伊吹山(いぶきやま。一三七七・三三メートル)

   二〇一九年十一月七日(木)晴のち曇

伊吹山は滋賀県で唯一の百名山にして、堂々たる山容と、豪雪と、千二百種をこえる植物が自生することと、薬用植物の多いことで知られる山。なお山全体が石灰岩でできているため、この山の西側はセメント工場によって大きくえぐり取られている。

伊吹山に登るのはこれが三回目、そして今回は伊吹山ドライブウェイを利用しての初めて山行であった。この山は八合五勺ぐらいまで車でのぼれるのである。だから登山というほどのものではなかったが、今回の目的は登頂ではなく、作仏聖(さぶつひじり)として知られる円空(えんくう)上人が修行した平等岩(びょうどういわ)を調べること。平等岩のある八合目まで、下から登るより上から下りる方が早いと判断したのである。

伊吹山ドライブウェイを走っているとき、道の横で何組かの人が巨大なレンズを付けたカメラをすえて何かを待っているのが見えた。何をしているのかまったく見当もつかなかったので、車を止めてきいてみると、イヌワシを狙っているのだという。巣を作る場所は分からないが、伊吹山にはイヌワシが一つがい棲んでいる、そう言ってその人は自分が撮った写真を見せてくれた。

伊吹山修験の行場(ぎょうば)になっていた平等岩は、表登山道の八合目から西へ四百メートルほど道をはずれたところにある。この岩は登山道からよく見えているし、上に小さな建物が建っているからすぐに分かる。この建物は前回、表登山道を登ったときには無かったと思う。

ということで登山道が平等岩に最接近するところを探すと、岩へ向かう踏み跡が見つかったので、それをたどったのであるが、密生する低木のためヤブこぎになる場所もあり、枯れ木や枯れ枝がやたらと多く木をつかむときは要注意であった。

岩の上に建つ小屋は、外見はお堂のような形をしているが中は空っぽ、一畳あまりの土間があるのみですわる場所もない。これを作った人は、ここでどんな修行をするつもりでこれを作ったのだろう。

平等岩は山腹につき出た意外と小さな岩場、岩が露出している部分の高さはせいぜい十五メートルほどであるが、低木しか生えていない急斜面につき出た岩なので、岩上からの眺めはすばらしく、鈴鹿の山々、琵琶湖、竹生島(ちくぶじま)、比良山(ひらさん)、などが一望できる。登山道にあった解説板によると、この岩は伊吹山寺を開いた三秀が修行した場所とある。その伊吹山寺は山頂の覚心堂と山麓の発心堂として今も残っている。

平等岩の中ほどと頂きのすぐ下に、棚のようになっている部分がある。昔はこの棚の上を、岩のでっぱりや窪みに手足をかけて抱きつくようにしてまわる修行をしていたという。なんのためにそんなことをするのかというと、危険な崖をめぐることで自分を捨てる修行をするのである。この岩は岩自体の高さは大したことはないが、山麓までさえぎる物なく見渡せる場所にあるので、その下には高度感あふれる景色が広がっている。だから緊張感あふれる捨身修行ができたと思う。私はその棚の上は回らなかったが、写真を撮るため岩の下を一周した。

おそらく円空上人は、若いときには伊吹山修験の先達(せんだつ)として人々をひきいて伊吹山に登り、この平等岩で捨身行を指導していたのであろう。また岩の上に小屋掛けして修行したこともあるかもしれない。上人は岩屋ごもりが好きであったが、ここにはこもる岩屋がないからである。

写真を撮りながらふと見上げると、西側の尾根の上を鹿の群れが移動しているのが見えた。空を背景にした稜線上の鹿の姿は印象的であった。足もとを見ると小屋のまわりにも鹿のフンがたくさん落ちていた。

     
平等岩

平等岩という名の岩は大峰山の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)にもある。山上ヶ岳には表(おもて)と裏の二つの行場があって、表行場の断崖には「西の覗き」と「日本岩」、裏行場の断崖には「東の覗き」と「平等岩」の行場がある。ここの平等岩は高さ百メートルほどの断崖の上に突き出たこぶのような岩、この岩では今も捨身行がおこなわれていて、しかも昔は断崖に向かって前向きに岩をまわっていたという。

この行は失敗すれば落ちて死ぬという命がけの行であるから、やるたびに一心不乱の三昧に入れる。つまりこの行は自分を捨てる行であるとともに、強く三昧に入るための行でもあり、また懺悔のための行でもある。だから平等岩は修験の山に付きものの行場であった。

三昧に入るための行を修験道では禅定と呼び、それには、坐禅、読経、真言読誦、礼拝、護摩焚き、そして行道(ぎょうどう)があった。行道は文字どおり道を行くことを意味し、山に登ったり、行場をまわったり、遍路をすることが行道であるから、比叡山の回峰行も行道修行の一つである。平等岩めぐりもこの行道に属する行とされ、平等岩の名は行道岩のなまったものとされる。

そして大峰山では平等岩めぐりをした後で、

「極楽の、内をも知らず、手をかけて、無為の都に、入るぞ嬉しき」

「平等岩、廻りてみれば、阿古(あこ)滝の、捨つる命も、不動くりから」

という秘歌を唱えたという。あとの歌に出てくる阿古滝は、平等岩の下に口を開ける阿古谷にある滝のこと、つまりここでの平等岩めぐりは、この滝にまつられた不動明王を礼拝する行とされるのである。また不動くりからは不動明王の智剣が変じた倶利伽羅(くりから)竜王のこと、その像は火炎に包まれた黒竜が、岩のうえで剣に巻きつきそれを飲みこもうとする形に作られる。つまり平等岩で捨身行を修行して不動明王を礼拝すれば、倶利伽羅竜王と一体になれるというのである。

修験道の極意をひと言でいうと擬死再生、つまり一度死んで生まれ変わること、入我我入して即身成仏すること。だから修験の山によくある胎内くぐりも生まれ変わるための行場である。

     
円空上人

円空上人(一六三二年頃〜一六九五年頃)は生涯に十二万体の仏像を彫ったという人。今でも五千体ほどの円空仏が残っているという。

上人の経歴には不明な点が多く、生年、没年、生家の場所などは確定していないが、現在の岐阜県羽島市で生まれ、若くして出家し、三〇歳ごろ仏像彫刻を開始、諸国遊行の旅に出ておもに東日本をまわり、遊行の西のはずれは滋賀県から奈良県にかけてのあたりであった。一六六五年には北海道へ渡り、二年間滞在して多くの仏像を残し、一六七四年には志摩半島を回ったことが分かっている。

晩年には故郷の地にもどって円熟した境地の仏像を残し、七月十五日の盂蘭盆の日に、岐阜県関市の弥勒寺で六四歳で亡くなったとされる。弥勒寺は上人が再興した自坊というべき寺、この寺には上人の墓碑があり、その下の長良川河畔には入定塚があるが、没年とかどこでどのような最期を迎えたかは明らかではない。

上人は弥勒寺を天台宗の末寺に加えたので、上人の身分は最終的には天台宗寺院の和尚ということになるが、上人の根本は修験道の行者であったと思う。そう思う理由は行く先々で山岳修行をしたり、岩屋にこもったりしているから。岩屋ごもりは修験道で重視される行の一つであり、上人がこもった岩屋の代表が大峰山系の大普賢岳(だいふげんだけ。正確にはその支峰の日本岳)中腹にある笙の窟(しょうのいわや)である。この大峰修験の秘所とされる岩屋では、雪に閉ざされる半年間こもる修行がおこなわれていた。

その修行のときには洞窟の中に小屋掛けをしてこもったのだと思うが、それでも孤独と寒さと粗食に耐える半年になったと思う。都市に住む人には理解できないと思うが、山中における孤独と暗闇は想像以上に恐ろしいものであり、それに耐えるのが修験修行の眼目だったのである。北海道滞在中にも、せたな町の太田権現の岩屋や、豊浦町の礼文華窟(れぶんげくつ)にこもって作仏している。上人はそういうところで作仏するのを好んだようである。

最後に上人の歌をいくつかご紹介する。

「こけむしろ、笙窟(しょうのいわや)にしきのへて、長夜(ながきよ)のこる、のりのともしみ」

「しつかなる、鷲窟(わしのいわや)に、住なれて、心の内は、苔のむしろ□」。鷲窟は笙の岩屋のすぐ横にある岩屋。□は虫食いで判読不可の字。

「在(あり)かたや、出羽(の)岩窟(に)、来て(も)見よ、けさの御山の、仏なりけり」。出羽の岩屋は岐阜県の飛騨大鍾乳洞の近くにある両面窟のことだと思う。そう思う理由は出羽ヶ平(でわがひら)という場所に両面窟があるから。

「大峰や、天川(あまのかわら)に、年をへて、又くる春に、花を見(る)らん」。天川は大峰山のふもとにある天川(てんかわ)村のこと。

「昨日今日、小篠(の)山ニ、降(る)雪は、年の終の、神の形かも」。これは山上ヶ岳ちかくの小篠(こささ)の宿(しゅく)での冬ごもりの歌。

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