堂満岳(どうまんだけ。一〇五七メートル)
平成二七年一月二九日(木)曇
久しぶりに雪の山を歩こうと、琵琶湖の西岸につらなる比良(ひら)山地の一峰、堂満岳へ行ってきた。行程は正面谷(しょうめんだに)から堂満岳山頂までの往復、前夜も雪が降ったらしく、この日は登山口からすでに雪のある状態だったので、ねらい通り雪を楽しむことができたし、道がすでについていたので金糞(かなくそ)峠までは苦労せずに歩けた。峠で六〇センチほどの積雪であった。
この日は主峰の武奈ヶ岳(ぶながだけ)に登るつもりで出たが、久しぶりの晴れ間ということで他にも入山者がちらほら見え、話をきくとみんな武奈ヶ岳を目指していたので、行き先を堂満岳に変更したのであった。山で人に会うのはあまり好きではないし、最近は追い抜かされてばかりいるので、人に会わない山を選んだのである。
金糞峠の上に出ると冷たい向かい風に吹かれて急に寒くなった。これはいつものことなので、そのうち暖かくなるだろうと思いながら歩いていたら、いつの間にか手の感覚がなくなっていた。峠の手前の急斜面で汗をかき、そこを強風に吹かれたことで体温が一気に奪われたのである。これは凍傷になりかけだと、あわてて手をもんでオーバー手袋をはめ、防寒具も身に着けた。するとすぐに手は暖かくなり、感覚ももどってきた。気温は零下三度だが体感気温はそれより十度は下がっていた。
金糞峠から堂満岳の間は踏み跡がついておらず、しかも凍りついた雪の上に新雪が積もるという状態で歩きにくかった。風の当たるところは新雪が吹き飛ばされてツルツルにすべる状態、吹きだまりでは腰まで雪にもぐる状態ということで、アイゼンにするか、カンジキにするか迷ったが、結局どちらも着けなかった。
堂満岳の山頂は、木々の枝に雪が積もり、満開の桜の園のようになっていた。桜の園の背景は眼下に広がる琵琶湖と、対岸に青く霞む鈴鹿山脈。この日は曇っているわりに遠目がきき、伊吹山や鈴鹿の山々がはっきり見えた。
雄松沼
琵琶湖を眺めていたとき、湖のすぐ横にある四角い池が目についた。そしてこの池をこれまで百回もこうして眺めてきたのに、これまで一度も立ち寄ったことがなかったことに気がつき、今日は寄り道してみようと決心した。
この池は琵琶湖にたくさんある内湖(ないこ。入り江)の一つ、小松沼(こまつぬま)である。この池は正面谷を流れくだる比良川が作ったものらしい。比良川が運んだ風化した花崗岩の白い砂が砂州をつくり、その砂州に囲まれてできたのが小松沼ということである。
砂州の上は松林になっていて、その先端らしきところに雄松崎と彫った石碑が立っていたが、砂浜がゆるやかな曲線を描いて続いているだけの岬なので、石碑がなければどこが岬か分からず、その石碑の横には雄松(黒松)の大木が生えていた。雄松崎だから雄松だけかとよく見ると、数は少ないが雌松(めまつ。赤松)もあった。
「琵琶湖周航の歌」に、「松は緑に、砂白き、雄松が里の、乙女子は」とある「雄松が里」はこの辺りのことなのだろう。琵琶湖と小松沼をつなぐ水路に小さな船着き場が作られているから、琵琶湖を周航してそこに船を着けたということであろう。
現在このあたりは近江舞子(おうみまいこ)と呼ばれ、湖西線の駅名もそうなっているが、これは神戸市の舞子の浜に似ているとして付けられた名称が定着したもので、ここの本来の地名は南小松(みなみこまつ)である。
白砂青松(はくさせいしょう)で知られる雄松崎は、「雄松崎の白汀(はくてい)の涼風」として琵琶湖八景に入っている。白汀は白い汀(なぎさ)、琵琶湖八景は昭和二五年に琵琶湖とその周辺が国定公園に指定されたとき選ばれたもの。また近江八景というのもあって、こちらの成立時期はかなり古く、江戸時代とも室町時代ともいわれる。
近江八景はそのうちの七景が琵琶湖大橋から南のせまい範囲に集中していて、大橋から北にあるのは「比良の暮雪」のみであるが、琵琶湖八景は琵琶湖全体に分散している。堂満岳には暮雪山(ぼせつざん)の別名もあるが、おそらくこの別名は「比良の暮雪」から来たものであろう。近江舞子のあたりから比良山を眺めると、まず目につくのがピラミッド型をした堂満岳なのである。
水辺の景観
この日は重要文化的景観に選ばれた、高島市の針江(はりえ)地区と霜降(しもふり)地区にも立ち寄ってみた。ここは安曇川(あどがわ)の伏流水が流れる場所なので、穴を掘ればどこでも水が湧き出す湧水の里になっていて、湧水量は一日に三千五百トン、水温は常に十三度前後とある。
この湧水を利用するための施設は川端(かばた)と呼ばれ、今も百八ヵ所の川端が使われているという。その仕組みは以下のようなもの。まず壺池(つぼいけ)と呼ぶ井戸から水を湧き出させ、その水は飲用や食品を冷やすことに使う。壺池をあふれ出て端池(はたいけ)に入った水は洗いものなどに使い、食べ物の屑は端池で飼っている鯉に食べさせる。そして端池を出た水は、集落をめぐる水路を通って川へ流れこみ琵琶湖へと注ぐ。澄みきった水が豊かに流れる水路や川を見れば、誰しもうらやましくなることまちがいない。
やはり高島市にある内湖、乙女ヶ池(おとめがいけ)にも立ち寄ってみた。この池も同時に重要文化的景観に選ばれたのである。この池を形成する砂州の上を国道一六一でいつも走っているのに、ここに池があるとはまったく知らなかった。戦国時代この池は大溝(おおみぞ)城の外堀として使われ、この外堀でもってこの城は琵琶湖とつながっていた。この細長い池の中央に、太鼓橋(たいこばし)という木の橋がかかっていた。この橋はなぜこんな所にこんな立派な橋があるのかと、誰しも不思議に思うような立派な橋である。
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