神倉山(かみくらさん。かんのくらやま)

 二〇二〇年九月二八日(月)晴

和歌山県新宮市にある神倉山は、神武(じんむ)天皇が登ったとされる天磐盾(あめのいわたて)という巨岩のある山。この山の中腹にあるゴトビキ岩が天磐盾とされているのであり、今回の旅の目的はそのゴトビキ岩と、その岩に抱きつくように建つ神倉神社(かみくらじんじゃ)であった。写真を見れば誰しも行ってみたくなる場所である。

天磐盾という言葉は、天に向かって盾のようにそびえる岩を意味するのであろう。このあたりにはほかにも、花の窟(はなのいわや)神社と鬼ヶ城に盾のようにそびえる岩場がある。

またゴトビキはガマガエルを意味するこの地の方言ということで、たしかにこの岩は蛙に似ていなくもないが、琴引岩と漢字で書くのはガマガエル岩では神様に失礼と考えてのことだと思う。ゴトビキ岩は全体がさらに大きな岩盤の上に乗っていて、周囲は崖になって切れ落ちている。おそらく神倉神社は磐座(いわくら)信仰に始まる神社なのであろう。祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神(あまてらすおおみかみ)とある。

神倉神社は速玉(はやため)大社の裏山である千穂ヶ峯(ちほがみね。二五三・四メートル)の標高百二十メートルにあり、千穂ヶ峰をはさんで速玉大社の反対側に位置しているが、飛地境内に建つ速玉大社の摂社(せっしゃ。本社と縁の深い神をまつる神社)となっている。

ただし神倉山という山名が指す山に関しては混乱が見られる。速玉大社の宮司さんは千穂ヶ峰を含む裏山全体を神倉山と呼んでいたが、ふつうは神倉神社が建つ岩山の部分を神倉山と呼んでいるのである。この山の登り口は新宮市を通る国道四二号線からすぐのところにあり、駐車場は二ヵ所あるが道が狭くバスは入れない。

なお速玉大社を新宮(しんぐう)と呼ぶのは、本宮大社に対しての新宮と思っていたが、本当は神倉神社を元宮(もとぐう)としての新宮だという。ゴトビキ岩は熊野権現が最初に降臨したとされる熊野信仰で最重要の場所であり、速玉大社の宮司さんによると熊野三社は、速玉大社、本宮大社、那智大社、の順にできたという。

神倉神社のもう一つの売りは、鎌倉幕府を開いた将軍、源頼朝が寄進したというそこへ登る階段の険しさ、こんな急な階段を見るのは初めてであるが、険しいのは登りはじめの二百段ほど、あとは次第にゆるやかになる。段数は五三八段とあるが、自然石を適当に並べただけの階段なので正確には数えられないと思う。写真をとりながらゆっくり歩いてもゴトビキ岩まで十五分ぐらい、途中から千穂ヶ峰への道が分かれている。

神武天皇が熊野へ来たのは以下の理由からとされる。

古事記や日本書紀によると、天照大神の孫のニニギは地上世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるべく、高天原(たかまがはら)から九州南部に降臨(こうりん)した。これを天孫(てんそん)降臨といい、その場所は霧島連山の高千穂峰(たかちほのみね)、あるいは宮崎県高千穂町とされ、それから三代の神は日向(ひむか。ひゅうが)の地で暮らし、これを日向三代という。

ところが四代目のワカミケヌ(後の神武天皇)は、東方にすばらしい土地があると聞いてその地を征服するべく移動を開始した。これを神武東征といい、神武天皇一行は瀬戸内海ぞいに順調に軍を進めたが、大阪で強敵にぶつかり戦いに破れた。そこで「我らは日の神の子孫でありながら、東に矛先を向けたのがまちがいであった」と、舟で紀伊半島をまわって半島南東部に上陸、そこから西にむかって大和の地を目指した。ただしどこに上陸したかは記されていない。

そして熊野の地で一行の危機を救ったのが神倉神社の祭神、高倉下命であり、山と川が複雑に入り組む紀伊半島を踏破したとき道案内をしたのが八咫烏(やたがらす)であった。

天磐盾に登ったときのことは日本書紀に、「ついに狭野(さの)を越えて熊野の神邑(みわのむら)に至り、天磐盾に登り、さらに軍を率いて前進した」とあり(原漢文)、狭野は新宮市佐野のこととされ、だとするとこの記述は現地の地理と一致する。またゴトビキ岩に登ると新宮市の町並みが手に取るようによく見える。つまり町からこの岩はよく見えている。だからここを通りかかった神武天皇が「あの岩山に登ってみよう」と考えたとしても不自然ではない。

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