越知山(おちさん。六一二・八メートル)

  二〇二〇年六月二二日(月)。曇

越知山は福井平野と越前海岸をへだてる丹生(にゅう)山地の中の一峰。そして今回の山旅は、泰澄大師が開山した越前五山めぐりの最後の山旅。この山を最後に残したのは、これが越前五山の中心ではないかと思ったからであり、そう思う理由は山麓に大師の根本道場の大谷寺(おおたんじ)があるからであった。
 
この山には小川(おがわ)集落から入山する小川コースで登った。この尾根道は行者道(ぎょうじゃどう)とも呼ばれる古くからの修験の道、登山口は奥糸生(おくいとう)地区多目的集会施設という長い名前の建物の横にある。この施設には登山者も利用できる七台分ほどの駐車場と外トイレがあり、建物の前に第二分校跡地という小さな石碑が立っていた。
 
登山口の解説板によると、越知山は泰澄大師が持統天皇九年(西暦六九五年)に越知山大権現をまつって開いた山とある。この大権現は行場が三ヵ所あるからだと思うが三所大権現とも呼ばれ、その行場があるのは以下の三ヵ所であるが、なぜか祭神の中に越知山大権現の名が出てこない。
 
まず中心となる行場は越知神社の本殿と拝殿が建つ大御前(おおごぜん)。祀られているのは伊弉冉尊(いざなみのみこと)、本地は十一面観世音菩薩とある。
 
つぎが別山(べっさん)。祀られているのは天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと。天照大神の息子)、本地は聖観世音菩薩。
 
それから奥の院。祀られているのは大己貴命(おおなむちのみこと)、本地は阿弥陀仏。なおこのお堂のすぐ下に、臥(ふせり)行者の旧跡なるものがある。この行者は泰澄大師のお弟子さんである。
 
そして社務所のある場所がこの山の室堂になっていて、ここまで林道が通じ、ここには護摩堂(日宮神社)、大師堂、千体地蔵堂、観世音菩薩をまつる神宝庫、ご神木の栃の大木、殿池(とのいけ)という丸い池、トイレなどがある。三角点は奥の院の横にあるが、この山の最高点は展望台の建つところにある。なお室堂、別山、御前などの地名は修験の山に特有のもの。
 
この山でとくに印象に残っているのは巨木と古木。大きなアンテナが山上にいくつも立つ、山頂まで林道が付いている山なので、自然破壊の進んだ山だろうと思っていたが、登山道ぞいに手つかずの自然林が残されていて、久しぶりにブナ林やブナの古木にお目にかかった。ほかにも、イヌシデ、トチ、クリ、山桜、アカイタヤ、ハウチワカエデ、コナラ、ミズナラ、モミ、シナノキ、などの古木が目に付き、ササユリの花も五本ばかり見た。
 
この山は木の好きな人には最適の山だと思う。その理由は木に名札がついていること、そのため木の名前を覚えようと観察したり写真をとったりで、ずいぶん時間を使った。
 
この山に豊かな自然林が残っているのは、泰澄大師の遺徳のお陰であろう。修験の山という縛りがないと、千年の古木といえど切り倒され、スギやヒノキが植林されてしまうのである。だから今や消滅しつつある修験道が、この山の自然を守ってくれているのである。
 
登山道は二ヵ所で林道と交差し、その間は林道を歩くこともできる。登山道から百メートルほど下りたところにあるのが「明日の岩屋」、岩屋といっても人ひとりが体をちぢめて雨宿りできるていどの岩のくぼみであるが、ここに籠もって明日の朝を待った人もあったと思う。地蔵菩薩を安置するお堂から十メートルほど下りたところにあるのが独鈷水(とっこすい)の水場、岩場を流れ落ちる苔清水の名水である。苔むした石仏が修験の山としての長い歴史を教えてくれる山でもある。
 
展望台からは意外にも福井の町が見渡せた。この山から福井の町並みがこんなに見えるとは思わなかった。文珠山や吉野ヶ岳も同様だったので、泰澄大師は福井の町と縁の深い人だったと思う。白山や荒島岳も見えるとあるがこの日は霞の中であった。今回は山中で誰にも会わず、会ったのは蛇が一匹のみ。
 
越知山の下にあるのが泰澄大師の根本道場の大谷寺、ここには大師の墓とされる一三二三年建立の国重文の九重の石塔と、大師堂がある。越知山上にまつられていた仏像は、今はこの寺の本堂と収蔵庫に収められており、それらはかっての越知山の繁栄を今に伝えるすばらしいものばかりである。大谷寺の老僧と二時間ほど話をして帰途についた。

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