嶽ノ森山(だけのもりやま。三七六メートル)

   平成二九年四月二〇日(木)曇

この山は登山の対象としてはおそらく紀伊半島でいちばん南に位置する山。半島南端にある串本町から国道三七一で北上すると、古座川(こざがわ)峡にそびえる天然記念物指定の「一枚岩」がある。その高さ百メートル、長さ五百メートルという一枚岩の絶壁の対岸にそびえているのが嶽ノ森山であるが、一枚岩の前からこの山は見えない。このあたりは奇岩の多いことで知られた場所だという。

国道三七一は十年ほど前にいちど走ったことがあるが、前回来たときには何もなかった一枚岩の前に、小さな道の駅ができていた。その駅の上流五百メートルに一枚岩トンネルがあり、トンネル入り口の右側に登山口がある。その登山口に駐車場はないが、道の駅と登山口との中間にトイレつきの小さな駐車場がある。

なおこの国道三七一をさらに奥へ進むと、道は突然、山中で途切れ、その先は狭い林道で山の向こうとつながっている。長野県の国道一五二にもこういうところがあるから、地図はよく見なければいけない。

大量の落葉に埋まる登山口で少しまごついたが、地元の山の会が整備しているらしく道はすぐにはっきりする。こんな低い山が登山案内書に載っているのは何か特徴があってのことだろう、と思ったのが今回この山を選んだ理由であったが、この勘は当たりで、この山の中腹には魅力的なナメ滝があった。なめとこ岩と呼ばれる巨大な一枚岩でできたV字谷の底に、なだらかなナメ滝が二百メートルも続き、上部は雨樋のような狭い水路になっていた。

その流れの横に道がついているが、狭いV字谷側面の急斜面につけた道なので足場が切ってあった。簡単に足場が切れる柔らかい岩なのである。ところが最後の方は木の下闇のため、その足場にも苔がびっしりと付いてよく滑り、山靴でも危険を感じた。また、ここは逃げ場のない廊下になっているので、大雨のときは通過できないかもしれない。高さ四百メートル足らずの山でも一歩入れば大自然のまっただ中、油断は禁物である。

使った案内書が三〇年前のものだったので、山の状況に大きな変化があった。この山は上ノ峰(かみのみね?三八三メートル)と下ノ峰(しものみね?三七六メートル)の二峰からなるとあるが、山頂の上ノ峰が存在しないのである。もちろん山がなくなったということではなく、林道が作られ植林もされたことで登山の対象からはずされたらしく、山頂の標識が見つからないのである。そのかわり下ノ峰に山頂の標識が立ち、山名も雄岳(おたけ?)となり、その東にある岩峰が雌岳(めたけ?三六九メートル)となっていた。つまり今はこの二峰が登山の対象である。

この山のもう一つの魅力はこの二つの岩峰。険しいだけに二つとも眺めがよく、雄岳からは期待通り東の方に海が見えた。これは熊野灘である。山頂から見渡すと周囲は植林された山ばかり、和歌山は紀ノ国、紀ノ国は木ノ国、林業の国、ということでこの日の行程の半分は杉かヒノキの植林帯であった。

雄岳から雌岳は十五分ほどの距離。雌岳の岩峰が険しそうだったので、雄岳からはサブザックで行ったが、途中の道も雌岳の登りも問題なかった。雄岳と雌岳の山頂に洞尾村中(うつおそんちゅう。村中は村の仲間の意味か)、弘化四年二月吉日、と彫った石の祠があった。両山とも昔からふもとの人がよく登っている山なのだろう。

帰ってシャワーを浴びたとき、膝の後ろにマダニが一匹食いついているのを見つけた。藪こぎはしていないので、雌岳のウラジロがおおいかぶさる道でついたのではないかと思う。帰るまで十二時間ほども血を吸われていたせいか、かぶれとかゆみがなかなか取れず、咬み跡が消えるのに二ヵ月もかかった。マダニには食われ慣れているが、今回その恐ろしさを初めて知った。

今回の寄り道は、というよりも本当はこちらの方が目的であったが、道の整備が終わり通り抜けできるようになった鬼ヶ城、巨岩をご神体とする花の窟(はなのいわや)神社、観音さまの浄土をめざして渡海した補陀洛山寺(ふだらくさんじ)、トルコ船エルトゥールル号が難破した紀伊大島の樫野崎(かしのざき)、潮岬灯台と白浜温泉、最後が有間皇子(ありまのみこ)の悲劇に関係する岩代(いわしろ)の結び松、であった。初めの二つは三重県、あとは和歌山県である。

参考文献「大阪周辺の山」1990年 山と渓谷社

もどる