御巣鷹の尾根

   平成二八年十月二一日(木)薄曇り

群馬県上野村の御巣鷹(おすたか)の尾根へ慰霊登山をしてきた。この尾根は一九八五年八月十二日に、日本航空一二三便のボーイング七四七型機(ジャンボ機)が墜落炎上した事故現場である。この事故の犠牲者は乗客乗員五二四人のうちの五二〇人、その中には歌手の坂本九さんも含まれていた。日本航空ではこの事故のあと、一二三便とその対になる一二二便は永久欠番になっているという。

この事故は単独機事故としては世界最多の死者数という大事故であったが、三一年も前のことなので、すでに御巣鷹の尾根の名も、この事故のことも知らない人がいた。なお死者数で世界最多の航空機事故は、アメリカの同時多発テロをのぞけば、この日航機事故の八年前の一九七七年にスペイン領カナリア諸島のテネリフェ島でおきた、二機のジャンボ機が滑走路上で衝突して爆発炎上、五八三人が死亡、というテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故。

大惨事の現場ということで、こういう山を登山の対象にしてもいいのかという後ろめたさのようなものがあった。そこで御巣鷹の尾根の管理人さんに、遺族以外の人がこういう場所に来ることをどう思うかきいてみた。すると、最近は遺族の高齢化もあって慰霊登山の人が減っている、事故を風化させないためにも遺族以外の人にもたくさん来てほしい、また遺族以外の人もたくさん来ている、という返事であった。

ただし慰霊登山とはいっても墜落現場までだと登山にならないので、御巣鷹の尾根の上にある高天原山(たかまがはらやま。一九七八、八メートル)と、大蛇倉山(だいじゃくらやま。一九六二メートル)まで足を伸ばした。御巣鷹の尾根の上には御巣鷹山(おすたかやま。一六三九、六メートル)があると思いたくなるが、実はちがうのである。

御巣鷹の尾根を登りつめると群馬と長野の県境が通る稜線にでる。その稜線を左へ行くと高天原山、右へ行くと大蛇倉山、そして大蛇倉山の先にあるのが御巣鷹山である。つまり御巣鷹の尾根は高天原山と大蛇倉山との鞍部から派生する尾根、そしてこの尾根は地形図から判断すると明らかに高天原山に属している。要するに墜落時の混乱のために墜落現場の山名をまちがえたのであるが、御巣鷹山の名が世界中に広まってしまったため訂正できなくなったのだと思う。

登山地図によると、高天原山には神立山、蟻ヶ峰、蟻ヶ峠、ショナミの頭という四つの別名があり、御巣鷹山にも焼山の別名がある、というここは山名のややこしい山域なのである。ということで墜落現場の地名は、今は「高天原山の御巣鷹の尾根」ということになっている。なおこれらの山の登山地図は、昭文社「山と高原地図。西上州。二〇一六年版」に入っている。

車で上野村へ行くには上信越道の下仁田(しもにた)が一番近く、上野村の中心から登山口までは三〇分ほど、途中に上野ダムとダム湖の奥神流湖(おくかんなこ)がある。上野村は山また山の山奥にある平地の少ない村なので、崖っぷちに積んだ石垣の上に家が建っていたり、急斜面のはるか上にぽつんと一軒家があったりする。そのため平家の落人伝説が残る四国の山中を走ったときのことを思い出した。

駐車場は、登山口に中型バス四台分と乗用車七〜八台分、そこからすこし下りたところに駐車用の空き地、さらに一キロほど下りたところに最初に作られたトイレ付きの駐車場がある。なお狭い林道なので大型バスで登山口に入るのは無理、中型でもバス同士がすれ違うときには苦労していた。

今回は足かけ二〇年乗っている愛車での最後の遠出、二〇万キロ以上も乗った、オイルが少し漏れている車に別れを告げながらの運転であったが、途中で動かなくなったらどうしようという心配もしなければならなかった。

     
出発

この日の行程は、御巣鷹の尾根登山口、昇魂之碑(しょうこんのひ)、県境の稜線の分岐、高天原山、県境の稜線の分岐、大蛇倉山、県境の稜線の分岐、昇魂之碑、登山口、であった。

登山口から墜落現場までは三〇分ほどの距離であるが、スゲノ沢ぞいに十五分も登ると、遺体の発見現場に建てられた慰霊碑が姿を見せ、登るごとに数が増えていく。急斜面の山肌に広範囲に散らばって立つ慰霊碑の数の多さと、あたりの異様な雰囲気に圧倒される。スゲノ沢の底にとくに慰霊碑が集中して立つ場所がある。そこは飛行機の後部部分が落ちた場所だと思う。坂本九さんの慰霊碑もあるはずだが見つからなかった。

墜落地点に立つ昇魂之碑の前で一人でささやかに読経をする。登山前に上野村にある「慰霊の園」でも読経をしてきた。

昇魂之碑を背にして立つと、谷の向こうの尾根の一部がV字形に欠けているのが見える。これは日航機の主翼が削りとった跡である。日航機はまずこの尾根の向こう側にある山で数本の樹木に接触し、それからこの尾根の上部を右主翼の先で削りとり、その反動で前のめりに回転しながら、ほぼ裏がえしの態勢で御巣鷹の尾根の標高一五六五メートル地点に激突し炎上した。そのためこの場所では生存者は発見されなかった。今はあたり一面に樹木が生い茂っているが、事故直後の写真を見ると、なぎ倒されたり燃えたりして尾根上に樹木はほとんど残っていなかったことが分かる。

ところが飛行機の後部部分は、手前の稜線にぶつかったときに機体から脱落、尾根に激突することなく尾根の右側の斜面をすべり落ち、樹木をなぎ倒すことで速度を落としながらスゲノ沢の底まで落下、燃えるものを積んでいない機体後部ということでそこでは火災も起きなかった。そのためそこで四人の生存者が発見された。

昇魂之碑の上で焼け焦げた大木の残骸を三つ発見し、これは事故で焼えた木かもしれぬと管理人さんにきいてみたら、事故で燃えた木と、慰霊にきた人の線香が原因の山火事で燃えた木の、両方あると言っていた。束のまま線香に火を付けると、風があるときには炎を上げて燃え上がるので、気をつけなければいけないのである。

昇魂之碑の近くに歯医者さんが建てた慰霊碑があった。これは遺体の身元確認作業に協力した歯医者さんたちが建てたもの。群馬県警が建てた石碑もあった。一三五日間にわたり、のべ五五、一一七人が救援と捜索活動に従事したとある。仏像とか、千羽鶴のたくさんの束、亡くなった人の写真、亡くなった人への伝言、などを収めた小屋があった。それらを見ていたら涙が出て仕方がなかった。

慰霊碑群が終わるあたりに、高天原山と大蛇倉山への登山口をしめす小さな札がかかっていた。ここからが本当の山歩きである。そこから先は踏み跡ていどの道になり、その踏み跡も落ち葉の季節ということで分かりにくかった。テープはたくさん付いているが、それでも下山するときのことが心配でうしろを振り返りながら歩いた。樹木が密生する自然林の中の急坂を、かすかな踏み跡をたどって登る。あまりに樹木が繁茂していて薄気味の悪さを感じるところもあった。

県境の稜線に出ると急に目の前が明るく開けた。長野県側は明るく見通しのよいカラ松の植林帯になっていた。このあたりには植林されたカラ松林が多い。この分岐点に立つ道標には日航機遭難地慰霊登山道と記されていた。

分岐からまず高天原山へ向かった。途中に高天原山がよく見える岩場があり、その先で西側の木々のあいだに見える湖はダム湖の奥三川湖である。長野県にある奥三川湖と、群馬県にある奥神流湖は、県境の山をつらぬくトンネルで結ばれ、これら二つのダム湖のあいだで揚水発電がおこなわれている。つまり余剰電力を利用して奥神流湖の水を奥三川湖に揚げ、電気が不足したときその水を奥神流湖へ落として発電するという仕組み。発電所は御巣鷹山の地下五百メートルにあるという。

高天原山は展望のない山頂であるが、樹木を切り払った先に山麓の田畑が見えた。引き返すとき支尾根に迷いこんだ。真っすぐ進むと支尾根に入るという場所なので、踏み跡にだまされたのである。ここには道標がほしいと思った。

大蛇倉山の山頂も展望はないが、奥に景色のいい岩場がある。大蛇倉山はこの岩場に由来する山名であろう。クラは岩場を意味する言葉、そしてそこに立ったとき眼下に見えるのが御巣鷹山である。

もどる