岩滝山(いわたきやま)。鬼飛山(おにとびやま。二九〇・九メートル)

二〇二〇年八月三日(月)くもり

岩滝山は白隠禅師が独接心(どくぜっしん)をしたことで知られる山。それは禅師が三一歳から三二歳にかけてのことであり、山中にはその上で坐禅をしたと伝えられる岩が残っている。

ただしこの山の名前は地図では鬼飛山となっていて、鬼飛山と岩滝山の関係は不明。禅師の時代には岩滝山と呼ばれていたが、のちに鬼飛山になった、ということでもなさそうである。

この山の登山口があるのは、禅師が修行したとされる場所に建つ賑済寺(しんさいじ)と、山楠(やまくす)公園と、大谷公園の三ヵ所。私は賑済寺から登って山楠公園へ下り、車道を歩いて賑済寺へもどるという一周コースを歩いた。写真を撮りながら歩いても一時間か一時間半のコースであるが、梅雨あけ直後の蒸し暑い日だったのでゆっくり歩いても汗びっしょりになった。

賑済寺に入る道は狭いが、駐車場は十台分ほどの広さがあり、その先に庫裡、本堂、離れ、の三つの建物がある。明らかに無住寺院と分かる状態の小さな寺、離れは少し高いところに建っている。

庫裡の前に白隠禅師を紹介する石碑が立っていて、字は西宮の海清寺の春見文勝(かすみぶんしょう)老師であった。この寺にはこの老師の字が多い。おそらく文勝老師が再興のために尽力した寺なのであろう。ところが住所を調べようと臨済宗寺院名簿を引いたら、賑済寺の名が出てこない。文勝老師が復興した寺のようだし、賑済寺という寺名からしても臨済宗だと思ったのだが、ネットで調べると曹洞宗寺院であった。

本堂には寶珠山という額がかかっていた。その本堂の横を通って石仏などを見ながら奥へ進むと、平らな石の上で坐禅をする白隠禅師の石像があった。後ろに文勝老師の字の坐禅和讃がかかっている。さらに進むと端正な石塔があらわれ、その横が歴代住職の墓地、見下ろす山の西側はゴルフ場になっていた。

そこからのぼり坂となり、すぐに座禅岩が姿をあらわす。坐禅石ではなく座禅岩とある。岩の上にもう一つの岩が不安定な形で乗る、今にもずり落ちそうな組み合わせの座禅岩であるが、上に乗っても岩が動いたりはしなかった。岩の上は平らでなく、すわり心地は良くない。三メートルほどの高さがあるから居眠りをして落ちたらたいへんである。ここで禅師が坐禅をした確証はないと思うが、あるいはそういうこともあったかもしれない。

その先に小さな神社が二社、小さな祠のみの神社と、祠もなく神像らしき石像のみの神社があり、その先に新建ちの休憩所、その先に山頂がある。寺から山頂まで二〇分ほど。

山上は平坦な地形なので、標識と三角点がなければどこが山頂か分からず、樹木に囲まれていて山頂に立っても景色は見えない。山頂の標識に、桃太郎、猿、雉、犬、鬼、の小さな模型が取り付けてあった。この山は桃太郎伝説の残る山だったのである。山楠公園へ向かって下り始めると展望が開け、何ヵ所か展望台があった。

     
桃太郎伝説

山楠公園の登山口に置いてあった文書によると、近くを流れる飛騨川の少し上流に上川辺(かみかわべ)という集落があり、そこの川岸に八畳くらいの洗濯岩があった。そこであるときお婆さんが洗濯をしていると、どんぶらこ、どんぶらこ、と大きな桃が流れてきて、という話になるのであるが、その桃太郎伝説のある岩はダムのために水没してしまったという。

この辺りにはほかにも、桃太郎が猿を集めたという猿ヶ鼻、犬を集めた犬塚、雉を集めた木知洞(きじどう、と読みたくなるが、こちぼらと読むとか)という場所もあるという。そして鬼飛山に鬼門と洞門という場所があって、そこに住む鬼が人々に迷惑をかけていたので、桃太郎が鬼退治をした。そのとき鬼が飛ぶように逃げ出したので鬼飛山と呼ばれるようになった、というのであるが、その鬼が住んでいたという場所は私が歩いた道にはなかった。

この伝説からすると鬼飛山の名は古くからのものらしく、白隠禅師以降に山名が変わったとは思えない。賑済寺の本堂横にほとんど水のたまっていない小さな池がある。池の奥は裏山の岩場に続いていて、そこから流れてくる水が池の水の供給源になっていた。ひょっとすると雨が降るとこの岩場に小さな滝ができ、そのためこの地は岩滝と呼ばれ、そして白隠禅師はその後ろの山を岩滝山と呼んだ、ということかとも思った。

     
座禅岩の伝説

座禅岩へ行く道の入り口の解説板に次のようなことが書いてあった。まず「美濃加茂市指定史跡。昭和三十五年指定。白隠禅師遺跡」とあり、指定された遺跡の内容は「座禅岩、白隠石像、岩滝庵白隠堂、など賑済寺岩滝山一帯」とある。そして以下の話が続く。

「ここから歩いて六分程の所に、風光絶佳にして四方を一望できる岩がある。昔は傘石とか祟(たた)り石と呼ばれて村人が寄りつかなかった奇岩である。若き白隠禅師がこの地で苦行したとき、好んでこの岩の上で禅定に耽ったので、今は白隠禅師座禅岩と呼ばれている。

禅師がこの祟り石で坐禅をしたある夜のこと、小庵の戸を閉じて夜更けまで瞑想工夫に耽っていると、怪しい山法師のような大男が『鶴公(つるこう)、鶴公』と禅師の名を呼んだ。禅師の名は慧鶴(えかく)であるが、呼ばれても禅師は振り向かなかった。それから六、七夜こうしたことが続いたが禅師は相手にせず、禅師の禅定力に根負けした大男はそれ以後姿を現すことはなかった・・・。平成十七年。美濃加茂市教育委員会」

振り向きもしなかったのに、しかも戸は閉じられていたのに、なぜ山法師のような大男と分かったのかは置くとしても、ここに出てくる岩滝庵白隠堂がどの建物かということは気になる。賑済寺の離れは庵と呼ぶにふさわしい小ささであるが、遺跡に指定されるような建物には見えない。だから本堂とおぼしき建物のことではないかと思うが、確認はできなかった。離れをもっとよく調べれてみれば何か分かったかもしれないが、生い茂る草のために近づくことができず、庵名らしきものがかかっていたが古くて読めなかったのである。

     
岩滝山での修行

白隠禅師の壁生草(いつまでぐさ)に岩滝山での修行のことが書いてある。その部分を白隠禅師法語全集から吉澤勝弘氏による訳でご紹介する(原漢文)。なお壁生草はキヅタ、あるいはマンネングサのこととある。

禅師が岐阜県多治見市の虎渓山永保寺(こけいざん、えいほうじ)を目指して旅をしていたとき、太田の宿(しゅく)で心引かれる清らかな寺を見かけたので立ち寄ると、その寺は数年来の友人、陳首座(ちんしゅそ)が住職する寺であった。そこで独接心をするための場所を探しているところだと伝えると、陳首座がそれならばと見つけてくれた。

「ここから北に一里ほどの所に、山之上(やまのうえ)の岩滝という所がある。そこを提供してくれるのは、山之上の鹿野徳源(しかのとくげん)という老人で、裕福でまた熱心な信心家だ。昨日、詳しく貴兄のことを話しておいた。取りあえず庵を造ってもらうことになったから、庵ができるまで、しばらく河浦(かわうら)という所に蟄居して待ちたまえ。庵ができれば、きっと迎えに行くから」

というわけで、河浦という所に行った。一月余りして、陳首座が迎えに来て、徳源老人の家に行った。そして、そのあくる日、さっそく岩滝山の庵に移った。徳源居士は長男の勘治に命じて、私を庵まで送らせてくれた。一人の下男が、米一斗ばかりが入る程の桶を担ってついて来た。一里ばかり行くと庵に到着した。そこで、私は線香に火を点け、礼三拝し、毅然と黙座した。勘治はこれを見て合掌作礼して家に帰った。

それからは、ひとり背骨をたてて、明け方まで打坐した。その夜は一晩中、はなはだ恐ろしい鬼怪の事が起こったのだが、文が長くなるのでここには記さない。

翌朝、例の桶を開けて、左手で一つかみの米をすくって粥を作り、これを一日分の食料に充てた。それからは毎日このようにして過ごしたが、一月余りを経ても、少しの飢渇を覚えることもなく、身心ともに元気で、夜は坐禅、昼は誦経に、ついに怠ることなかった。その間、大悟小悟を体験すること数を知らず、歓喜に踊り上がることもどれくらいあったか分からぬほどであった。大慧宗杲(だいえそうこう)禅師は、大悟十八度、小悟数をしらず、と言われたが、その言葉が嘘ではないと実感したのである」

文中に山之上という地名が出てきたので賑済寺の住所を調べると、「美濃加茂市山之上町三一四四の一」とあった。ただし岩滝という地名は付かない。

しかし文中に賑済寺の名が出てこないし、寺の中に庵を作ったとも書いてない。とすると岩滝庵が発展して賑済寺になったのだろうか。ならばなぜ曹洞宗に属しているのか。なぜ賑済寺と名付けたのか。その庵がひと月あまりで建てた急ごしらえの庵なら、今日まで残っていることはまずあり得ないが、その庵はどこに建っていたのか、など不明な点がまだいくつか残っている。

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