観音洞と円空洞と不動堂
 
今回の旅の目的は、円空上人が岩屋ごもりして仏像を彫ったと伝えられる二つの岩屋、観音洞(かんのんぼら)と円空洞(えんくうぼら)、それと二一体の円空仏を伝えてきた鳥屋市(とやいち)の不動堂(ふどうどう)の見学。円空上人は岩屋聖(いわやひじり)と呼ばれるほど岩屋ごもりの好きな人であった。岩屋にこもるのは、天地同根、万物一体、の理を体得するためであったと思う。

  
観音洞
 
二〇二一年九月二五日(土)。晴
 
観音洞は神明(しんめい)神社の奥にある。この神社の住所は岐阜県美濃加茂市(みのかもし)三和町(みわちょう)下廿屋(しもつづや)210-1。
 
県道八〇号線の横に、神明神社と彫った石柱と、「美濃加茂市指定記念物。観音洞円空窟」と書いた標識が立っている。その案内のある道を神明神社を目指して進み、神社の階段を登らず階段下の左手の踏み跡をたどると、やがて物置小屋が見えてくる。その上に観音洞はある。
 
あるいは、神明神社の参道の前を通り過ぎて二百メートルほど行くと、県道が急に狭くなっている。そこの右側にある林道を通って観音洞へ行くこともできる。この林道の方が道は分かりやすいが、道が荒れていて車では入れない。
 
この岩屋は観音洞円空窟(かんのんぼら・えんくうくつ)と呼ばれているが、洞も窟も同じような意味の言葉なので、本来の呼び名は観音洞であったが、円空上人との関係を強調するため、後に円空窟が付加されたのではないかと思った。
 
巨岩の下に口を開けているこの岩屋は、広さや天井の高さに問題はないが、床が入口より一メートルほど下にあるため、湿気がこもって住み心地は良くないと思う。大雨のときなど入口から雨水が流れ込みそうにも見え、周囲は杉の植林帯なので日当たりも悪い。もっとも円空さんの時代には美しい自然林に囲まれた場所であったと思う。
 
観音洞の左側にある踏み跡を登ると、小さな祠がある。この祠の中に円空上人作の馬頭観音がまつられていたことから、この岩屋は観音洞と呼ばれているらしい。そしてこの祠の棟札に「新奉彫刻。馬頭観音尊像以伸供養。寛文拾一。願主後藤仁兵衛」とあったことから、この馬頭観音が西紀一六七一年、円空上人四十歳のときの作だと分かったという。その観音像はいまは美濃加茂市民ミュージアムに収蔵されている。
 
その祠の先に小さな石塔や灯籠があったので、さらに岩の上まで登ってみたが、杉の植林帯が広がるのみで見るべきものはなかった。
 
観音洞の前に小さな川が流れている。その流れの横に「秋葉様」という道標が立っていたので、その先の踏み跡もたどってみたが、尾根の上まで登っても秋葉様はなかった。尾根の上が平地になっているから、そこに祠があったのかもしれない。
 
観音洞の手前に青いシダが生えていた。それがあまりに鮮やかな青色をしていたので、誰かがいたずらで青ペンキを吹き付けたに違いないと思ったが、角度を変えると別の色に見えるし、葉の裏側はふつうの緑色をしていることで、ペンキによるいたずらではないと分かった。調べてみたらこのシダはコンテリクラマゴケ(紺照鞍馬苔)という中国原産の園芸品種のシダであった。おそらく誰かがここに移植し、環境が生育に適したことで繁茂したのだと思う。
 
観音洞は臨済宗の名刹、伊深(いぶか)の正眼寺(しょうげんじ)の奥にある。伊深という地名なので何となく山中の草深い里だろうと思っていたら、広い田んぼが広がる豊かそうな村であった。

  
円空洞
 
二〇二一年九月二五日(土)。晴
 
円空洞(えんくうぼら)は二度目の挑戦。昨年の一度目の挑戦のときは時間切れで途中から引き返した。そのときのことは「65高賀山」につぎのように書いてある。
 
星宮(ほしのみや)神社の手前に円空さんが修行したという岩屋がふたつある。一つは星宮神社へ行く道から、林道を南へ一・八キロ入ったところにある円空岩(えんくういわ)の岩屋、川の横にある円空岩と呼ばれる岩の下の空間を利用した、狭くて奥行きのない居住性の悪そうな岩屋である。
 
もう一つは円空洞。この岩屋の案内板も神社へ行く道のわきに立っている。それによるとこの岩屋は、高さ五メートル、幅二メートル、奥行き四メートル、奥の高さ〇・七メートルとあり、近くに小さな滝があるとも書いてあった。
 
そして、そこまでの距離三百五十メートルとあったので、すでに夕方になっていたがそれぐらいならと、解説板の前に車をとめて草が生い茂る山道をたどった。歩き初めの登りは急な上にぬかるんでいて、歩きにくく道も分かりにくかったが、道はしだいに良くなる。
 
ところがかなり洞窟に近づいたと思うところで、台風のせいだと思うが、杉の木がまとまって根返りしていて道をたどれなくなった。山靴を履いてくれば良かったと思っても手おくれ、夕闇も迫ってくるということで、洞窟があるならあの辺りと狙いを付けて進み、そこに無かったのであきらめて引き返した・・・。
 
ここからは上記の続き。円空洞は倒木群の先にあった。倒木群のところから下の川に降りて百五十メートルほど登ると、この小さな谷は崖にぶつかって行き止まりになる。そのどん詰まりの右手に円空洞はあった。縦に長い洞窟である。解説板に小さな滝があるというのは、おそらくこのどん詰まりの崖に滝があるのだろうが、目につかなかった。
 
解説板には岩屋の奥行き四メートルとあったが、そんなに奥行きがあるようには見えず、下が平らでなく横たわる広さもない岩屋なので、修行のために一晩か二晩、読経しながら過ごすことはできても、ここに長期間こもるのは無理だと思う。湿気の多い谷であるが、少し登ったところにあるから岩屋の中に湿気はこもっていない。
 
帰りの下りで、ぬかるみに足を突っ込んでしまった。そのぬかるみが小さい割に意外に深く、ずっぽりとはまり込んで泥だらけになったので、下の川へ降りて靴とズボンの泥を洗い流した。ところがこのぬかるみはヒルの巣であった。帰った翌朝、靴を洗っていたら、すき間に残っていた泥の中からヒルが五匹も出てきたのである。
 
足を点検すると三ヵ所ヒルに食われたあとがあり、手の指の付け根からも出血していた。指の付け根は、川で靴を洗ったとき食いつかれたのだと思う。ヒルは食われても痛くもかゆくもない。そのため気がつかなかったのである。おそらくそのぬかるみの中には何百匹とヒルが棲んでいるのだろう。ふつう山でヒルに取りつかれるのは地面の上でのことである。地面の上をシャクトリ虫のように歩いて来るヒルと、水の中に住むヒルは種類が違うと思う。
 
なおこの岩屋を探すときの目印となる星宮神社の住所は、郡上市(ぐじょうし)美並町(みなみちょう)高砂(たかさご)1252。この神社の境内にある三並ふるさと館には円空仏が九〇体、展示されている。

  
鳥屋市の不動堂
 
二〇二一年十月十四日。(木)。快晴
 
住所は岐阜県関市上之保(かみのほ)鳥屋市(とやいち)。このお堂は二一体の円空仏を伝えてきたが、二〇〇五年にそのすべてが盗まれ、写真をもとに作ったという複製が今は置いてある。この複製は円空仏が大好きという人が彫って寄進したものだという。
 
鳥屋市の集落があるのは県道八五号線ぞいの、地図を見ると放生峠(ほうじょうとうげ)はもうすぐという峠越えの道のかなり上の方である。県道八五号線は、美濃加茂市、下呂市、郡上市、などを結ぶ山越えの道。今はほとんど車の通らない道であるが、昔は多用された道だったようで、宿場町のような雰囲気の場所や、商店や食堂などが続く場所が残っていた。ただし店舗はほとんどが廃業していた。工場の廃屋もいくつかあるから、以前は人口も多かったようである。円空上人もしばしばこの道を歩き、その途中このお堂にこもって作仏したのだろう。
 
不動堂があるのはゲートボール場になっている広場の奥。駐車場はないが道路脇に車を駐めることができ、トイレもある。なお鳥屋市という地名はナビに入っていなかった。
 
お堂は内部の広さが四畳半ほどの小さなもの、不動堂と呼ばれるだけに、須弥壇の中央に大きな不動明王がまつられていて、左側には金箔の美しい立派な地蔵菩薩像、右側にも像名の分からない大きな像が安置されていた。左右の像は脇侍というよりも、別個に寄進されたものが置かれているという感じであった。
 
その須弥壇の手前には鉄格子がはまっていたが、そこにあった古い写真を見ると、以前はこの鉄格子がなく、盗まれた円空仏は不動明王の前に無造作に並べられていたのであった。

  
岩屋観音堂
 
美濃市と郡上市の境にある片知山(かたぢやま)の中腹に、やはり円空さんに関係する岩屋(いわや)観音堂があるが、二時間ほどの山登りになるので今回は見学をあきらめた。膝を痛めていたからである。
 
ネットで見つけた写真を見ると、このお堂は大きな岩に張り付くように建てられており、お堂の名前から判断すると、このお堂の奥の大岩の下に岩屋があるのではないかと思うが、お堂内部の写真は見つからなかった。ここにあった円空仏二体は、現在は美濃市にある「美濃和紙の里会館」に収蔵されている。ここの円空仏が移されたことには、鳥屋市の不動堂の円空仏が盗まれたことが影響したという。


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