石動山(せきどうさん。五六四メートル)
二〇二〇年七月二十日(月)晴
石川県の中能登町(なかのとまち)にある石動山は、泰澄大師が開山した修験修行の山。突き出た山頂部分が海上からよく目につく、航海の目印にされてきた山。江戸時代までの日本の航海術は、山などを見て船の位置を知る沿岸航法であった。航海の目印にされてきたことも、この山が修験の山になった理由の一つではないかと思う。
なお能登半島で一番高い山は半島の付け根にある宝達山(ほうだつさん。六三七メートル)、次が輪島市の高洲山(こうしゅうさん。五六七メートル)、そして第三位が石動山。
この山の名は今は「せきどうさん」と音読されているが、古くは「いするぎやま」とか「ゆするぎやま」と読まれていた。この山は地盤がもろい岩質でできているため、しばしば大規模な地滑り、崖崩れ、落石などを起こしてきた。そのため石が動く山の意味の「いしゆるぎやま」が、「いするぎやま」あるいは「ゆするぎやま」になり、そして荒ぶる男神である石動彦神(いするぎひこのかみ)が宿る山になり、最終的には五社権現と呼ばれる五座の神仏をまつる独自の神仏習合信仰の山になったとされる。
この山は中世には、三百六十の坊、三千の衆徒、といわれる勢力を持ち、天平寺(てんぴょうじ)という寺がこの山を統括していたが、中世に二度の戦火にあって全山灰燼に帰し、そのときこの山の修験道は里(さと)修験化が進んだという。
そしてその後再興されたが、明治時代に修験道禁止令と神仏分離令が出たことでまた衰退、天平寺は消滅、伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)のみがさびしく残るという状態になった。ところが昭和五三年に国の史跡に指定されたことで整備が進み、天平寺の中心となる坊、大宮坊も再建された。ただし現在ここに住んでいる人はいないように見える。
石動山の縁起を伝える文書には古縁起と新縁起があり、古縁起では崇神(すじん)天皇六年に方道(法道)仙人が開山、養老一年(七一七年)に智徳が中興、となっているが、新縁起では泰澄大師が白山開山(七一七年)のあと石動山を開山したとある。崇神天皇は第十代の天皇、在位年代は不明。
方道仙人は、兵庫県加西市にある西国三十三ヵ所の第二六番札所、法華山一乗寺の開山であり、播磨国に山岳寺院二十ヵ寺を開いたと伝えられる。その素性はインド霊鷲山(りょうじゅせん)の仙人とされ、孝徳天皇(在位六四五~六五四)のときに来日したとされるが、孝徳は第三六代の天皇であるから、それだと第十代の崇神天皇のとき石動山開山という説と矛盾する。
この山は再建された大宮坊の前まで車で入ることができ、そこから山頂までは十五分ほどの距離であるが、大宮坊と資料館を見学、神社に参拝、イワシガ池の名水を飲み、寺院跡をめぐり、大御前(おおごぜん)と呼ばれる山頂に立ち、石動山城(せきどうさんじょう)跡を見学、という一周コースを歩くと二時間ほどかかる。
イワシガ池は仏さまに供える閼伽水(あかみず)の汲み場、この水は駐車場まで引き水されていて、ポリタンクを山ほど車に積んでこの水を汲みに来ている人がいた。飲用や料理用にはすべてここの水を使っていると言っていた。
資料館には仏像などが展示されているが、ほとんどの宝物は散逸してしまって残っていない。航海の目印とされた山なので、山頂から海が見えるはずだと思ったが、生い茂る木々のため海どころか周囲の山の景色も見えず、城跡からも同様であった。
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