丹沢山(たんざわやま。一五六七.一メートル)
平成二四年十二月五日(水)快晴のち薄曇
神奈川県の屋根と称される丹沢山地は、県の西部に放射状に大きく尾根を広げる山塊。その尾根の中心にそびえるのが丹沢山であるが、丹沢山という山名は丹沢山地の意味で使われることの方が多い。ちなみにこの山地の最高峰は蛭ヶ岳(ひるがたけ。一六七三メートル)、二位は檜洞丸(ひのきぼらまる。一六〇一メートル)、そして三位が丹沢山(一五六七.一メートル)である。
丹沢山は百名山の一峰、ということで丹沢山に百名山の碑が立っていた。ところが深田久弥氏は、「私が百名山の一つに丹沢山を取りあげたのは、個々の峰ではなく、全体としての立派さからである」と書いているし、そこに記された標高は蛭ヶ岳のものなので、百名山の一峰をこの山地から選ぶとすれば蛭ヶ岳ということになる。そのため丹沢山に立つ百名山の碑を見たとき、これは丹沢山を無理やり百名山の一峰にしてしまおうと計画した人が立てた石碑だと感じたが、この計画には賛同者が多いだろうとも思った。
その理由は、蛭ヶ岳には健脚者でないと日帰りできないという難点があり、また丹沢山という山名や、山地の中心に位置することを考慮すると、丹沢山を丹沢山地の代表にしてもいいではないかと思うからである。ということで蛭ヶ岳をあきらめた私も、丹沢山でもって百名山の一峰踏破とすることにした。
この日の行程は、戸川(とがわ)林道の奥に車を置き、天神(てんじん)尾根、大倉(おおくら)尾根、塔ノ岳(とうのだけ)、丹沢山、の往復であった。下山は政次郎(まさじろう)尾根を下る予定を立てたが、日の短い時期なので同じ道をもどることに途中変更した。
戸川林道は整備はあまりされていないが走行に問題はなく、終点にある河原が駐車場になっている。駐車場入口に「関係者以外立ち入り禁止」の看板、その先に「利用者は三百円入れてください」の集金箱があったので、どちらが本当かと迷ったが、すでに五台駐まっていたので立ち入り禁止の方は無視することにした。
天神尾根の急登ではまったく人に会わなかった。そのため今日は丹沢の貸し切りだと喜んだが、主尾根の大倉尾根に出ると途切れずに続く登山者の姿があった。それを見て、この尾根がこの山の表登山道なのだと遅ればせながら気がついた。道づれになった人に「人が多くて驚いた」と言ったら、「土日に来てみなさい。とてもこんなもんじゃないから」と言われた。この山を歩く人はみな足が早い。軽装で足早に歩いている人は足の鍛錬のために来た人のように見え、それにつられて他の人も早足になっているように感じた。
塔ノ岳の山頂に尊仏(そんぶつ)山荘をいう営業小屋がある。この小屋の名は山頂付近にあった黒尊仏(くろそんぶつ?)という高さ五丈六尺の巨岩に由来するというが、その岩は関東大震災のとき崩壊してしまったという。眼下に広がる相模湾が大震災の震源地だったのである。その小屋の下で大きな雄鹿が二頭、草を食べていた。この山地も鹿の食害がひどく、いたる所に鹿除けの柵が設置されていた。
塔ノ岳を過ぎると急に人が少なくなり、主脈の縦走路を静けさを味わいながら歩く。丹沢の魅力の一つは富士の眺め。富士山の隣にある山なので、この山は全体が富士見台になっていて、この日の道づれは午前中は青空を背景にした白雪の富士、午後は霞をまとった傘富士であった。遠くに見える南アルプスの山々もすでに雪景色になっていたが、丹沢に雪はまだ来ていなかった。
富士の反対側には関東平野が広がり、江ノ島、三浦半島、房総半島、筑波山などが確認できた。だから東京から富士を見たとき、その右手にあるのが丹沢山地である。
尊徳記念館
今回は山麓の小田原市にある尊徳(そんとく)記念館に寄り道した。この記念館は二宮尊徳翁の生地に建っていて、敷地内には生家も保存されている。尊徳翁の家はもとは裕福な農家であったが、父の代に没落し家も田畑もすべて失った。ところが尊徳翁はわずか二三歳で家を再興し、その方法を用いて破産した村や藩を復興することにその後の生涯を捧げた。彼は金もうけと蓄財の名人であり、その能力を自分のために使っていたら日本有数の大金持ちになっていたはずだが、その能力をすべて人のために使ったのであった。
この記念館で買ってきた翁の教えを書いた本を読んでいたとき、松下幸之助氏の無税国家という言葉を思い出した。日本のように国土が狭く、国民のほとんどが単一民族といっていいような国は、政治に金がかからないはずなので、税収の十分の一ぐらいは残そうと思えば残せる。その金を積み立てていけば利息だけで国を運営できるようになる、というのが無税国家の内容、この発想の元は尊徳翁の教えではないかと気がついたのである。
「収入をすべて使っていては、いつまでたっても貧乏人は貧乏から抜け出せない。乏しい中から十分の一を残し、お金が貯まったら田や畑を買え。それを続けていけば遠からず金持ちになれる。いつまでも貧乏でいるのは本人に責任がある」。これが尊徳翁が二三歳で家を復興した方法であり、この逆のことをしているのが今の日本の国である。
お金を借りれば利息をとられる。定期預金の利息が〇.〇四パーセントという時代に、カードで借金すれば十八パーセントの利息をとられる。その差は実に四百五十倍、借金をするのはお金を捨てるに等しいことなのである。
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