仏教は何を説いているか

私が住んでいる町に発心寺(ほっしんじ)という曹洞宗の道場があり、そこの数代前の和尚に原田祖岳(そがく)老師という人がおられた。祖岳老師は曹洞宗に属していたが、臨済宗の道場でも長く修行した人であり、著書も少なくない。その著書の一つ「参禅の秘訣」の中に、大乗仏教の八大信条ということが載っていた。

仏教は何を説いているかと問われたら、以下の八つを挙げる。これらは自己本来の面目である仏性を、八つの方面から説明したものであるから、どれか一つでも徹底信解すれば、それで全部が信解できるはずだし、一つでも信解できないなら、他の七ヵ条の信解も不徹底なものと言わざるを得ない、と老師はいうのである。

仏教は何を説いているかを、「参禅の秘訣」からの抜き書きでもってご説明したい

   
一、本具仏性(ほんぐぶっしょう)

本来、何人(なんぴと)も仏性を完全に具えていることを本具仏性という。白隠禅師の坐禅和讃にいう「衆生本来仏なり」である。何人も、仏の智慧徳相である仏性と、その仏性を悟るための能力と、仏性を実現するための縁の力、の三つを完全に具えているのである。

「本来仏なり」と言うからには仏性に始まりはない。始まりがないから終わりもない。本具の仏性は永劫不変の存在であり、大宇宙が爆発しても微動だもしない「不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減」(般若心経)の真如法性である。向上して仏果菩提にいたるも一点をも増さず、退転して地獄に落ちるとも一塵をも減ぜざるものである。

仏性には無量の妙徳妙用が具わっているが、これを四つにまとめれば常楽我常(じょうらくがじょう)の四徳となる。

第一の常徳は、常住不変の徳である。私たちは永遠不滅の存在それ自体である。

第二の楽徳は、不安や苦悩のない安穏快楽の生活である。

第三の我徳は、無我の神通妙用、自由自在のはたらきである。

第四の浄徳は、無垢清浄の徳である。

この仏性を自己の体験としてハッキリととらえ、日常生活の上に体現していくのが禅の修行である。私たちは早晩かならず本具の仏性に目覚める。発心し、修行し、菩提を得、涅槃を証し、ついに仏果を成就するにいたるのである。

   
二、自我迷執(じがめいしゅう)

私たちが普通に自分と考えているものは、迷いの産物であって事実ではない、というのが「自我の迷執」の意味である。

私という観念、私という意識、これが迷いの根元である。だから自我を振りまわせば振りまわすほど、真理に背き、自己を傷つけ、社会を毒する。意識がはたらく時には、必ず自我の迷執がついてまわるのが凡夫の常である。その自我の迷執を離れることで、本具仏性が明らかになっていく。悟りとは自我の夢から覚めることである。

生々世々の修養の深浅や法縁のあるなしによって、自我の迷執には強弱の差がある。自我の迷執が強烈にはたらく人は品性下劣な悪人と言われ、軽微にはたらく人は善人・徳者といわれる。しかし智者も徳者も善人も、凡夫であることに変わりはない。

   
三、生命持続(せいめいじぞく)

人間だけではなく鳥獣虫魚にいたるまで、いやしくも自我の意識がはたらくまでに発達した生命体は、個々の生命体として無限に持続進展するものである、というのが生命持続の意味である。

一つの有情がここに存在するのは、過去の業力(ごうりき。業は行為、あるいは行為の余力を意味する)による。それは、あたかも風の力によって一つの波が生起したのと同様であって、一つの波が次の一波を起こし、さらにその次その次と無数の波を起していくように、一有情の業力が次の霊肉を造り、さらにその次その次と無数に自己を創造していく。

だから生命持続というのは、業力相続ということであって、業力は不滅である。私たちは自己の霊肉というものが存在しているように思っているけれども、実はただ業力相続の上にあらわれている所の一種の幻影にすぎない。

何となれば一切は刹那生滅(せつなしょうめつ)の法であって、一刹那の間に生じ、一刹那の間に滅して、とらえるべき実体がないからである。映画の映像が、フィルムのこまの積み重ねによって動いていくようなものである。

滝の水が常に新陳代謝していても白布を垂れたように見え、ろうそくの炎が前滅後生(ぜんめつごしょう)しながら一個の火炎に見えるように、私たちもまた一個の霊肉が存在するように見えているけれども、それはただ業力の流れにすぎない。有るが如くに見えても実体はないのである。

この霊肉が死んで無くなっても、業力の相続に変わりはない。はんこの印影が紙に写るように、私たちの諸業は生まれ変わり死に変わりしながら完全に相続していく。これが輪廻転生ということである。このようなことは、禅定力が進んでくれば明らかに知ることができる。

   
四、因果必然(いんがひつぜん)

事実の世界はいつでも何処でも因果必然である。原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因がある。真理の辞書に偶然という言葉はない。ただ必然の二字あるのみである。因果必然と聞いて不安を感じる人は、大いに反省しなければならない。

不養生をすれば病気になるとか、努力すれば成功するとか、陰徳あれば必ず陽報ありという程度の因果関係なら、誰でも分かるし、信じている人も多い。しかし正伝の仏法を除いては、この地上に徹底した因果の道理を示した教えは一つもない。それだから偶然とか運命とかいうことで片付けようとする。道元禅師は正法眼蔵のなかで次のように説いている。

「仏法参学は第一因果をあきらむることなり。因果を撥無(はつむ。否定)するがごときは、おそらくは猛利(もうり)の邪見をおこして、断善根とならんことを。おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕ち、修善のものはのぼる。毫釐(ごうり。わずか)もたがわざるなり」

因果には因小果大(いんしょうかだい)という原則がある。結果はいつも原因よりも増大するという意味で、だから悪事は一刻も早く懺悔して滅罪清浄ならしめ、反対に善事を行った場合は、なるべく長く包んでおいて成長させるのが賢明ということになる。この原則があるので、ひとたび仏教に帰依することによって、生々世々にその功徳が増長し、やがては大菩提を得ることが出来るようにもなるのである。

因果には同時因果と異時(いじ)因果があり、善悪ともに同時因果と異時因果とをともなう。同時因果とは、原因と同時に結果を収穫することである。怒りの心を起こした時ただちに阿修羅と成り、慈悲心を起こすと同時に菩薩の徳を成就するが如くである。異時因果とは、原因と結果のあいだに時間の隔たりがあることをいう。たとえどんなに時間が経とうとも、作った所の業は滅びることはなく、縁がととのえば必ずその果報を自分が受けねばならない。

仏道を学んでも、よほど修行が徹底するまでは、三世因果の道理に対して釈然としないものである。因果は仏性の活動であるから、仏性を明らかに徹見するまでは、因果の道理がほぞ落ちしないのが当然である。

   
五、諸仏実在(しょぶつじつざい)

無限の空間、無限の時間にわたって、目鼻を持った具体的な諸仏諸菩薩が無数に実在しておられる、というのが諸仏実在の意味である。既に本質的に吾人に具わっているところの性能が無限にあるというなら、その中の一つひとつが著しく発達向上して、それを特徴とするところの一大人格が具体的事実として完成し、その完成者が無限に実在するといふことを、何故に肯定できないのであるか。

この明了々白的々(めいりょうりょう・はくてきてき。明白の強調形)なる道理が了解できないという原因は、要するに吾人の生命が無限に持続するという事実あることを知らず、かつまた三世因果の道理が明らかに理解されていないからである。畢竟、宇宙の本質性能を知らないからである。即ち無量寿如来、無碍光(むげこう)如来なる自己の本質性能を知らないからである。換言すれば本具仏性の内容をご存知ないからである。更に換言すれば自我の迷執を破れないからである。

我れもまた無量の仏に逢いたてまつり、承事(しょうじ。お仕え)したてまつり、供養したてまつることを得んと、深く願い、固く誓って、仏塔を礼し、仏像を瞻仰(せんごう。仰ぎ見る)し、香華灯燭飲食(こうげ・とうしょく・おんじき)等を供えたてまつり、あるいは坐禅あるいは読経等の法供養を励み行ってこそ、いささか諸仏の実在を信じ得たといえる。

諸仏の実在を信じ得ない人は、断じて仏教を信じたとは言えない。諸仏だけでなく、菩薩も、羅漢も、神も天人も、修羅、餓鬼、地獄の衆生にいたるまで、厳然として如実に存在している。

   
六、感応道交(かんのうどうこう)

私たちはことごとく完全円満なる仏性の所有者であって、その本質に目覚めんとする所の大本能力が潜在しているのだから、いつまでも動物的生活や物質的生活だけで満足できるものではない。時節が来ればかならず無上道に目覚めようとする求道心が起こってくる。この本具仏性から発現してくるところの求道心が「感」である。

一方、大宇宙には、本具の仏性を完全に磨きあげた無量の仏さまが実在しておられる。太陽が熱と光を発散するように、諸仏はつねに智慧と慈悲の光を私たち一切衆生に向かって投げかけ、本具の仏性に目覚めさせようとする教化を常に行っている。たとえ気が付かなくとも、私たちは諸仏の教化を充分にこうむっている。そして、ひとたび自己の求道心が動き出すと、更に明らかに仏の教化力を受けることになる。これが「応」である。

諸仏と衆生とかくの如く感応道交することによって、発心も、修行も、菩提も、涅槃も、成就するのである。

   
七、自他不二(じたふに)

自我に執着している私たちは、自分と他人が対立する別のものと思っているが、元来自分と他人とは一つの存在である。さらに言えば、自己と天地万物とは一体無二の存在である。自己と境遇とが別々に存在するように思うのは、自我の迷執のなせる業である。

「聖人に己(おのれ)なし。己ならざるなし」というが如く、自我という妄念を徹底殺し尽くせば、直ちに宇宙大の自己となって復活する。元来、私たちは、自他を超越した仏性そのものであり、宇宙に遍満する法身それ自体なのである。境遇も、家庭も、社会も、国家も、天地も、宇宙も、全部自分が作って自分が眺めているのであって、自分以外の何物でもない。

凡夫迷妄(ぼんぶめいもう)の夢を見ている間は、何と言われても客観的の実在としか思えないが、ひとたび真の自己に目覚めると、宇宙は全部自己の荘厳光明であったことに気が付く。自他を峻別するのは凡夫の迷情である。自他不二が真の事実であり、仏性本来の性能なのである。

   
八、成仏過程(じょうぶつかてい)

私たちはことごとく最尊無上の人格、すなわち仏果を成就する道程を歩んでいるということを成仏過程という。一切の衆生は、おそかれ早かれ自我の迷いの夢から覚めて本具の仏性を証し、仏果菩提を成就することは疑いの余地のない事である。この自他の成仏道(じょうぶつどう)を信じるのが、大乗仏教の正信心(しょうしんじん)である。

梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょう)に、「大衆、心にあきらかに信ぜよ。汝らはこれ当成(とうじょう。当にこれから成就する)の仏なり。我はこれ已成(いじょう。すでに成就した)の仏なり。常にかくの如き信を成ぜば、戒品すでに具足す」とある。

「我れはこれ当成仏なり」と確信し、さらに「一切の衆生は当成仏なり」と確信して実行し実現するのが仏祖正伝の禅である。

参考文献 「参禅の秘訣」原田祖岳著 森江書店 昭和十四年

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