インド仏教聖地の話

昭和五二年十二月から翌年五月にかけての半年間、インドを初めとする南アジアの七ヵ国を旅行した。そのときの想い出を仏教に関係することを中心にご紹介したい。三〇年も前のことなので細かいことはほとんど忘れているが、それだけに覚えているのは強く印象に残っていることばかりである。

この旅行は出発したときは二ヵ月間の予定であった。それが私の放浪癖と、現地の物価の安いことが原因で半年間に延びたのであるが、単なる放浪一人旅ではなく、仏教の聖地や遺跡の見学をするという目的があり、そして八大聖地のうちの七つをたずねることができた。

八大聖地というのは釈尊の生涯に関係する八つの場所であり、その場所を地図で確認すると釈尊の行動範囲がだいたい推測できる。すべてガンジス川中流域の平野地帯に位置していて、その範囲はそれほど広くはない。ガンジス川はそこから東へ流れてベンガル湾に注いでいるが、海岸付近に聖地は存在しないから、釈尊は海を見たことがなかったという可能性もある。

出発する前から旅は始まっていた。旅券とビザの取得、安い航空券探し、飛行機の予約などすべて自分でやり、航空券はカルカッタ往復の正規の切符を買った。それだと一年間通用するし、変更や寄り道もできる。

十二月十七日に出発し、バンコクで三泊してからインドのカルカッタへ入った。そのときカルカッタの空港税関で、言葉が通じなくて困っている日本人がいたのでお手伝いしたら、その人が、宿が決まっていないなら迎えの車が来ているから一緒に行こうと誘ってくれた。彼は大乗会という在家仏教組織の人で、行き先は大菩提会(だいぼだいかい。マハボディ・ソサエティー)というスリランカの仏教組織の建物であった。そして私も数日間そこに泊めてもらい、カルカッタ観光をしながら心身をインドに慣らしていった。

後から考えるとこのお陰で、空港から最初の宿へたどり着くという海外旅行で最大の危険が回避できたのであり、この人には後日ブッダガヤで再会した。もう一つの幸運は、大菩提会で聖地巡りを終えたばかりの若い日本の禅僧と会い、最新の情報とインド旅行の方法を教えてもらったことであった。

カルカッタはインドでもっとも遅れた町と言われており、到着してまず目についたのは腰巻き姿の痩せた男が引くリキシャだった。リキシャという言葉は日本語の人力車から来ているとのことで、カルカッタでは人間が引っぱって走る明治時代さながらのリキシャが走っていた。しかもその車輪は空気タイヤではなく木で作られていて、それが左右に揺らぎながら今にもはずれそうな感じで回転しており、梶棒に下げてある鈴が警笛だった。ただしこの型のリキシャが走っていたのはカルカッタのみであり、ほかでは自転車で引くリキシャに進化していた。

カルカッタの町は夕食時分になるといつもひどい煤煙に覆われた。炊事に使う粗悪な石炭が原因だったと思う。そのため私は喉を痛めてしまい、さらにそれが原因で風邪をひいてしまった。インドの北部は人口が多く、カルカッタの町も夕方になると、どこからこんなに湧いてくるのかと思うほど人があふれていた。それに比べると南インドは人が少なくノンビリしていて旅行しやすかった。

   
成道の地ブッダガヤ

ブッダガヤはガヤ市の郊外にある。ガヤにあるブッダ成道(じょうどう)の聖地ということでブッダガヤと呼ばれているのであり、高さ五二メートルの大塔と、そのうしろで枝を広げている菩提樹の大木と、その下に置かれた成道の場所を示す金剛宝座(こんごうほうざ)がこの聖地の象徴である。菩提樹という名は釈尊がその下で成道したことから付けられた呼び名であり、ピッパラが正式な樹木名だという。塔の周辺にはいろんな国の寺が建ちならんでおり、数珠屋さんが繁盛していた。

ここには尼連禅河(にれんぜんが)という川幅一キロ弱の大河が流れている。この川は釈尊が悟りを開くまえに沐浴したことで知られているが、日本で成道会(じょうどうえ)が行なわれている十二月はインドでは乾期に当たるため、水はほとんど流れておらず沐浴はできない。乾期の川を見ていると、雨期には岸からあふれ出るほどの水が流れるという話が信じられなかった。この川は少し下流で別の大河と合流しており、それらの川の向こうには、釈尊が成道前に修行した前正覚山(ぜんしょうがくさん)という岩山がある。

ブッダガヤへはガヤ駅から自転車リキシャで行った。もちろんバスもタクシーもあるが、早朝に駅に着いたことでもあり、最初の聖地はリキシャで行くことにした。そしてこれは正解であった。朝日を浴びながらのんびり走るのが気持ちよかったのである。

インドとはいえこの辺りは十二月になるとかなり冷えこむ。その朝冷えのなか、薄い布をまとって裸足で歩いている子供をリキシャは何人も追い抜いた。またやせたイノシシのような黒豚をよく見かけた。それがインドの豚の標準形だということで、放し飼いにされているらしかった。クジャクも何度か見かけたが野生なのか放し飼いなのか分からなかった。

ブッダガヤではチベッタン・キャンプというチベット人が経営する安宿に泊まった。どこに泊まるか、駅からどう行くか、タクシーやリキシャの料金はいくらか、といった情報はカルカッタで仕入れた。リュックサックを背負って旅をする人が泊まる場所や宿はたいてい決まっているから、そういう場所へ行けば詳しい情報が入手できた。一週間ほど旅をして疲れてきたら、そういう場所でしばらく休息しながら次の目的地の情報を仕入れ、また出発するというように、バックパッカーの流れに乗っていれば情報は自然に入ってきた。

旅の初めのころ私はヨーロッパから来た旅行者に、「お前はヒッピーか」とよく質問した。彼らの多くはイスタンブールからアジアハイウェイを通ってインドへやって来る。その長旅の間にみんな薄汚れていたからであるが、「私はヒッピーだ」という人間は一人もいなかった。ところが旅の後半になると今度は私が「お前はヒッピーだろう」と言われるようになっていた。

インド北部やネパールにはチベット人が多かった。彼らは中国に占領されたチベットから亡命してきた人達であり、チベットの宗教的および政治的な指導者であるダライラマもインド北部のダラムサラで亡命生活を送っていた。

そのダライラマがたまたまブッダガヤのチベット寺院前の広場で説法していた。そのときは英語で話していたので、広場には欧米の旅行者もたくさん集まっていた。それを見てチベット仏教はこれから世界に広まっていくだろうと思った。インドに亡命したことで英語を身につけたことや、国家が存亡の危機に置かれている危機感が、チベット人に大きな力を与えていると感じたのである。

   
竹林精舎のあるラージギル

ラージギルへ行ったのは大晦日のことで、ブッダガヤから直通バスがあった。この二つの聖地はそれほど離れていない。ラージギルは釈尊の時代に、マガダ国の首都が置かれていたところであり、町は王舎城(おうしゃじょう)と呼ばれていた。そのマガダ国が発展して、インドにおける最初の統一国家マウルヤ王朝になったのである。

この町には最古の仏教寺院である竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)の遺跡があり、郊外には釈尊のお気に入りの山、霊鷲山(りょうじゅせん)がある。釈尊が法華経を説いたとされる霊鷲山は、法華経を所依の経典とする宗派にとっては最重要の聖地であり、山のふもとには第一回仏典結集が行われた七葉窟(しちようくつ)もある。

この町にはインドには珍しいことに温泉もあって、服を着たままの混浴になっていた。そしてこのぬるめの濁った温泉に入ったのが、インドで風呂に入った最初にして最後であった。安宿を泊まり歩いていたため、風呂どころかシャワーともほとんど縁がなかったのであるが、空気が乾燥しているから体の汚れは大して気にならなかった。

ラージギルでは日本山妙法寺という日蓮宗系のお寺に泊まった。この寺はただで泊めてくれた上に食事も出してくれたが、朝五時から始まる朝課に参加しなければならなかった。うちわ太鼓をたたきながら題目を唱え、二つある大太鼓も交代で打つのである。旅行者が泊まる大部屋は本堂の真下に位置しているので、サボりたくても太鼓がうるさくて寝てられない仕組みになっていた。

妙法寺の僧の一人が、霊鷲山に日参する修行をしていたので、私も同行させてもらったことがある。するとその前の夜、強盗に襲われたら抵抗せずに何でも渡しなさいと注意された。数日前チベット人の巡礼が強盗に襲われ、抵抗したため大ケガをしたのだという。そして夜明け前というよりも深夜というべき真っ暗なうちに出発し、星明かりを頼りに星空へ向かって登るように霊鷲山に登り、うちわ太鼓を打ち鳴らしながら山頂で夜明けを迎え、乾期の砂塵のために茶色にかすむ地平線から昇ってくる赤茶けた朝日を拝んだ。二千五百年前には釈尊も同じ場所から同じような朝日を見たはずである。

インドではしばしば停電を経験した。日本だと停電するのは台風か雷のときぐらいであるが、インドの田舎町では毎日のように停電し、明かりが消えるとみごとな星空が出現した。そうしたとき一度に三個の人工衛星を見つけたことがあった。一定の速度でゆっくり移動している星が人工衛星であり、日本でも空が暗いところなら見ることができる。

妙法寺に滞在して四〜五日たったとき、あさってから月例の修行が始まると言われた。三日間、断食断水で朝から晩までお題目をとなえる修行をするというのであり、「終わってから飲む水はおいしいですよ」と誘惑されたが、風邪をひいて調子が悪かったので出発することにした。カルカッタでひいた風邪がまだ残っていたのであり、インドの風邪はしつこかった。

ラージギルから先は汽車とバスを乗りつぎ、陸路で国境を越えてネパールへ入る予定をしていたが、風邪のため元気が出なかったので、パトナから飛行機でカトマンズへ飛んだ。そのため八大聖地のひとつバイサリを省略することになった。ところがカトマンズは宿にもレストランにも暖房がなく、寒くて風邪の治療には向かなかったので、暖かいポカラへ移動し風邪が治るまでしばらく滞在した。

登山やトレッキングの基地になっているポカラの町からは、世界に十四座ある八千メートル級の山のひとつアンナプルナが間近に眺められる。明治三三年、河口慧海師がヒマラヤを越えてチベットへ密入国したとき出発したのがこの町だった。そしてここから南下したところにルンビニーがある。

   
生誕の地ルンビニー

ルンビニーはネパール最南部のインドとの国境付近にある。ポカラから国境の町までバスで八時間ほどかかったと思う。国境の町でバスを降り、食堂を探しながら歩いていたら、道ばたに置いた机の向こうから二人の男が私を手招きした。私は非常に空腹だったので無視して通り過ぎ、食堂で腹ごしらえをしてネパールルピーで支払うと、インドルピーでお釣りがきた。いつの間にかインドに入国していたのであり、そのときになってやっと、先ほどの青天井の下の二人が出入国管理官だったことや、人々が自由に往来していてもそこが国境だったことに気がついた。

国境を越えてまたネパールへもどり、自転車リキシャでルンビニーへと向かった。リキシャを使ったのは、バスは午前中に一便しかなく、タクシーなど存在しなかったからである。どちらを向いても地平線というタライ盆地の中の、あたり一面に菜の花が咲いている道を、ルンビニーまで二〜三時間かけて走った。

途中の道ばたの木の下に茶店があったので、目の前で自転車を漕いでいるおじさんの背中をつつき休憩を提案した。簡単な屋根と囲いがあるだけの粗末な茶店だったが、亭主はその小屋に住んでいたのかもしれない。粗末とはいえ屋根がある茶店はまだマシな方であり、木の下にしゃがみこんで七輪とナベだけで営業している茶店も多い。よく見ると亭主は腰を下ろさず、一日中しゃがんでいることが分かる。

インド式紅茶の入れ方はいたって簡単である。小さなナベに水と牛乳と茶葉と砂糖を入れて火にかけ、沸騰してきたら吹きこぼれる直前に火から下ろし、布袋で漉せばできあがりであり、ナベにはたいてい生姜のかけらが一つ入っていた。ただし甘ければ甘いほどおいしいという昔の日本のような状態なので、飲むとかえって喉が渇くほどであり、そのためいつも砂糖を減らしてもらった。

水を飲むのは危険なので、水分補給のためにお茶はよく飲んだ。ネパールのお茶はインドと変わりがなく、スリランカのお茶には生姜の代わりにシナモンが入っていた。パキスタンのお茶にはくだいた木の実が入っていて、これはおいしかった。アフガニスタンのお茶は砂糖とミルクを入れた緑茶であった。これもおいしかったので帰国してから試してみたが、日本の緑茶では同じ味が出なかった。

茶店から少し走ったところで牛車(ぎっしゃ?ぎゅうしゃ?)の大群が、ひどいぬかるみの道を進んでいく不思議な光景を見た。牛車の列はどこまでも続いていて先頭もしんがりも確認できなかった。当時のネパールは幹線道路をはずれると道がほとんど整備されておらず、牛車が活躍していた。つまり牛車しか走れない道ばかりだったということである。牛車というのはこぶのある牛が引く荷車であり、この車は釘を一本も使わずに作られているという。

ルンビニーには地平線に日が沈むころ到着した。公園のように整備されたルンビニー園の中に建つ、石造りの白い小さな寺が釈尊生誕の場所である。寺に入ると正面に、誕生の場面を彫った石の浮き彫りが本尊として祀られており、寺の裏にはアショカ王の記念碑、横には摩耶夫人(まやぶにん)が水浴したという池が残っていた。

その寺の壁の窪みに寝具として使われているような布が押しこんであった。いつもその寺で遊んでいた女の子と友だちになり、帰国してから写真を送ってあげたが、どうやら彼女はその寺に住んでいたらしい。だとすると家財道具はほとんど持っていないことになるが、それはインドの貧しい人たちの常である。

ルンビニー園を見学をしながら、今日はどこに泊まろうかと考えていたら、お参りに来ていたインド人が、向かいのビルマ寺院に行けばいいと教えてくれた。そのビルマ寺院の小さな部屋で三泊か四泊したと思う。インドではよくお寺に泊めてもらったが、アフリカを旅した人の話では、アフリカではよく教会に泊めてもらったといっていた。そうしたときにはお寺であれ教会であれ、出発するとき若干のお布施をするのが礼儀である。

ただし泊るといっても、部屋の中にあるのは夜具なしの寝台のみであり、この愛想のなさは安宿も同じである。何もないから気軽に人を泊めることができるのであろう。建物の作りも簡単そのものであり、まず石を積んで壁を作り、あとは屋根と窓と戸を付けただけ、という建物ばかりである。アムリトサルにあるシーク教の大本山、黄金寺院の無料宿泊所で泊まったときは寝台すらなく、コンクリートの床の上に寝袋でごろ寝した。ここは外国人旅行者のために二部屋用意してくれていたが、インドといっても北部は冬は冷えるからこのときは寒かった。

釈尊はシャカ族の王家の生まれとされており、そのシャカ族の居城のカピラ城の遺跡がルンビニーから三〇キロほどの所にある。しかしビルマ寺の和尚の話では、道が非常に悪く、牛車を雇って行くしかないというのであきらめた。ただしカピラ城の遺跡とされる場所は二ヵ所あって、どちらが本当の遺跡か分かっていないという。

   
入滅の地クシナガラ

クシナガラはルンビニーから一日行程の所にある。まず国境を越えてインドへ入り、乗り合いのジープでゴラクプールという町へ行き、そこでクシナガラへ向かうバスを探した。ところが切符売り場には、運動会の棒倒しのように人が殺到していたのでバスをあきらめ、タクシー乗り場へ行くとすぐに客引きが近づいてきた。料金を聞くと非常に安い。本当にそれでクシナガラまで行くのかと念を押すと、まちがいなく行くという。ところがタクシーに乗っても一向に発車せずに他の客をさがしている。乗り合いのタクシーだったのである。

当時のインドは高額の関税のため外国車はほとんど走っておらず、タクシーを含めた乗用車のほとんどすべてがアンバサダーという大型の国産車であり、同様にトラックは国産のタタのみであった。いくら大型とはいえそのタクシーは、運転手をいれるとなんと十二人も詰めこんでから出発した。運転手は運転席の端で体をねじった状態で運転し、チェンジレバーは運転手から二人目の客の股ぐらから出ていた。

私は待ちくたびれてうろうろしていたので乗るのが遅れ、後部座席の前の空間に中腰でしゃがむような姿勢で乗せられた。こんな詰めこみ状態で二時間も乗っているのは、誰しも辛いはずだが文句をいう人はいなかった。インド人といえど安ければ文句を言わないのである。

クシナガラではまたビルマの寺に泊まった。近くに宿はあったがあまりに高かったので値切ったら、ビルマ寺院に行けばただで泊めてくれると教えてくれたのであり、親切なのか不親切なのかよく分からない。このビルマ寺院の涅槃堂(ねはんどう)のある場所が釈尊入滅の地とされており、お堂の中には涅槃像が安置されている。

この寺の境内には、平家物語の「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことわりを表す」で知られる沙羅の木が二本植わっていた。日本で沙羅の木と呼ばれているナツツバキではなく本物の沙羅の木である。またこの寺からそれほど遠くない所に、火葬塚と呼ばれるれんが造りの古い塔があった。釈尊の遺体はこの塔のある場所で荼毘(だび)に付され、遺骨は有縁の八つの部族が持ちかえり塔を作って納めたとされる。

   
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な祇園精舎は、釈尊在世時に作られた寺のひとつであり、近くにはコーサラ国の都だった舎衛城(しゃえじょう)の遺跡がある。

このあたりは交通の便の悪いところなので移動にはずいぶん苦労した。祇園精舎へはバルランプールという駅からバスで行ったが、その駅に到着したのは深夜であった。知らない土地での夜汽車のひとり旅は心細いものであり、宿が決まっていない場合はなおさらである。

夜汽車の旅ではインド人も旅情をそそられるらしく、車内で一人の男が大声を張りあげて歌い始めた。歌の内容も、歌う理由も、それをみんなが静かに聞いている理由も分からなかったが、これぞインドという感じがした。バルランプールに着いたときリキシャのおやじが声をかけてきたので、これで宿に泊まれると喜んだ。ところがその宿ではナンキン虫のためにひどい目にあった。

祇園精舎の遺跡には建物の基礎ばかりが並んでいた。釈尊が住んでいたという二間続きの小さな建物の基礎も残っていて、奥の部屋には金剛宝座が置かれていた。そこにお参りしたとき、スリランカの寺の和尚に会い、幼稚園を経営している寺でお茶をご馳走になった。そして今日はここに泊まっていけと言われて心を引かれたが、まだ朝のうちだったので出発することにした。

バスを待っていたらタンガという乗合馬車が目のまえで止まり、御者が乗れと手で合図した。バスを待っているのだと言うと、バスはまだ来ないから乗れとしつこく勧める。そこで馬車は初めてでもあるし面白そうなので乗ってみた。ところがしばらく走った所でバスに追い抜かれ、しまったと思ったが遅かった。

   
初転法輪の地、鹿野園

初転法輪(しょてんぼうりん)とは初めて法輪を転じること、つまり初めての説法を意味しており、ガンジス川中流にあるベナレス市郊外の鹿野園(ろくやおん)がその地である。釈尊がどれほどすばらしい悟りを開こうと、説法しなかったなら仏教は今日まで伝わらなかった。そのため鹿野園は四大聖地の一つに数えられているのであり、広大な園内には塔や建物の遺跡が所せましと並んでいた。

ここで泊まったスリランカの寺の寝台は一枚板でできていた。そのため机の上で寝ているような感じであった。インド人は寝具一式を持って旅行する習慣があるから、こうした板の寝台でも問題はないのであり、寝台列車の寝台もやはり一枚板であった。駅に赤帽がたくさんいたのは、寝具の入った大きな荷物を運ぶためだったのである。

ヒンズー教の重要な聖地であるベナレスには、インド中から参拝者が集まってくる。ここのみやげ物の名物はガンジス川の水の缶詰である。末期の水にするために買って行くということで、ガンジスの水は腐らないという。ただし聖なる川の水は、お世辞にもきれいとはいえない水であった。

寒い季節にもかかわらずガンジス川ではたくさんの人が沐浴していた。女性もサリーを着たまま水に入り、上手に体を隠しながら乾いたサリーに着替えていた。風邪をひきたくなかったのと、荷物が心配なので私は沐浴しなかったが、どんなものか体験しておけばよかったと今ごろ後悔している。

   
サンカシア

ここが八大聖地の一つになっているのは、次のことが理由とされる。釈尊のお母さんの摩耶夫人は、釈尊誕生の一週間後に亡くなり、仏陀となるべき子供を産んだ功徳で須弥山の頂上にある、とう利天(とうりてん。とう、は立心偏に刀)に生まれ変わった。そのため釈尊は成道するとまずとう利天に上って摩耶夫人に説法し、そして地上に降り立った場所がサンカシアだというのである。

この伝説のため重要な聖地となり、昔はたくさんの塔や建物が建っていたというが、交通の便の悪いこともあって、私が行ったときには忘れ去られたような存在になっており、訪ねる人はほとんどなかった。

ここへは世界最大の大理石建築として知られるタージマハルがある町、アグラから汽車で行った。サンカシアがあるパカナ駅には夜遅く到着する予定だったので、車内で周囲の乗客たちに、「私はパカナへ行く。着いたら教えてくれ」と頼んでおいた。車内放送などなく、あったとしても聴きとれず、また夜になると駅名の標識が読めなくなるからである。

すると一人の男が、「これからパカナに行くのは止めた方がよい。あそこは危険だ。明るくなってから行くべきだ」と言い出した。するととたんに回りの人間みんなが同じことを言い出し、軍服姿の兵隊さんまでやってきて、「私は忠告する。あそこへ夜行くのは危険だ」などと、ひどく真面目な顔で忠告してくれた。

インド人は何事においても、たとえそれが自分に関係ないことであっても、とにかく発言するのが好きな人達である。バスの前の方で乗客と車掌がケンカを始めると、一番うしろに坐っている人まで大声でなにか意見を言い始めるのであり、何を言ってるかは分からないが、無責任発言の多い国民であるのは確かである。

だから彼らの言葉を鵜呑みにすることはできないが、かといって無視することもできない。そこでちょうど汽車が駅に停まっていたので駅員に聞いてみたら、やはりやめた方がいいという。「一等の待合室をただで使わせてやるから今夜はここで泊まれ」と言うので、結局その駅で泊まることにした。ところが待合室へ行くと番人みたいな男がいて泊まるのなら金を出せという。そこがどこの駅だったかまったく覚えていないが、駅前で食べたカレーがおいしかったことはよく覚えている。

翌朝やっとにたどり着いたパカナ駅は、建物ひとつない無人駅であり、周囲は広い空き地になっていて宿も食堂もなく、深夜に到着していたら野宿するしかなかった。駅の前に数台の馬車が止まっていて、汽車を降りた人が乗りこむと次々に出発していった。最後に残った馬車の御者が、私を手招きして「この馬車に乗れ」と合図をした。

私は空腹だったので「どこかに食堂はないか」ときいたら、とにかく乗れという。乗合馬車なので行き先が決まっていて、服装などから私がサンカシアへ行くのが分かっていたのである。空腹ではあったが広大なインドの大地を、屋根も囲いもない馬車で風に吹かれながら旅するのは楽しかった。駅のあたりは殺風景だったが、すぐに見渡すかぎり畑が広がる農村風景となり、林の陰に集落が見え隠れしていた。インドの典型的な、それも比較的豊かな農村地帯のようであった。

サンカシアは信じられないほど小さな遺跡だった。柵で囲まれた狭い敷地の中にあるのは、崩れた小さな建物と、アショカ王の記念碑の上に載せられていたゾウの石像だけ、その石像もかなりいたんでいた。

苦労してたどり着いたのにこれでは余りにさびしすぎる。ほかに何かないかと見渡すと、少し離れた所に遺跡とそっくりの建物が並んでいたので、遺跡の一部かもしれないと行ってみたら、そこには人が住んでいた。二千年前の遺跡と、いま人が住んでいる家と、見かけはほとんど違わないのである。その集落の中心にはイスラム教のモスクで見かける尖塔が立っていたから、そこはイスラム教徒が住む集落らしかった。

歩き回っていたら先ほどの馬車が近づいてきて、また「乗れ」という。もう少しゆっくりしたかったが、見る物も食べる物もない。仕方なしに駅へもどると、駅前広場で朝市が開かれていた。とにかく空腹だったので、何か食えるものはないかと朝市を探したら、天ぷらのようなものを売っていた。ところがそれは鷹の爪のような辛いトウガラシの天ぷらであり、トウガラシの入った辛いダシまでかかっていた。

辛いもの好きのインド人は、お金がないときにはトウガラシをかじりながらご飯を食べたりする。だからこの天ぷらもご飯のときにかじるためのものだったのかもしれない。その天ぷらのあまりの辛さに顔を引きつらせていたら、天ぷら屋のおやじがこれを飲めと言って水をくれた。この水を飲んだために後でひどい目にあった。

なおインド料理というとカレーライスを真っ先に思いうかべるが、インドにカレーライスという料理は存在しない。カレーとライスは別々に注文するから、ご飯にカレーをかけて食べてもそれはカレーとライスなのである。ご飯が食べられるインドは食べ物に関しては豊かな国だと思った。パキスタンやアフガニスタンではご飯類は手に入らなかった。

その日は幸運なことに週に一便という首都デリーへの直通の夜行列車があった。ところがその汽車の中で急に発熱し、デリーでしばらく寝込むことになった。生水を飲んだのが原因だったと思う。なかなか回復しなかったのでデリーの安宿で連泊していたら、同じ宿に泊まっていた日本人が、日本料理を食べれば回復すると言って日本料理店へ連れて行ってくれた。出てきたのはとんでもなくまずい日本食だったが、不思議と体調はよくなった。しかし帰国してからパラチフスのため、京都西市民病院の隔離病棟に強制入院させられたから、どんなに天ぷらが辛くてもインドで生水を飲んではいけない。

   
アジャンタ石窟寺院

ここから先は八大聖地に入っていない番外編である。

四大都市の一つボンベイの近くにあるアジャンタ石窟(せっくつ)群は、渓谷内側の切り立った岩壁に横穴を彫って作った洞窟形式の寺院であり、二六窟すべてが仏教窟だった。石窟寺院はインド、中央アジア、中国などで多く作られ、インドではボンベイのあたりに集中している。日本では大分県にある臼杵(うすき)の石仏群が石窟寺院といえるものかもしれないが、規模も精巧さも桁ちがいである。アジャンタは仏教の衰退とともに忘れ去られ、十九世紀に発見されるまで千年以上も密林の中に眠っていたという。

石窟寺院の内部は、仏像から須弥壇(しゅみだん)から柱や飾りにいたるまで、すべてが元の岩盤を彫って作られており、修行者が居住する窟では寝台も岩でできていた。インドのような暑い所では、うす暗くてひんやりした洞窟の中は快適な居住空間になる。強烈な日射しが降りそそぐ日なたから石窟に入ったとき、心底ほっとしたことを今でもよく覚えている。アジャンタの壁画は法隆寺金堂の壁画に酷似している。そのためここの壁画の様式が遠く日本にまで伝わったとされている。ここでは作りかけで放置された窟がなぜか印象に残っている。

アジャンタへはジャルガオンという駅からバスで行った。前日その駅に着いたとき、駅員が「日本から来たのか。宿が決まっていないなら一等の待合室を使えばいい」と親切に勧めてくれた。その一等の待合室には、涼しそうな籐の寝台が並んでいたので、これはありがたいと感謝して寝たのが悲劇の始まりであった。ナンキン虫の攻撃のため眠れないのである。これはおかしいと寝台をひっくり返して調べてみたら、すきまにビッシリとナンキン虫が詰まっていた。ほかのインド人はみんな平気な顔で寝ていたから、ナンキン虫はよそ者を食うのが好きとみえる。

虫の中でもナンキン虫のかゆさは別格であり、しかもインドのナンキン虫は真冬にも食いついてくる。とはいえさすがに寒いときは動きがにぶくモタモタしているが、暑くなると同じ虫とは思えないほどトトトトと走りまわるようになる。安宿を利用する人間にとって、インドの旅はナンキン虫との戦いの旅であった。

   
エローラ石窟寺院

エローラ石窟群はアジャンタの近くにあってアジャンタよりも規模が大きい。ここの石窟は低い岩山が素材になっていて、三四窟あるうちの向かって右から十窟ほどが仏教窟、中央がヒンズー教窟、左の五窟ぐらいがジャイナ教窟であった。三つの宗教の寺院がなぜ仲良く並んでいるのか不思議に思ったが、まだその理由を調べていない。

ここではヒンズー教窟が一番見ごたえがあった。特に中央にある寺院は規模も内容もすばらしく、しかもそれは石窟寺院でありながら石窟ではなかった。岩山を上から彫り下げたらしく、上にあった岩石をすべて取り除いて、普通の寺の形に仕上げてあったのである。とてつもない歳月をかけて作ったのはまちがいなく、インド人の根気は恐るべきものだと思った。

石窟寺院というとアフガニスタンのバーミアンの遺跡が有名であるが、バーミアンは岩盤がもろい堆積岩なので彫りやすい。そのかわり彫った岩の表面がでこぼこになってしまうため、漆喰などで表面を仕上げる必要がある。ところがインドの石窟の岩盤はどこも緻密できわめて堅い。それをノミと金槌で彫り進むのだから、気の遠くなるような作業である。エローラで天井に開けられた大きな明かり取りの穴を見上げながら、この穴のために何人の石工の生涯が終わったのだろうと思ったほどである。

ここでは炎天下のクラクラするような日射しの中を、飲まず食わずで五時間も歩き回ったので、後でお茶とコーラをがぶ飲みした。

   
サンチーの大塔

サンチーの大塔はインドのほぼ中央に位置するサンチー村にある。サンチーの駅から遺跡のある丘が見えているぐらいなので、きわめて交通の便のよい遺跡である。塔のほかには見るべきものなどないと思われる小さなサンチー村だが、昔ここは中部インドにおける仏教の中心地であったという。またここはアショカ王の息子のマヒンダ長老が、スリランカへの布教の旅に出発した場所でもある。つまり南伝仏教の出発点というべき聖地であり、駅前にスリランカの寺があったのはそのためであろう。

サンチーの大塔は塔そのものよりも、たくさんの彫刻で装飾された四つの石の門の方が有名である。これらの門は神社の鳥居に形が似ているので、鳥居の原型ではないかという説を聞いたことがある。しかしそれなら日本に伝わって来る途中の国にも、同じようなものがあってもいいはずだがどこにもない。だからサンチーから日本に鳥居が伝わったとは考えにくい。

ここでは駅前のスリランカの寺に泊まった。その寺の寝台ひとつの小さな部屋に何日滞在したのか覚えていないが、電気がなかったので明るくなると起き、暗くなると寝た。丘に登って眺めると周囲には農村地帯がどこまでも広がっていた。インドでは太陽の移動する音が聞こえると誰か書いていたが、本当にその音が聞こえるようなのんびりとした村であった。

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