筑波山(つくばさん。八七七メートル)

   平成二六年十月二九日(水)快晴

茨城県の中央にそびえる筑波山は、百名山の中でいちばん背の低い山。千メートルにたりない百名山は、この山と鹿児島県にある開聞岳(かいもんだけ。九二四メートル)の二峰のみ。なおこの山は八溝(やみぞ)山地南端の山であるが、独立峰のように見える山なので標高よりも高く見える。

この山は男体山(なんたいさん。八七一メートル)と女体山(にょたいさん。八七七メートル)の二峰からなる双耳峰であり、こういう山名の場合、男体山の方が高いのがふつうであるが、この山は女体山の方が背が高く、また関東平野を見おろす岩上に山頂がある女体山の方が景色も雰囲気も優れている。その女体山から富士が見えたが、この日の富士は教えてもらわなければどこにあるか分からなかったほど霞の中にとけこんでいた。

筑波山は俗化した観光地である。登山口がある筑波山神社の周辺にはホテルが建ち並んでいるし、山上にも食堂、みやげ物屋、放送用のアンテナなどが建ち並んでいるし、山頂には両方とも神社が建っている。しかも男体山にはケーブルカー、女体山にはロープウェイが設置され、観光客が山頂まで押し寄せてくる。ところがそういう状況にありながらも、この山はおごそかさをまだ充分に残している。その理由はこの山が信仰の山だからであろう。古木や巨木の多いことも山に重厚感を与えているが、ふもとの方は植林が進んでいた。

この日の行程は、筑波山神社から入山、御幸ヶ原(みゆきがはら)、男体山山頂、女体山山頂、弁慶茶屋跡、筑波山神社へ下山、という一周コース。

登山口が山の中腹にある、ということで駐車場の心配をしたが、全部で三百台分あるというから混雑時でないかぎり問題はなく、いちばん便利なのは筑波山神社の駐車場であった。料金は一日五百円。

水場は一つしかなかったが、その水場は小倉百人一首の、「筑波嶺(つくばね)の、峰より落つる男女川(みなのがわ)、恋ぞつもりて、淵となりぬる」の歌に出てくる男女川の水源となる湧水であった。この歌の作者は陽成院(ようぜいいん。九〜十世紀)、筑波嶺は筑波山のこと。

湧水があるのは男体山と女体山のほぼ中間、両山をつなぐ鞍部から標高で二百メートルほど下の登山道横。湧出する水量はそれほど多くはないが、男体山と女体山の両方から流れてくる水が湧出すると思われる場所なので、男女川の水源にふさわしい水場だと思った。

女体山から弁慶茶屋跡へおりる道は奇岩の連続で楽しめた。この尾根道は遠足のコースになっているらしく、小学生の遠足の大群にぶつかりにぎやかであった。つまりこの山は低学年の小学生でも登れる山なのであるが、彼らはおそらくロープウェイで下山するのだろう。

     
桜町陣屋跡

今回の寄り道は、二宮尊徳翁に関係する桜町(さくらまち)陣屋跡と、牛久(うしく)大仏。

栃木県真岡(もおか)市にある桜町陣屋跡は、尊徳翁が人助けの仕事を本格的に開始した場所として知られ、国の史跡になっている。神奈川県小田原市で生まれ育った尊徳翁が、小田原藩主の大久保忠真(ただざね)公に、桜町領の復興を任されて赴任して来たのは、翁三六歳の一八二三年のこと、そのとき桜町領は疲弊の極というべき状況にあり、禄高四千石とされていたが実際は千石の出来高しかなかった。尊徳翁はそれから二六年間この陣屋に住み、独自の農村経営法と報徳の教えでもって村々を復興することに尽力したのであった。その復興のための方法は報徳仕法と呼ばれている。

桜町陣屋はこの地を治めるために作られた陣屋。土塁で囲まれた陣屋の中には役所、役人詰め所、文書倉、米倉などがあったが、いま残っているのは役所の建物のみ。陣屋の横には尊徳資料館(入場無料)と桜町二宮神社、道の向かいにある蓮城院という寺の墓地には二宮家の墓もある。

桜町二宮神社は尊徳翁をまつる神社。この神社は明治三八年に陣屋内に創建され、没後八〇年の昭和十一年に現在地に移転されたもので、尊徳翁をまつる二宮神社は五社現存し、日光や小田原にもある。ここで尊徳翁の教えをひとつご紹介したい。

「富と貧とは元来遠く隔たったものではない。ほんの少しの隔たりであって、その本源はただ一つの心得にあるのだ。貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年勤める。それゆえ終身苦しんでもそのかいがない。富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤めるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。

それを世間の人は、今日飲む酒がないときは借りて飲む。今日食う米がないときは又借りて食う。これが貧窮に陥る原因なのだ。今日たきぎを採って明朝飯をたき、今夜なわをなって明日垣根をゆえば、安心でありさしつかえもない。ところが貧者のしかたは、明日採るたきぎで今夕の飯をたこうとし、明晩なうなわで今日垣根をゆおうとするようなものだ。だから苦しんでも成功しない。

そこで私はいつも言っているのだが、貧乏人が草を刈ろうとして鎌がない場合、これを隣から借りてきて草を刈るのが常のことだが、それが貧窮から抜け出られぬ根本の原因なのだ。鎌がなければまず日傭(ひよう)取りをするがよい。その賃銭で鎌を買い求めて、それから草を刈るがよい。この心のある者は富貴を得るし、この心のない者は富貴が得られない」(二宮翁夜話)

尊徳翁が今の日本の財政状況を知ったら何と言うだろうか。

     
牛久大仏

茨城県牛久(うしく)市にある牛久大仏(正式名は牛久阿弥陀大佛)は、一九八六年に着工し、一九九二年に完成した青銅製の阿弥陀如来立像、作ったのは浄土真宗東本願寺派の本山、周囲は広大な墓園になっている。

この大仏さまは、像高百メートル、台座を含めた全高百二〇メートル、という近くから見ても遠くから眺めても迫力満点の大仏さま、奈良の大仏さまが手の平のうえに乗るという大きさである。この像高は完成したときは世界一であったが、二〇〇八年にミャンマーで像高一一六メートル、全高一二九メートルの釈迦牟尼仏立像が完成したことで世界一の座を奪われたという。ただし青銅製ではまだ世界一とか。東京からも見えるということで、東京から撮影した写真がネット上に流れていた。

ただし青銅製といっても奈良や鎌倉の大仏さまのような鋳造ではなく、まず鉄骨で骨組みを作り、その上に銅板を貼り付ける、という高層建築物を建てる方法で作られており、表面の銅板の厚さは六ミリしかないという。高さ八五メートルの胸の所までエレベータで昇ることができ、目立たないように開けられた小さな窓から周囲を眺めることもできる。

もどる