は幕府の直轄地になった天草の初代代官に任ぜられた。そのため道人も重成公を補佐するべく天草へ行き、寺や神社の復興に尽力し、キリスト教の影響を除くことにつとめた。そしてその一助として書いたのが、この破吉利支丹である。

重成公は天草の人々のために最善の政治をおこなったようである。中でも特筆すべきは、天草の年貢があまりに重すぎるとして、半減することを幕府に強く働きかけたことであり、それが認められなかったため重成公は切腹して果てた。

そのあとを嗣いだ鈴木重辰(しげとき)は、正三道人の息子であり重成公の養子であった。彼も養父の遺志をついで精力的に働きかけをおこない、ついに重成公の自刃の七年後に年貢が四万二千石から二万一千石に半減された。そのことに感謝した天草の人々は、重成・正三・重辰を祭神とする天草地方最大の境内をもつ鈴木神社を造営し、彼らの徳をあらわしたのであった。

一、キリシタンの教えに、デウスと申す大仏、天地の主にして、よろず自由の一仏あり。これすなわち天地万物の作者なり。この仏、千六百年以前に南蛮へ出世ありて、衆生を済度したまう。その名をゼズキリシトと言うなり。余国にこれを知らずして、栓もなき阿弥陀、釈迦を尊びたてまつること、愚痴のいたりなりと言うよし聞き及ぶ。

破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の国々を捨ておいて、出世したまわざるや。天地ひらけてよりこのかた、三世の諸仏、出で替わり出で替わり、衆生済度したまう事、幾万万歳と言わんや。そのうち、ついに、余国へデウス出でたまわで、このころ、南蛮ばかりへ出世あるということ、何を証拠とせんや。

デウス、天地の主ならば、我れが作り出したる国々を脇仏にとられ、天地開闢(かいびゃく)よりこのかた、法を弘めさせ、衆生を済度させたまう事、大きなる油断なり。正しくこのデウスは、たわけ仏なり。その上、ゼズキリシト出世して、下界の凡夫に、はたもの(はりつけ)にかけられたりと言う也。これを天地の主とせんや。

一、キリシタン宗には、総じて物の奇特なることを尊び、これ、デウスの名誉なりと言って、様々はかり事をなして、人をたぶらかすよし聞き及ぶ。

破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべし。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。さらに奇特を用うることなし。

一、仏に二仏無く、法に二法なし。諸法実相と観ずる時は、松風流水、妙音となり、万法一如と悟る時は、草木国土すなわち成仏と言えり。かくの如く直に成仏あることを夢にも知らず、彼のバテレンども、ゼズキリシトが教えを尊しということ、魚目をとどめて明珠とするにことならず。

一、心生ずれば苦楽あり。心滅すればさわりなし。心をもって心を知るべし。されば仏と衆生との替わりは、水と氷のごとし。煩悩の念滞るを水の氷となるにたとえ、万念消滅してさわりなきを氷とけて水となるにたとえたり。されば経にいわく、三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別と説きたまう。この一心は何物ぞ、キリシタンまったく知ることなし。

参考文献「鈴木正三道人全集」鈴木鉄心編 昭和五十年 山喜房仏書林

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