因果の話

北海道の利尻島(りしりとう)を旅したとき、たまたま小さな村で行われていた夏祭りを見物した。そこに、ろくろっ首の見せ物小屋がかかっており、客寄せの口上で「親の因果が子にむくい」ということを言っていた。親の非道の報いを受けて、子供がろくろっ首になったというのであり、四〇年も前のことだが、どんな首なのか見ておけばよかったと今ごろ後悔している。

この口上に出てくる因果は、「因果の法則」を意味している。因果の因は原因の因であり、果は結果の果であるから、原因と結果の法則を、因果の法則とか、因果律というのである。

ものごとはすべて原因があって結果がある、だから原因を変えれば結果も変わる、原因を無くせば結果も無くなる、というのが因果の法則であり、世界は因果の法則に従って動いている、宇宙は無数の因果関係で成りたっている、というのが仏教の基本的な世界観である。

それに対して、たとえばキリスト教やイスラム教では、神様がこの世界を創造し支配しているとするが、仏教では仏さまが世界を創造し支配しているとはいわないのである。だからキリスト教の「神の座」に坐るのは、仏教では仏さまではなく因果の法則であり、そのため仏教には因果の法則に反する奇跡は存在しないのである。

因果とよく似た言葉に因縁(いんねん)があって、この場合、因は直接原因、縁は間接原因である。つまりタネを蒔くのが因、水や温度などの環境が縁、そして実を結ぶのが果、というように、因果を因・縁・果の三段階に分けたものである。

因果というと時代おくれな言葉のように思うかもしれないが、今日の科学技術というものも、物事の因果関係を究明し、それを人間の役に立つように利用しているのである。車が走り回るのも、飛行機が飛び回るのも、すべてこうすればこうなるという物事の因果関係を調べて、利用しているのである。

その因果の法則を仏教は人生にも適用し、「善いことをすれば善い報いがある。悪い事をすれば悪い報いがある」という法則を見出した。この善因善果・悪因悪果の道徳律は、仏教の背骨というべき大事な教えであり、そのため因果律にもとづく人生観を正見(しょうけん。正しい見解)と呼び、因果を信じない人生観を邪見(じゃけん)と呼ぶ。そして因果を本当に納得すれば、それだけで聖者の位に入るといわれ、反対に邪見をもつ人は決して悟りを開くことができないとされる。

二宮尊徳翁が次のような事を言っている。「世の中には、方角とか日を調べて吉凶を占う人がいるが、そういうのはみんな迷信だ。禍福吉凶は、すべてその人の過去の因縁と、心と行いの招く所のものだ。善いことをすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがある。これが万古不変の真理であり、これを疑うのを迷いという」

つまり即今の心のあり方と行いによって、自分の未来は決定されるということであり、また即今の姿にその人の過去の行いが表れているのである。だから「ある人の過去を知りたければその人の現在の姿を見よ、未来を知りたければやはり現在の姿を見よ」といわれるのである。

さらに仏教は一生涯における因果関係だけでなく、もっと大きな時間における因果関係を説いている。それが三世両重(さんぜ・りょうじゅう)の因果である。三世は「過去世、現在世、未来世」の三世であり、両重は二重であるから、三世両重の因果は、過去世の行為によって現在世の境遇が決定され、現在世の生き方によって未来世の境遇が決定される、という二つの因果関係を意味している。

つまり報いを受けるのに早い遅いがあるというで、すぐに報いを受けることもあれば、時間がかかることもあるが、時間がかかっても善悪の報いはいつか必ず受けなければならないのであり、過去世で片がつかなければ現在世へ持ち越し、現在世で片がつかなければ未来世へ持ち越す、ということである。二宮尊徳翁が「禍福吉凶は過去の因縁と、心と行いの招く所のもの」と、過去の因縁に言及しているのはそのためである。

こうした三世にわたる因果を説く理由のひとつは、この世のことだけ見ていると、因果の法則が成り立たないと思うことが多々あるからだと思う。悪いことばかりしている人が、恵まれた生活をして安らかに死んでいくこともあれば、正しい人が貧しい生活をして苦しみながら死んでいくこともある。しかし大きな時間の中で見れば因果の法則はまちがいなく成立する、と言いたいのである。

因果には自業自得(じごうじとく)の原則がある。業は行為を意味する言葉であり、自分の行為は自分が責任をとる、自分がまいたタネは自分が刈り取る、というのが自業自得である。だから「親の因果が子に報い」という言葉は、仏教の因果律としては正しくないと思う。良からぬ親を持った子供が苦労するのは、親の行為の報いではなく、子供自身が過去になした行為の報いと考えるべきであろう。

因果の法則はすべての宗教の根本であり、世のなかの法律や秩序の根本でもある。悪いことをすれば罰せられ、善い事をすれば誉められる。それでなければみなが困るのである。だからこの法則はたとえ宇宙の果てまで行こうと、人間と呼べるような生き物の住んでいるところではどこでも通用する真理だと思う。

部落問題に関するビデオの中で、因果がやり玉にあがっているのを見たことがある。「被差別部落に生まれたのは前世の報いだ」というように、因果の教えは差別の道具になってきたというのである。

使い方を誤ると因果も差別の道具になってしまうのであり、こうしたことにならないように、因果は過去に対しては適用すべきではないと思う。そんな境遇に生まれたのは前世の報いだとか、若いとき怠けていたから貧乏するのだとか、病気になったのは自業自得だなどと、過去のことを持ち出して人を非難するのは慎むべきで、過去に対しては、自分の過去の行いを反省するというように、自分自身に対してのみ適用すべきだと思う。

因果の法則に従って生きていれば悩みの多くは解決する。人間関係とか、上下関係とか、経済的な問題などがからみ合うことで、どうしてよいか分からず、迷ったり悩んだりするのであるが、そういうときは誰が見ても正しいと思うことを、正しいと思う方法で実行すればよいのである。もちろん何が正しいか分からないこともあるし、分かっていても実行できないこともある。それでも因果律を信じて生きていれば、それほど大きな過ちを犯さずに一生を送れると思う。

誰しもおいしそうなエサが転がっていると、ついとびついてしまう。しかし眼には見えなくともおいしそうなエサには、因果の糸と自業自得の釣り針がついている。また自分だけいい思いをしようという心がすでに自分を苦しめている。至道無難(しどうぶなん)禅師曰わく。

「かならず悪人とがをうくるは、その身の心ゆるさぬ故なり」

「世の中の人は知らぬにとがあれば、我が身をせむるわが心かな」

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