福受け尽くすべからず

十二世紀の中国に大慧宗杲(だいえそうこう)という禅僧がいた。当時の臨済宗を代表する禅僧の一人であった大慧禅師は、以下のことを座右の銘にしていた。

第一に勢い使い尽くすべからず。

第二に福受け尽くすべからず。

第三に規矩(きく。規則)行い尽くすべからず。

第四に好語説き尽くすべからず。

何が故ぞ。

好語説き尽くせば人かならずこれを易(あな)どる。

規矩行い尽くせばかならずこれを繁(わずら)う。

福もし受け尽くせば縁かならず孤なり。

勢いもし使い尽くせば禍(わざわい)かならず至る。

以上の言葉を並べ替えると次のようになる。

「第一に勢い使い尽くすべからず。使い尽くせば禍(わざわい)かならず至る」

勢いというのは権力、財力、知力、行動力、などの力のことだと思う。そうした力をたくさん与えられている人ほど、大きな自制心が必要になる。アクセルを踏めばたちまち速度が出るいい車ほど、運転には自制が求められるのである。

「第二に福受け尽くすべからず。受け尽くせば縁かならず孤なり」

福を受け尽くしてはいけない。とくに自分ひとりで福を受けたりすると、人はみな離れて行くというのである。

「第三に規矩(きく)行い尽くすべからず。行い尽くせばかならずこれを繁(わずら)う」

規矩というのは定規のことであり、ここでは規則を意味している。規則を守らせるのは大事だが、やり過ぎると逆効果になるというのである。

「第四に好語説き尽くすべからず。説き尽くせば人かならずこれを易(あな)どる」

言葉で説いてしまうと、どんなに大事なことであっても軽く受け取られる。また頭で納得すると、修行して自ら体得するということをしなくなってしまうのである。

文豪と呼ばれた幸田露伴氏が「努力論」の中で、惜福(せきふく)、分福(ぶんぶく)、植福(しょくふく)ということを説いている。

惜福とは福を惜しみ、福を受け尽くさないこと。受け尽くすとなくなってしまうから、福は受け尽くしてはいけないという。

分福は福を分けること。この世のことは時計の振り子のようなもので、右に動かしただけは左へ振れ、左に動かしただけは右へ振れる。だから人に福を分け与えれば、福はまた自分にかえってくる。分福のできない人は大きな福を得ることはできないという。

植福は福のもとを植えること。りんごが欲しければりんごの苗を植え、ぶどうが欲しければぶどうの苗を植え、福が欲しければ福の苗を植える。手のひらに乗る小さな苗木がやがて巨木に育つように、小さな福でも植えて育てれば大きく育つ。遠回りに見えてもこれが一番の近道であり、植福によって世界全体が進歩し幸福になるという。

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