七面山(しちめんざん。一九八三・一メートル)
二〇一九年十月三〜四日
三日は曇。夜は雨。朝、出発するころ雨がやむ
山梨県の身延山地にある七面山は、彼岸の中日に富士山頂から昇る朝日を見ることのできる山。つまり富士の真西にある山。そのため春秋の彼岸にはダイヤモンド富士を見ようとたくさんの人がこの山に詰めかけるという。
今回は法華宗の和尚に誘われての久しぶりの山登り、そして山上の七面山敬慎院(けいしんいん)という日蓮宗のお寺に宿泊した。この寺は標高千七百メートルに建つというから、山小屋のような寺だろうと思っていたら、山上にしては立派な構えの建物が並んでいた。
この山には表登山道と裏登山道があって、山頂までの標高差はどちらも一六六〇メートルとあるから、健脚でないと日帰りの難しい山である。今回、往復した表登山道は敬慎院へ登るための表参道なので、整備は行きとどいているがそのぶん面白味に欠ける面がある。
富士の雄姿に関しては、天気に恵まれず敬慎院に到着したときチラッと見えたのみ、翌朝のご来光も拝めなかったが、それでもここから見る富士は偉大だと感じた。
七面山は日蓮宗の霊場になっている山。敬慎院は日蓮宗の大本山である身延山久遠寺の奥の院のような寺。この寺は宿坊になっていて、予約すれば登山者も泊まれるが、修行道場ということで食事は精進料理のみ、晩課や朝課にも参加しなければならない。この日の宿泊者は私を含めて六人のみであったが、翌日下山するときには百人ほどの団体さんとすれ違ったので、そういうときにぶつかると窮屈な思いをするかもしれない。
こんな山の上に寺が作られたのは、ここに一ノ池という山上にしては大きな池があるからだろう。この池には竜が住むといわれ、その竜は敬慎院の本堂に祀られている七面大明神という女神であるとされ、その日蓮宗の守護神の本地は吉祥天であるとされる。
そのためこの山は日蓮聖人御伝記に、「七面山は身延のたけの西、はるき川の上にあり、吉祥天のあとをたれ、大明神とあらはれ給いし所也。此の山鬼門をふさぎて七面をひらく、ゆえに名付けたり。金輪際よりわき出でて黄金の地なりといいつたふ。いただきに池あり、八功徳水をすまし、五色の雲つねにたなびけり。其のけわしき事鳥もかけりがたく、鹿もわたりがたし」と記されている。なお二ノ池もあるというが見ていない。
翌朝、同行者は敬慎院からそのまま下山するというので、どうしても山頂を踏みたかった私は、よくないことであるが別行動をとって一人で山頂へ向かった。寺から三角点のある山頂まで五〇分ほど、サルオガセが目につく針葉樹林の中の雰囲気のいい道であった。途中、何ヵ所か崩落した崖の上から景色を眺められる場所があったが、雨あがり直後の山霧のため展望はなかった。この山は山頂部の東側全体が「なないたがれ」と呼ばれる大崩壊地になっていて、これが七面山という山名の由来とされるが、「なないたがれ」の意味や、それがなぜ七面山になったのかは不明。
山頂は木々に囲まれて展望はないが、青々とした苔の美しい日本庭園のような山頂であった。踏まれ方からするとここまで来る人は多くはないようである。この三角点のある山頂の標高は一九八三・一メートルであるが、この山の最高点はもう少し先の一九八九メートルの峰にある。時間がなかったのでそこは行かなかった。
山頂を踏んでからは、私の別行動のために他の人の予定に影響を与えてはいけないと、走るように一気に下山した。そのため途中で追いつくことはできたが、無理しすぎたため立っておれないほど膝がガクガクになり、足の筋肉も疲労し切り、足が前に出ない状態になってしまった。とはいえ歩かないわけにはいかないので、ひと足ごとに気力をふりしぼり、気合い入れて足を進めた。修験道では山を歩く修行を禅定と呼んでいるが、筋肉痛と疲労に耐えながら山道を歩くには大きな精神力が必要であり、こうして禅定力を鍛えるのが修験修行のねらいなのであろう。
木喰上人
この山行にはもう一つ目的があった。それは作仏聖(さぶつひじり)として知られる木喰行道(もくじきぎょうどう。一七一八年〜一八一〇年)上人の生まれ故郷、山梨県下部町(しもべちょう)丸畑(まるばたけ)を訪ねること。丸畑は身延山の北方それほど遠くない所にある集落、そこには上人の生家の子孫がまだ住んでいるが、現在は高齢のため施設に入所していて家にはいないとか。
丸畑は畑作しかできない山上の集落、おそらくこの集落は丸い形をしているのだろう。しかもここへ入る道は、対向車が来たらどちらかが道の入口まで戻らなければならないという、まったくすれ違いのできない狭い道。この集落のまん中にある微笑館(びしょうかん)という木喰上人の記念館に、彼が残した文書類の多くが展示されているが、木喰仏の本物は一体のみとか。
木喰行道上人は、享保三年(一七一八年)に丸畑の伊藤家で生まれ、十四歳で故郷を出奔、二二歳のとき真言宗の僧として出家、五六歳にして日本廻国修行の旅に出て、六一歳で北海道へ渡って二年間すごし、この北海道滞在中に仏像彫刻を始めた、という人。作仏の動機は、せたな町の太田山神社で円空仏を見たこととする説がある。だから廻国修行にしても作仏にしてもかなり晩成型の人である。
彼は廻国修行の途中、住職として寺に長く留まったこともある。その中でとくに長く留まったのは宮崎県西都市の国分寺、ここには七一歳のとき請われて住職したが、その寺は七四歳のときに焼失、そのため上人は再建の願を立てて七七歳で再建を果たし、そして八〇歳のときまた廻国修行の旅に出て、九三歳で亡くなるまで作仏と廻国の修行を続けた。
上人の死後、書き残した書類などを丸畑に届けてくれた人があったことで、上人の足取りや命日は分かっているが、なぜか亡くなった場所は不明。私は上人が彫った仏像よりも、死ぬまで歩き続けたその生き方に魅力を感じるのである。最期に上人の歌をいくつかご紹介したい。
木喰も、いずくのはての、行きだおれ
いぬかからすの、えじきなりけり
いつまでか、はてのしれざる、たびのそら
いづくのたれと、とふ人もなし
迷ふたり、里も見えざる、片田舎
ことわからじと、思ふわがぐち
木喰の、衆生さいどは、なにやらむ
ただ堪忍が、修行なりけり
まるまると、まるめまるめよ、わが心
まん丸丸く、丸くまん丸
みな人の、こころをまるく、まんまるに
どこもかしこも、まるくまん丸
いきなりに、ころり丸まる、そのよさは
さむさわするる、ちやはん酒かな
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