日野山(ひのさん。七九四・五メートル)

   二〇二〇年六月三日(水)曇

越前五山の一つ日野山は、越前市と南越前町との境にある南越地方第一の高山。福井市から北陸道で敦賀方面へ向かうとき、正面に見えてくる越前富士と呼ばれる山。

芭蕉の「あすの月、雨占(うら)なはん、ひなが嶽」という句の「ひなが嶽」は日野山の別名であり、小健山(おたけやま)の名もこの山は持っている。この句は「奥の細道」の旅のときに作られたものだと思うが、奥の細道には記されていない。

この山の山麓には、私が知るかぎり二ヵ所の日野神社があり、山頂には昭和五七年に建て替えられた奥の院と拝殿がある。この神社の祭神は、第二六代継体天皇(けいたいてんのう。五〇七~五三一)、第二七代安閑天皇(あんかん。五三三~五三五)、第二八代宣化天皇(せんか。五三五~五三九)、の三柱とあるが、泰澄大師開山とされる山なのに解説板に大師の名は出てこない。神道重視の山なのだろうか。

この山には中平吹町(なかひらぶきちょう)にある日野神社から登った。この神社の左側から登る道がこの山の表登山道だと思うが、この道はいささかややこしい。ややこしい理由は道が三本あること。その一本は奥の院の建て替えのときにつけたという作業用林道、ただし今は車だと途中までしか登れない。もう一本は登山者の多くが利用する広い登山道。最後の一本は道標に古道と書いてある細い登山道、この道もよく踏まれている。

これら三本の道が交差しながら山頂まで続いているので、一度の山行ではとてもこの山の道は把握しきれない。なお道というのは人間が山に刻みつけた傷であるから、できるだけ少ない方がいいと思う。

五合目にある広場がこの山の室堂(むろどう。宿泊所、行場)。ここには休憩所、避難小屋、不動明王像、小さな鐘、水場、がある。ここの水場では蛙がたくさん跳びはねていた。また小さな黒いオタマジャクシが群棲する水たまりが作業道に何ヵ所かあった。そういう蛙の多い山なので、私は一匹しか見なかったが蛇も多いと思う。

この山ではコアジサイがよく目についた。今が見頃のこの花は、つぼみのときは青みがかった色をしているが、開花すると春霞のような白い花になり、いい匂いもする。また新緑のユズリハが群生する尾根もあった。

この山の道は雨のときにはよく滑りそうな赤土の道。それが山頂に近づくと岩床の道にかわり、その中でとくに急勾配のところを「比丘尼(びくに)ころばし」と呼んでいる。比丘尼とは尼僧のこと、ここは急勾配のうえに苔が生えていて雨が降っていなくてもよく滑る。解説板によると、昔この山は女人禁制の山であったが、ある比丘尼が禁を犯して入山したところ、神の怒りに触れてこの岩床をころげ落ち、そのため比丘尼ころがしと呼ばれるようになったとか。つまりこの山は修験の山だったのである。

山頂には立派な奥の院と拝殿が建ち、奥の院の後ろに、白山、三ノ峰、荒島岳、能郷白山、などが一望できる場所があったが、この日は霞のためどれも見えなかった。

奥の院から五〇メートルほど右奥へ行ったところに三角点の立つ広場がある。そこに「行者碑」と彫った石碑が立っていたが、ほかには何も彫られていないので何のためのものかは不明。この山は修験の山だと主張するために立てたという感じの石碑であった。

三角点の後ろに細い道があるのを見つけ、これは長命水へおりる近道ではないかと思って下ってみたが、これがまったくの見当ちがい、どうやら野見ヶ岳(のみがたけ)方面へ尾根伝いに縦走するための道らしかった。ということで十五分かけてくだり、倍の時間をかけて登りかえすことになった。この道は細いがよく踏まれていた。なお下山のときに立ち寄った長命水の水場に水はなく、この山で会った登山者は五人。

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