高賀山(こうがさん。こうかさん。一二二四・二メートル)
二〇二〇年十月十三日(火)。晴
岐阜県北部にある高賀山は、円空仏(えんくうぶつ)で知られる円空上人が修行した山。高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)、の順に北から南へと並ぶ高賀三山は、古くから信仰登山がおこなわれてきた修験の聖地であり、そのため三山の西側には高賀神社とその境内に円空館、東側には星宮(ほしのみや)神社とその境内に三並(みなみ)ふるさと館があって、両館とも多くの円空仏を蔵している。この山深い地は円空さんと縁の深い土地だったのである。なお地元の人は高賀を「こうか」と発音している。
この日の行程は、高賀神社を出発、御坂峠(みさかとうげ)を経由して高賀山山頂、の往復であった。下山後、円空仏を見るべく円空館と三並ふるさと館にも立ち寄った。
高賀神社の駐車場は数ヵ所に分かれている。私は大鳥居横の駐車場に車をとめて、まず高賀神社にお参りし、それから左側にある林道を進んだ。すると十五分ほどで登山口に着き、そこには二〇台分ほどの駐車場とあずま屋があって、すでに二台駐車していた。ここまで車で入れたのであった。
ということでここで林道を離れ、登山道に入る。川ぞいの道であるが初めのうちは水音のみで川は見えない。二ヵ所で川を横切るが、その一つ目は水垢離場(みずごりば)になっていて、石で囲った水たまりが川の中に作られていた。今でも水垢離をとって入山する人がいるのだろうか。この山は石ころだらけ、岩だらけ、巨岩だらけの山。そのためあまり植林されていないのはいいが歩きにくい。ただし古くからの修験の山なので道はよく整備されている。
中腹の巨岩の下に大きな岩屋がある。これは円空さんが好んで籠もったという不動岩屋、そう呼ばれるのは以前ここに不動明王がまつられていたからであり、ここに籠もって修行すると円空さんの心境に近づけるかもしれない。
この岩屋は珍しいことに二階建てになっていて、上の岩屋のほうが広いうえに天井も高くて住みやすい。しかも上の岩屋の屋根の岩はまっ二つに割れていて、そのまっすぐなすき間から春分の日と秋分の日の前後数日間の正午ごろ、岩屋の中に日の光が射しこむという。また冬至の日に夕日が射しこむように彫られた線刻も岩に残っている。山中暦日なしというが、こうしたことで暦日を知ることは、里人の安寧を祈願するためにも必要なことだったと思う。
御坂峠は円空さんが高賀神社と星宮神社を行き来するときしばしば越えた峠だと思う。道は峠に近づくほど険しくなるが、あえぎながら登った御坂峠のすぐ向こうには、舗装された立派な林道が通り、そこに登山口の標識も立っていた。
峠から先は主稜線上の道、三〇分ほどで山頂着。山頂には一等三角点と、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)と彫った経塚らしき石塔があった。山頂からは、伊吹山、能郷白山(のうごうはくさん)、岐阜の金華山(きんかざん)、さらには名古屋の町並みも見え、剣岳と白山の方向を示す矢印も立っていたがそれらは霞のため見えなかった。
この日、山で会ったのは二組五人。一組は地元の夫婦二組の四人連れ、おしゃべりがにぎやかであった。もう一組は装備は水筒だけという単独行の若者、山を駆けるように歩いていたが、事故を起こしたときのためにも雨具ぐらいは持つべきだと思った。
妖怪退治の話
高賀神社の解説板によると、高賀山の歴史は妖怪退治の話から始まる。
霊亀年間(七一五~七一七年)、妖しい光がしばしば出現してこの地へ飛んでいくのを都の人々が見、高賀山麓に神をまつると出現しなくなった。それが高賀神社の始まりとされ、その後、今度は牛に似た妖怪があらわれて村人に危害を加えたので、九三三年に天皇の命で藤原高光(ふじわらのたかみつ)が派遣されこれを退治した。
天暦年間(九四七~九五六)にもまた妖怪が現れたので、このときも藤原高光が派遣されてこれを退治、そのとき高光は高賀神社と星宮神社を含む高賀六社と呼ばれる神社群を高賀山の周囲に整備した。
その妖怪退治のとき、星宮神社の奥を流れる粥川(かいかわ。かゆかわ)のウナギが高光に道を教え、そのお陰で妖怪を退治することができたというので、以後そこではウナギの捕獲が禁じられ、大正十三年にはそこのウナギは天然記念物に指定され、今でもそのあたりの人はウナギを食べないという。ここのウナギが天然記念物に指定された理由は分からないが、天然記念物指定のウナギの生息地は国内に数ヵ所ある。
さらに近衛天皇(一一四二~一一五五)のときには、頭は猿、胴体は虎、尾は蛇、という「さるとらへび」と呼ばれる妖怪が現れたこともあったという。高光が退治したのはこの猿虎蛇であったとする説もある。
星宮神社はその名前も、神殿や境内のたたずまいも、奥を流れる粥川の矢納ヶ淵(やとうがふち)の雰囲気も、実にいい神社。この神社の解説板によると、円空さんはこの神社の裏山、瓢ヶ岳山麓の木地師の家で一六三二年に生まれ、粥川寺で得度、以後はこの寺を本拠地にして、ここから遊行の旅に出てここに戻ってくるという生活をしたとある。ただし出生地に関しては他説もある。粥川寺はふるさと館の横に建つ小さな寺、別の場所からここに移されたとある。
円空岩と円空洞
星宮神社の手前に円空さんが修行したという岩屋がふたつある。一つは星宮神社へ行く道から、林道を南へ一・八キロ入ったところにある小さな岩屋、川の横にある円空岩(えんくういわ)と呼ばれる岩の下の空間を利用した岩屋である。
もう一つは円空洞(えんくうぼら)。この岩屋の解説板も神社へ行く道のわきに立っている。それによると、この岩屋は高さが五メートル、幅二メートル、奥行き四メートル、奥の高さ〇・七メートル、近くに小さな滝があるという。
そこまでの距離三百五十メートルとあったので、すでに夕方になっていたがそれぐらいならと、解説板の前に車をとめて草が生い茂る山道をたどった。歩き初めの登りはぬかるんでいて、歩きにくいうえに道も分かりにくかったが、道はしだいに良くなる。
ところがかなり洞窟に近づいたと思うところで、台風のせいだと思うが、杉の木がまとまって根返りしていて道をたどれなくなった。山靴を履いてくれば良かったと思っても手おくれ、夕闇も迫ってくるということで、洞窟があるならあの辺りと狙いを付けて進み、無かったのであきらめて引き返した。
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