下呂市の円空岩
 
   二〇〇二年十一月三〇日(月)曇

今回の旅の目的は円空さん関係の岩屋の見学。その岩屋は円空岩と呼ばれる巨岩の下の空間を利用した岩屋、岐阜県下呂市門原(かどはら)の山中にある。ところがその門原集落を見つけるのにまず手間どり、やっとのことで探し当てた門原集落は、国道四一号ぞいに六・七軒の家がならぶ小さな集落であった。
 
門原集落の神明神社の下に車をとめ、誰かいないかと思いながら歩いていたら、車の手入れをしている男の人を見つけ、円空岩は四〇年前に一度に行ったことがあるということで、やっと円空岩を知っている人に会えた。円空岩は三キロほど下呂温泉方面へ行ったところから入る林道の奥にあるという。
 
その林道の入り口は深谷(ふかたに)バス停の横にあるが、今ここに住んでいる人はなく、小さな川の右側に林道の入り口、左側に廃屋があった。林道に入るとすぐに小さな漬け物工場があり、その先に廃屋が一軒、その先にしっかりと積まれた石垣があった。昔はここに大きな構えの家があったのだろう。その先は進むほどに道が荒れて狭くなり、林道入り口から二~三キロ入ったところに、「円空岩まで百メートル」の小さな標識と、なんとか二台とめられる空き地があった。
 
その空き地に車をとめ、踏み跡をたどって道路脇の土の盛りあがりを越えると、前方に林道が現れた。そこで林道が分岐していて、分岐した林道の入り口が土砂で埋まっていたのである。その現れた林道を見て、円空岩はこの林道の奥にあると思ったのがまちがいの元であった。その土砂崩れのすぐ先の左手に円空岩へ登る階段があったのだが、落ち葉に埋もれていたのと、林道奥にあるという思いこみから、見逃してしまったのである。
 
ということでその林道を前進すると、八〇メートルほど先で行き止まり、左手に踏み跡があったのでたどると、炭焼きの窯跡があった。斜面の上を見あげると円空岩かと思う大きな岩がいくつも並んでいるが、そちらに踏み跡はついておらず、窯跡の前の踏み跡をさらに前進すると、やがて踏み跡はなくなり、林道終点までもどって反対側に行っても見つからず、これは初めからやり直しだと車にもどるときに階段を見つけたのであった。そのいたんではいるがしっかりと作られた階段を、五〇メートルほど登ったところに円空岩はあった。
 
岩の前に岐阜県指定史跡と下呂市指定史跡という二つ標識が立っていた。それを見て、国道ぞいにも標識を立ててほしいと思った。国道を行ったり来たりで、この林道を探すのに一時間以上かかったのである。
 
円空岩は山の斜面に突きでた巨岩、周囲は杉の植林帯になっているが、円空さんの時代には美しい自然林が広がっていたと思う。岩の上からあたりの景色を眺めようと思ったが、足もとが悪すぎるので登るのはやめた。
 
この岩屋はかなり居心地の良さそうな岩屋である。入り口のあたりは高くて広く、奥へ行くほど低く狭くなり、一番奥は寝るのにちょうどいい高さと広さ、側面は石を積んでふさいであるから土が崩れてくることはない。この岩屋の前で火をたいて、夏は虫除け、冬は暖房にしたのだろうか。
 
岩屋の中に三峯(みつみね)神社と彫った石碑があった。それを見て、ここへ上る階段が整備されているのは、この岩屋が神社として使われてきたからだろうと思った。ほかには青面金剛(しょうめんこんごう)らしき像、この谷を開拓したときの記念碑らしきもの、金比羅山と彫った石、西国三十三ヵ所と四国八十八ヵ所の巡拝記念碑、などが置かれていた。この谷の歴史の一部がここに収められているのである。
 
写真をとっていたら、門原集落で道を教えてくれた人が登ってきた。無事に私がたどり着けたかどうか心配になったのと、この岩の写真を来年の年賀状に使おうと思ってやって来たのだという。四〇年ぶりということで、その人も階段の前を通り過ぎてしまったという。
 
これまで私は山歩きのために多くの時間を使ってきた。そして仏道修行と山歩きを一つにすると修験道になる、ということで修験道に興味を持ち、その延長として円空上人にも興味を持った。そして円空さんが籠もったという岩屋をいくつか見てきたことで、本当にこんなところに籠もって作仏したのかという疑問が薄らいできた。
 
それらの岩屋はみな円空さん好みの岩屋という共通点があると感じたからである。また門原の人の話では、この林道の入り口に住んでいた人の家には、まとまった数の円空仏が家宝として伝わっているというから、円空さんがこの岩屋で作仏したというのはかなり信頼できる話なのである。
 
この日は下呂市の合掌村にある円空館にも立ち寄った。ここには円空仏がたくさん展示されているが、観光客は多かったのに円空館に入る人は少なく、しかもじっくり見ていたのは私ひとりだけだったので、円空ブームが終わって久しいということを感じた。それに円空仏はガラス越しに見たのでは良さが分かりにくい。円空仏は手に取って眺める仏像だと思う。そう思う理由は、実物をガラス越しに見るよりも、接写した写真を見る方が良さがよく分かるからである。
 
そのあと高山市にある両面窟(りょうめんくつ)まで足を伸ばした。この両面宿儺(りょうめんすくな)に関係する鍾乳洞も、円空さんに関係があるのではないかと思ったのが足を伸ばした理由である。「在(あり)かたや、出羽の岩窟(いわや)に、来ても見よ、けさの御山の、仏なりけり」。この円空さんの歌に出てくる出羽の岩屋が両面窟だと思う理由は、両面窟のある場所が出羽ヶ平(でわがひら、と現地の解説板にふり仮名があった)だからである。
 
飛騨大鍾乳洞の駐車場の手前に、この洞窟へ登る階段があった。ところが「歩道一二〇メートル、階段二八〇段あります」と注意書きのある階段は、立ち入り禁止になっている上に、人が歩いたあともない草ぼうぼうの状態だったので、これは柵を乗り越えて入ったとしても大変すぎるとあきらめた。
 
帰ってからネットで、八年前にこの洞窟を見学した人の写真を見て、行かなくて正解だったと分かった。両面窟は険しい崖の上にあって、そこへ行くには鉄製の空中階段を上らねばならず、しかも照明を点けてもらわないと、宿儺の石像がある洞窟には入れないとあったからである。
 
その階段の入り口の横に、洞窟まで登れない人のための「両面宿儺の遙拝所」なるものが設置されていた。それを見て、朝敵とされた宿儺が今も地元の人から慕われていることを感じた。宿儺のことは、日本書紀巻第十一の仁徳天皇の項に次のように載っている。
 
(仁徳天皇の)六十五年に飛騨の国にひとりの人あり。宿儺という。その人となり、一つの体に二つの顔あり。顔はおのおの相背けり(つまり顔が前後についている)。頭頂合わさってうなじ無し(二つの頭が合体して一つになっている)。おのおのに手足あり(手と足が四本ずつある)・・・。力多くして敏捷。左右に刀を下げ、四本の手で弓を使う・・・。そして朝廷に従わず略奪をおこなったので、朝廷は難波根古武振熊(なにわ・ねこ・たけふるくま)を派遣してこれを滅ぼした。
 
ということで、出羽の岩屋が両面窟かどうかここへ来れば判明すると思っていたが、結局手がかりは得られず、大鍾乳洞を見学して帰ることになった。この洞に入るのは二度目である。
 
この日の最後は高山市の千光寺(せんこうじ)にある円空仏見学。ここも二度目である。この寺は飛騨地方にある寺院の中核となる寺院、円空さんが二年間滞在した寺ということで、立木に彫った仁王像とか両面宿儺像など六四体の円空仏を伝えている。なお近世畸人伝の円空さんの項に、この寺の俊乗和尚の話も載っている。二人は気の合う奇人同士であったらしい。

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