皇海山(すかいさん。二一四三.六メートル)
平成二五年七月三日(水)曇一時小雨
百名山中の難読山名の筆頭というべき皇海山は、群馬と栃木の県境につらなる山の一つ。この山の栃木県側には日本の公害の原点とされる足尾銅山がある。
皇海を「すかい」と読むことに関しては「日本百名山」に、「この山は昔はサク山とか笄(こうがい。棒状の髪飾り)山と呼ばれていたが、コウガイを皇海と書くようになり、皇はスメと読めることから皇海をすかいと読むようになった」、というあまり説得力があるとは思えない説が載っているが、ほかに適当な説も見当たらないようである。なおサク山のサクは笏(しゃく)のことであろう。つまり笄や笏に山の形が似ているのである。
この山には登山道が三本、その中で表登山道とされるのは、足尾銅山の奥にある銀山平(ぎんざんだいら)から入山、庚申山(こうしんざん)と鋸尾根(のこぎりおね)を縦走して皇海山という道。この日ひと組の若い男女がこの道を登ってきていたが、日帰りのできない道なので避難小屋の庚申山荘で一泊してきたと言っていた。女性の方はかなりへたばっていたので下山のときも一泊したかもしれない。
庚申山は日光を開いた勝道(しょうどう)上人が開山した山。この山は江戸時代には修験修行の山として栄え、山腹の岩場には「お山巡りの道」という里見八犬伝の舞台になった妖怪でも出てきそうな面白い道がある。そのため私も表登山道を登ることを考えたが、小屋泊まりが嫌だったのと、ノコギリの刃のように岩峰が立ちならぶ鋸尾根の縦走がきびしそうだったのであきらめた。
第二の道は足尾銅山の奥にある松木渓谷を遡上する道であるが、この道も日帰りは難しく、途中に避難小屋もないということで除外した。なお皇海山頂で調べた限りでは、この道は踏み跡も残っていない廃道になっているように見えた。
第三は群馬県側の栗原川(くりはらがわ)林道の皇海橋(すかいばし)から不動沢(ふどうざわ)を遡上する道。これが現在ほとんどの人が利用している、この日私が歩いた道。なお日本百名山の著者、深田久弥氏が歩いたのは表登山道であった。彼の時代には栗原川林道など存在しなかったのである。
栗原川林道は完全一車線の落石だらけの道、ヘビがカエルを呑みこんだようなすれちがいの場は作られているが、対向車が来たときには下手をすると数百メートルもバックすることになる。この極めつけの悪路として知られる林道を、一時間走らなければ登山口にたどり着けないのである。
とはいえ基本的には登山者の車は、午前中は登山口へ、午後は林道出口へと向かうから、その動きに従っている限り対向車にぶつかることは少なく、私も鉢合わせはしなかった。つまりこの逆の動きをすると鉢合わせの可能性が高くなり、また道路工事の車の動きはこの限りではない。この林道は台風のため一年以上も通行不能になり、昨年秋に開通したが工事はまだ続いていた。
この林道を自分の車で走らないで済む方法もあった。道連れになった人の話では、彼らが泊まったペンションは、登山口まで送迎してくれるというのである。とはいえ普通乗用車でも問題なく登山口まで入っていたので、それほどこの林道をこわがる必要はない。
この林道を走ったとき気になることがあった。それは走行注意とか落石危険などの看板はやたらと立っていたが、事故が起きたときどうするか、どこへどうやって連絡するか、といった注意書きは一つも見当たらないことである。看板に書いてある通り事故は自己責任としても、必要な情報をもっと提供するべきだと思う。「走行注意」の看板など景観を損ねる以外の役にはたたないものである。
出発
この日の行程は、皇海橋から入山、不動沢を遡上、不動沢のコル、山頂、不動沢のコル、鋸山、不動沢のコル、不動沢を下山、皇海橋、であった。
駐車場は皇海橋の手前と向こうの二ヵ所あって、両方で三〇台分ぐらいの広さがある。橋の手前にトイレと登山届、向こうに登山口があり、登山口からもう少し林道を進んでふり返ると皇海山が見え、その先で林道は通行止めになっていた。皇海橋では電話は通じなかったが、尾根の上や山頂では通じた。
皇海山は登山者しか入らない山奥の山なので、手つかずの豊かな原生林が残っていて、道も魅力的であった。庚申山の奥の院とされる修験の山だからか、山頂の手前に高さ二メートルほどの青銅の剣が立っていた。刀身に庚申二柱大神と彫られていたが、二柱の意味は不明、日付もなかった。樹木に囲まれて展望のない山頂には渡良瀬川水源の碑があるのみ、祠などはなかった。
不動沢のコルから皇海山の反対方向へ行くと鋸山がある。この鋸尾根の主峰になっている山は、道が険しいだけに景色がよく、皇海山展望所としても最高の場所、また皇海山だけでは物足らない人にもお勧めである。この日の道に皇海山を眺められる場所は、ここを除くとほとんどないのである。
梅雨の晴れ間をねらいだったので、この日は雨具をつけるほどではないが何回か雨に降られ、鋸山に立っても半分雲にかくれた皇海山と庚申山と鋸尾根しか見えなかったが、深田久弥氏が皇海山を百名山の一峰に選んだのは、長く険しい鋸尾根の先にそびえる皇海山の立ち姿に魅了されたからではないかと、それらの山々を眺めながら思った。
寄り道
今回の寄り道は新潟県の弥彦山(やひこやま)。この山は良寛さんが住んでいた国上山(くがみやま)の隣にある山。「日本百名山」の後記にある、「越後の弥彦山や、京都の比叡山、豊後(ぶんご)の英彦山(ひこさん)など、昔から聞こえた名山に違いないが、あまりに背が低すぎる」という一節のために、弥彦山は気になっていた山である。また、弥彦山、英彦山、雪彦山(せっぴこさん)、の三彦山(さんひこさん)のうち、この山だけまだ登っていなかった。
弥彦山は越後平野にポツンとそびえる山なので、六三四メートルという東京スカイツリーの高さにしては景色がよく日本海もよく見える。スカイラインを利用して九合目まで車で上れる山なので、山上の駐車場からの出発であったが、双耳峰になっている弥彦山と多宝山(たほうさん?)の両方を歩くとけっこう時間がかかった。この山は山頂よりも登る途中の道がおもしろい山ではないかと思った。
弥彦神社の奥宮がある弥彦山にはたくさんのアンテナ、多宝山には無人の気象レーダーが立っていた。そのレーダーの定期点検に来ていた人が、冬はスカイラインが通行止めなのでケーブルカーで登ってくるが、雪の多いときには山上駅からここまでのわずかの距離を二時間かけて歩くと言っていた。
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