信心の話
飛騨の高山を旅したときの話、古い民家を集めた民俗村を見学していると、近くに奇妙な巨大建造物が建っているのが目についた。みやげ物屋の人にきくと、最近完成したばかりの新興宗教の本部の神殿だという。手かざしで病気を治したり、悩みを解決するという宗教である。
「行ったら中を見せてくれますか」
「行くとお金を取られるよ。すごくお金をかけたそうだから。二百億もかかったというよ」
二百億かかったとしても、それだけ請求される訳ではない、奇妙な建物なのでどうしても中を覗いてみたい、そう思って門の受付で見学を申しこむと、「どうぞお入り下さい」とお金も取らずに通してくれた。神殿の中は撮影禁止とのことで、入口でカメラを預けて中へ入った。内部も豪華な作りで、中には誰もおらず静まりかえっている。
「巫女(みこ)がいて案内します」とカメラを預けた人が言っていたように、すぐに若い巫女さんが出てきて案内してくれた。会う人みんな親切でニコニコしていて本当に気持ちがいい。最後にそのかわいらしいミコさんが、「手かざし」で血を清めてくれるというのでやってもらい、終わってからきかれた。
「気分はいかがですか」
私はどんな変化が起こるかと期待して心を集中していたが、何の変化も起こらない。ミコさんはがっかりであるが、中にはスッキリする人もあるだろう。腰を下ろし目をつぶり心を静めているのだから、スッキリとした気分になっても不思議はない。もちろん暗示の効果もある。
神戸の三ノ宮駅前でもやってもらったことがある。ここで待ち合わせをしていると、「手かざしをさせて下さい」とよく女性が近づいてきた。男には女が、女には男が来ることになっているらしい。終わってからやはり「気分はいかがですか」と訊かれたので、血をきれいにするより心をきれいにする方が大切ですと言ってあげた。
ハッタリにご用心
雲水修行をはじめて間もないころ、町で男の人が話しかけてきたことがあった。彼は手相を見るのが得意らしく私の手を見ながら、「あなたは親の縁がうすい」と断定するように言い、「どうもあなたはお酒を飲むようだ」とも言った。その男の自信ありげな態度に、私はすべてを見透かされているような気がして、この人は身なりや顔つきは貧相だけど、本当はすごい人なのではないかと思った。知ってるはずのないことを断定するように言われると、誰しも混乱してしまうものである。
帰ってから先輩にその話をすると、「出家が親の縁がうすいのは当たり前だ。形の上とはいえ親子の縁をきって出家しているのだから。お坊さんが酒に縁があるのは常識だ。法事などで飲む機会が多いのだから」という返事であった。それ以来私は手相とか占い、霊のたたりなどの話を気にしなくなった。
自分が理解できないことを、自信に満ちた態度で断言する人を私たちはつい尊敬してしまうものである。そのため悪意は無くても、あの人はすごいと思われたいためにハッタリを言う人は意外に多い。そういう人のつかう武器は、「何でもお見通しだという断定的な態度」と、「どちらとも取れるあいまいな言葉」である。
あいまいな言葉を断定的な態度で使われると、それだけで信じやすい人は信じこんでしまう。そして一度信じこむと容易に改められなくなり、ついには誰にも否定も肯定もできない、霊、たたり、占い、超能力、などの世界に誘いこまれて、ごっそりとお金を取られることにもなる。要はだましの話術であるがプロの技術は洗練されていて侮れないという。
危険な宗教の見分け方
救われたいと宗教に救いを求めたはずなのに、さらに大きな負担を抱えこむ人がある。人の不幸を食い物にする宗教が存在するからであるが、そうした宗教の見分け方が大法輪という雑誌に載っていた。正しい宗教には以下の条件が必要だと、ジャーナリストの早川和廣氏が「危ない宗教の見分け方」の中で指摘しているのである。
一、「永遠不変の真理と一貫性があること」。教祖や教団のご都合主義ではいけない。
二、「宗教にも普遍妥当性は必要である」。だから世の中の良識に反するものは論外。
三、「神は神殿をつくらない」。神殿をつくることを目標に掲げる宗教は堕落する。
四、「罰があたるなどの恐怖心に訴えない」。安らぎをあたえるのが宗教である。
五、「世襲化しない」。教団の財産を子孫にゆずる世襲は道を踏みはずすもと。
六、「教祖を神格化しない」。教祖を神に仕立てることは、おごりと増上慢の結果。
七、「言うこととやることが一致している」。欲を捨てることを説きながら、教祖や幹部が贅沢しているのはおかしい。
八、「現世利益だけ説くのは正しい宗教ではない」。欲にまみれた宗教に救いはない。
九、「盲信を強要しない」。信仰に疑問は付きもの、疑問を持つことで信が深まるのだから、疑問に答えない宗教はにせ物。
十、「金で救われると説かない」。弱みにつけ込み大金を強要するのは、まちがいなく危険な宗教。
十一、「会員を増やせといわない」。信者獲得は強要すべきことではない。
十二、「領収書を出さない教団はあぶない」。問題のある教団は領収書を出すことを警戒する。
十三、「正しい宗教は批判を受け入れる」。批判を許さない教団は極めて危険。
以上の十三項目であり、もう一つ付け加えるなら他宗教の悪口ばかり言っている宗教もよくない。これらをすべて満たしている宗教は少ないと思うが、それだけにそういう宗教に出会えた人は幸運である。
無明の闇
「うまい話には落とし穴がある」ということを肝に銘じて置けば、だまされることはないという。どんなに優秀な詐欺師でも、欲のない人間はだませないともいう。しかし危険な宗教にだまされる場合は欲だけが原因ではなく、無知や弱さも原因している。そして欲や弱さの根元は無知であるから、宗教的にも世間的にも無知な人が食い物にされることになる。仏教では無知は無明(むみょう)と呼ばれ、迷いの心の根元とされている。道理を弁えない愚かな心、それが無明の定義である。
岩波文庫の「ブッダのことば」にこんな言葉が載っている。
「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、慈しみの心をしっかりと持て。この世ではこれを崇高な境地とよぶ」(一五一)
「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味のなかで最上の美味である。智慧によって生きるのが最高の生活である」(一八二)
「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかになる」(一八四)
「この世に、誠実、自制、施与、耐え忍びよりも、さらに優れたものがあるならば、それを広く修行者、バラモンに問え」(一八九)
「修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを証すること、これがこよなき幸せである」(二六七)
これらは当たり前の教えばかりであるが、行き詰まったときにはこうした基本に立ち返って、自分のどこが悪かったかを反省するべきだと思う。
仏教の信心の根本は「衆生本来仏なり」である。生きた本当の仏さまは私たちの心の中におられる。その宝物に気づかず外に求めても、本当の宝物を手に入れることはできない。大金持ちが乞食をして回るようなものである。時間と空間に束縛された私たちの小さな胸の中にも、無限の力が潜んでいる。それは実に宇宙を統一する力であり、世界を生み出す根元である。そしてそれが真実の自己といわれるものであり、真実の自己に目覚めた人を仏さまというのである。
「危ない宗教の見分け方」 早川和廣 大法輪平成十年一月号一〇四頁
「ブッダのことば」 中村元訳 岩波文庫 一九八四年
もどる