仏壇の話

ある寺のお盆の棚経を手伝っていたときのことである。一軒の家で読経しながら仏壇を見ると、本尊さまが位牌の陰にかくれて見えない状態になっていた。応対していたのは熱心そうな男の人だったので、慎重に言葉を選んで注意してあげた。「本尊さまを位牌で隠すのは良くないですよ」というように。

ところがその人は腹を立て、反論してきた。「私はそんな昔の聖者をまつるために仏壇を買ったのではない。先祖を供養するために買ったのだから、位牌をまん中において何が悪い」

日本で一般の家に仏壇を置くようになったのは、白鳳(はくほう)時代からといわれ、仏教伝来から百五十年ほどのちの天武天皇の世の西暦六八五年に、「諸国の家ごとに仏舎を作り仏像と経本を安置して礼拝せよ」という勅令が出ている。この「仏舎」が仏壇の起源とされる。だから仏壇は本来、仏像や経本を安置する場であったが、それがいつの間にか先祖供養が優先されるようになり、ついには「位牌をまん中において何が悪い」となってしまったのである。

大都市に住む人の多くは、寺とのつき合いがなく仏壇も持っていない。そのため家族が亡くなると、葬儀屋さんに寺を紹介してもらって葬儀を行い、位牌の置き場所として仏壇を購入する。だから仏壇は先祖供養の法具と思いこむのも仕方のないことであるが、仏壇の中心はやはり本尊さまである。仏壇を買ったときには開眼法要を行う。これを一般に「仏壇の開眼」と呼んでいるが、仏壇は容れ物であるから開眼する必要はなく、実際には本尊さまの開眼を行っている。本尊さまあっての仏壇なのである。

このことは仏壇を小さなお寺と考えると分かりやすいと思う。寺はどこでも、境内の一番いい場所に本堂が建っており、本堂の中心に本尊さまを安置している。それと同様に、家の一番いい部屋に仏壇を置き、その中央に本尊さまを安置する、というのが仏壇を設置するときの基本なのである。

以前、檀家さんからこんな質問をされたことがあった。夫が亡くなってから悪いことばかり起きるような気がする。家の中に何か不吉なものが漂っているように思う。だからお祓いをしてくれる神主さんを紹介して下さい、と。そこでお答えしたのである。こうして仏さまをお迎えして読経しているのだから、これ以上のお祓いはありません。仏壇の本尊さまはこの家の守り本尊さまです、と。

その本尊さまは、禅宗ではお釈迦さまが基本である。釈尊の悟りを追体験するのが禅の宗旨だからであるが、観音さまやお地蔵さまでも構わない。また禅宗は坐禅が本尊さまのようなものなので、坐禅姿の釈尊像が基本である。

お釈迦さまは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が正式な呼び名で、釈迦は属していた部族の名であり、牟尼(むに)は聖者を意味するから、釈迦牟尼仏は「シャカ族出身の聖者である仏さま」の意味になる。このような回りくどい呼び方をするのは、本名で呼ぶのは失礼と考えてのことだと思う。釈尊の本名は「ゴータマ・シッダールタ」であり、ゴータマは釈迦族の姓とされる。

だから仏壇にお茶などを供えたときは、本尊がお釈迦さまなら「南無釈迦牟尼仏」、阿弥陀さまなら「南無阿弥陀仏」ととなえることになる。仏さまの名をとなえていると合掌にも心がこもる。私は眠れないとき心の中で南無釈迦牟尼仏ととなえているが、不思議と心が安らぐ。なお「南無」は「帰依します」という意味のインドの言葉から来ており、「南が無い」という意味はない。

お釈迦さまのことを「シャカ」と呼ぶ人がいるが、これは仏さまを呼び捨てにする行為である。最近は犯罪者でも呼び捨てにしないのに、仏教国といわれる日本の新聞が「釈迦」と書いているのは嘆かわしいことで、文書では釈迦牟尼世尊の略の釈尊(しゃくそん)がいいと思う。

仏壇のお供え物の中心は、香・花・灯火(こう・はな・ともしび)の三点セットで、これを三具足(さんぐそく。みつぐそく)といい、花とロウソクを二つずつ置く五点セットの場合は五具足(ごぐそく)という。三具足の場合、臨済宗では、中央に香炉、左に花、右にロウソクを置く。なお仏壇がすすけるから、香炉やロウソクは仏壇の中に入れない方がよい。

また線香はできるだけ良質のものがよく、火災予防のため香炉は大きなものがよい。そして仏壇を離れるときはロウソクの火を消す習慣をつけてほしい。香炉のなかの線香の燃えかすを取り除いておくと、気持ちよく線香が立てられる。香炉にマッチの燃えかすやタバコの吸い殻を捨ててはいけない。

東洋では仏像や神像を祀ることが広く行われているが、キリスト教やイスラム教ではそれを偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)と呼んで、次元の低い宗教行為としている。しかし仏教には偶像崇拝という言葉はなく、それが悪いという考えもない。

仏像をまつる理由の一つは、何か対象がないと礼拝しにくいことである。お寺参りすると自然と本尊さまに手を合わせるが、仏像がないとどこに向かって手を合わせていいか分からず、お参りする緊張感も満足感も感じられない。仏像は仏さまとの縁を結ぶものであり、木や石で作った仏像でも礼拝すれば仏さまと心が通じるのである。

生きた本当の仏さまは私達の心の中におられる。しかしその仏さまは悟りを開かなければ分からない。それを目に見える形にしたのが仏像であり、仏像を作るようになってから仏教は急速に広まったのだと思う。そしてそれに対する一神教側の対策が、偶像崇拝否定の教えだったと思う。

中央アジアには、昔は仏教が栄えていたが今はイスラム教国という国がある。そうした国にある仏教遺跡の仏像はたいてい首がついておらず、博物館へ行くと鼻の欠けた仏像の首が何十と並んでいる。信じる宗教が変わったからといって、ご先祖さまが作ったものを破壊するのは狭量な行為だと思う。

イスラム教の国パキスタンやアフガニスタンを旅したとき、荒野の中でバスがとまり、乗客がぞろぞろと降りていくことがあった。礼拝の時間が来たのでバスをとめて、礼拝を始めたのであり、そのとき地面に布を敷いて礼拝していた方向に聖地メッカがあるのだが、目の前にあるのは荒れはてた土地だけだった。イスラム教国では礼拝の方角を知るために方位学が発達したといわれ、宿の部屋にもメッカの方向を教える矢印が天井に付いている。偶像崇拝を禁止していても礼拝には何か対象が必要なのである。

仏教の根本から偶像崇拝を考えてみると、心の外にあるものを礼拝するのは、それが天にまします神さまであっても偶像崇拝である。自らの心の中の仏さまを礼拝し、自らが仏さまになる。それが本当の偶像崇拝の否定である。

もどる