延命十句観音経の話 

延命十句観音経(えんめい・じっく・かんのんぎょう)は、経名にあるごとく延命功徳のあるお経とされており、そのため長寿の祈願や、病気やけがの回復祈願に最適のお経とされている。またわずかに十句、経名を含めても四十九文字という短さなので、短時間の読経や写経にも適している。

短いお経の代表は般若心経であるが、短いといっても心経の写経には慣れた人でも四〇分、初めての人だと一時間以上かかる。ところが十句観音経は十五分もあれば充分なので、その手軽さが好まれてこの経の写経用紙も売られている。

またこの経の特徴の一つは唱えやすいことであり、その唱えやすさの秘密は、初めの二句が三文字、次の四句が四文字、終わりの四句が五文字、というように一字ずつ増えていくところにあるらしい。

だからこの経は、より短く、より唱えやすく、より功徳がある、という便利なお経を求める人の要望にこたえて、作られたお経ではないかと思う。

十句観音経の成立に関しては、仏祖統記(ぶっそとうき。宋代の一二六九年成立)という書物が次のような話を伝えている。西紀四五〇年、南宋の王玄謨(おう・げんぼ)という武将が、北征に失敗した罪で斬殺されることになった。ところがその前夜、夢の中である人から「この経を千回読誦すれば必ず許される」と十句観音経を授けられ、目が覚めてから一心不乱に読誦して千回達成すると、夢で見た通り許された、という話である。だとするとこの経は五世紀半ばには成立していたことになる。

白隠禅師は延命十句観音経霊験記(れいげんき)の中で、「この経は観音菩薩から直々に授けられた霊験あらたかなお経であり、王玄謨を初めとして多くの人々がこの経によって救われた」と、この経のすぐれた功徳を強調し、救われた人々の事例を紹介している。

そして禅師は、この経が大蔵経に入っていないことや、中国で成立した偽経(ぎきょう)ではないかといわれていることに対しては、次のように反論している。

「いつわりにもせよ、真にもせよ、かくばかり霊験ましまして世上を利益したまうからは、近松門左(衛門)が作にもせよ、至道軒が説にもせよ、ずいぶん信仰申し、昼夜に読誦し、このお経の利益によって、在家は家業繁栄し、火難盗難水難などをのがれ、万事めでたく浮世を渡らば、上もなく吉兆(きっちょう)ならずや。

出家は次第に信心堅固、大道の淵源(えんげん)に徹し、つねに勤めて大法施(だいほうせ)を行じ、大菩提を成就せんこと、皆この経の功徳ならずや。

武士は昼夜に忠勤をはげまし、武術を精錬する間も、片時もさらに間断なく勤めて、ひそかにこの経文を秘誦し、武運をやしない、頴気(えいき)を増し、君を堯舜(ぎょうしゅん)の君にし、民を堯舜の民にし、子孫は次第に繁栄し、王位を守護し、万民を安撫(あんぶ)し、ご当家御代長久、万歳万歳を祈らば、これに過ぎたる大忠節はこれ有るべからず。

(中略)御家中ならびに江戸中は申すにおよばず、京も田舎も、関東関西、都賀留合浦(つがるがっぽ。津軽)の果てまでも、老若男女もろともに読誦の数に限りはなけれども、まずは大略一万べん程ずつのお触れあって読誦させまく欲しき事よ」

仏壇の前で読経するときは、禅宗ではまず本尊様に回向し、それからご先祖様に回向することになっている。そしてそのあと、時間の許すかぎり根気の続くかぎり、十句観音経や般若心経などの短いお経を、心をこめてくり返し読んでほしい。すると心の中が空っぽになってくる。心の中を空っぽにする時間を一日に一度は持つようにしないと、やがて心身を破壊することになる。

      
延命十句観音経

以下が十句観音経の全文である。

延命十句観音経。観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心。

以下が読み方である。

えんめいじっくかんのんぎょー。かんぜーおん。なーむーぶつ。よーぶつうーいん。よーぶつうーえん。ぶっぽうそうえん。じょうらくがーじょう。ちょうねんかんぜーおん。ぼーねんかんぜーおん。ねんねんじゅうしんき。ねんねんふーりーしん。

読経するには、まず「えんめいじっくかんのんぎょー」と、経名を読んでから、「チン」と鈴(りん)を一声入れ、それから本文を読んでいく。短いお経なので三回読むことになっているが、三度といわず何度でもくり返し読んで欲しい。二回目からは経名を読まずに「観世音」から読みはじめ、最後は鈴三声で終わる。

以下が訓読である。

延命十句観音経。観世音。南無仏。仏と因あり。仏と縁あり。仏法僧と縁あり。常楽我常なり。朝に観世音を念じ、暮れに観世音を念じ、念念に心に(信を)起こし、念念に心を(観世音から)離さず。

意味はつぎのようなことである。

初めの二句「観世音、南無仏」は、観音菩薩や十方の諸仏に対する呼びかけであり、「あなたの観音さまは目覚めていますか」との問いかけでもあり、となえることで観音さまになり切っていくことでもある。この三文字からなる二句は信心のかなめを示している。

「仏と因あり」は「衆生本来仏なり」であり、仏になるための因をすべての人が持っていることを表している。これを本具仏性(ほんぐぶっしょう)ともいう。

「仏と縁あり。仏法僧と縁あり」は縁の大切さを教えている。たとえ「衆生本来仏なり」であっても、仏性が顕現するには縁の力が必要なのである。

「常楽我浄」については後でまとめて説明する。以上の四文字からなる四句は大乗仏教の要旨を表している。

「朝念観世音、暮念観世音」は、朝から晩まで、晩から朝まで、観音さまを念じて忘れないことである。

「念念従心起、念念不離心」は「念念に自心の観音さまを目覚めさせ、念念に観音さまを離れず」である。常にこの経をとなえて観音さまになりきり無我になりきり、無我の心からすべての念を起こすようにすれば、大安楽になること間違いない。この五文字からなる四句は修行のかなめを示している。

     
常楽我浄

常楽我浄は涅槃(ねはん)の四徳と呼ばれており、この世界の真実の姿を四文字で表現したものである。仏さまの目で見ればこの世は常楽我浄の妙徳をそなえた仏国土である。だから自心の観音さまに目ざめることで、次のような仏国土の姿が見えてくるのである。

「常」は常住不変の常徳であり、不生不滅の大生命を私たちが生きていることを表している。つかの間の命であっても永遠の命にふれることはできるのである。

「楽」は安穏快楽の楽徳であり、私たちの本心本性は絶対の安楽そのものであることを意味している。法華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)にある如く、「衆生、劫つきて大火に焼かると見る時、我が此の土は安穏にして天人常に充満す」なのであり、海の表面は嵐で波立つことがあっても深海の水は不動なのである。

「我」は我徳、真実の自己の徳である。小さな我見我執をはなれた自由自在なる無我のはたらきの徳である。

「浄」は浄徳、清浄無垢の徳である。迷いの心が尽きたときに現れてくる清らかな世界の徳である。

常楽我浄という言葉は、もとは四顛倒(してんどう。四つの誤った人生観)をあらわす言葉として使われていた。つまり移ろいゆくこの世界を常なるものとする常顛倒(じょうてんどう)、四苦八苦に代表される苦しみに満ちたこの世界を楽ととらえる楽顛倒、我れと我がものはどこにも存在しないのに自我に執着する我顛倒、不浄に満ちたこの身を浄と見なす浄顛倒、の四つである。

大乗仏教はこの常楽我浄に高い次元の意味を与え、凡夫の眼で見ればこの世界は四顛倒の迷い世界であるが、仏さまの目で見れば四徳の仏国土だと説くのである。

参考文献
「延命十句観音経霊験記」白隠禅師著 原田祖岳校注 大蔵出版 昭和五四年
「観音経読み解き事典」観音経事典編纂委員会 柏書房 二〇〇〇年

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