那須岳(なすだけ。一九一六.九メートル)

   平成二四年十月二六日(金)。晴のち曇のち晴

那須岳は栃木県北部から福島県南部にかけて列なる那須連山を指す山名。つまりこの連山に那須岳という峰は存在せず、ほとんどの人は茶臼岳(ちゃうすだけ)登頂をもって那須岳登頂としている。茶臼岳は途中までロープウェイで登れる、この連山でいちばん登山者の多い峰。

那須岳は百名山の一峰であり、深田久弥氏は那須岳の名で那須連山全体を紹介しているが、登った峰の名は記されていない。なお茶臼岳(一九一五メートル)、三本槍岳(さんぼんやりだけ。一九一六.九メートル)、朝日岳(あさひだけ。一八九六メートル)の三山を那須三山と呼び、これに南月山(みなみがっさん)と黒尾谷岳(くろおやだけ)を加えると那須五山になる。

那須三山は隣接した峰でありながら、その山容は大きく異なる。茶臼岳はお茶を挽く石臼のようなずんぐり型の活火山、朝日岳はするどい岩峰が天に向かってそびえる山、三本槍岳は草木の茂るなだらかな斜面の山、であった。三本槍岳は三本の槍のような岩峰がそびえる山だろうと期待したが大ちがいであった。

江戸時代、三本槍岳の山頂は、会津藩、白河藩、黒羽(くろばね)藩、の境界になっていた。そのため三藩の役人が年に一度、山頂で境界を確認して槍を立てたということで三本槍の名がついたという。現在も栃木と福島の県境がこの山頂を通っている。三本槍岳は茶臼岳より一.九メートル高く、そのわずかの差で連山の最高峰になっている。そのため最高点を目ざす人はここまで足をのばすが、そういう人は多くはなかった。数日前に初雪が降ったということで三本槍のあたりはひどくぬかるんでいた。

那須岳というと学校で習った那須火山帯という言葉を思い出すが、火山の研究が進んだ結果、火山を帯状に並べても意味がないということになり、今は火山帯という言葉は使わないという。

この日の行程は、峠の茶屋県営駐車場から入山、峰の茶屋跡避難小屋、朝日岳、三本槍岳、再び峰の茶屋跡避難小屋、茶臼岳、山頂のお鉢めぐり、八合目の鉢巻き道めぐり、峠の茶屋駐車場に下山、という道順であった。

峠の茶屋駐車場は山の中腹にある広い無料駐車場、登山者にとってはここが最後のトイレになる。早朝から車がたくさん駐車場に上がって来たのを見て、こんなに登山者が多いのかと驚いたが、ほとんどは朝日を見にきた温泉客であった。霞む地平線から昇るこの日のどんよりとした朝日はそれなりによかった。

この駐車場から茶臼岳山頂までは一時間半の距離、しかもそれがきわめてなだらかな道なので、茶臼岳だけなら拍子抜けするほど楽な山行である。そのうえロープウェイを利用すればさらに楽ができる、首都圏に近い、温泉に恵まれた百名山、ということで、平日にもかかわらず登山者は多かった。

早朝は風が強く、とくに峰の茶屋跡避難小屋のあたりは風当たりが強くてこごえた。ここは風に吹き飛ばされて亡くなった人があるという峠なので、「強風で有名な峠」と地図に注意書きがあった。

茶臼岳の鉢巻き道に無限地獄という場所がある。茶臼岳は山頂の噴火口はひっそりと静まりかえっているが、山腹からさかんに火山性ガスを噴出していて、山全体に硫黄の臭いが漂っている。無限地獄はその中で最大の噴出場所、噴出音が遠くまで鳴りひびいていた。なお無限地獄は無間地獄のまちがいではないかと思う。

     
寄り道

今回の寄り道は、那須の御用邸、白河(しらかわ)の関、殺生石(せっしょうせき)、の三ヵ所。那須岳というからには、山麓のどこかに那須の御用邸があるはずだと探したら、住宅が建ちならぶ狭い道の奥にひっそりと隠れるように入口があった。御用邸の表示はなく、そのため入口の前まで行っても分からず、近くのコンビニできいてやっと確認できた。「天皇陛下はいま来ていませんけど、専属の警察官が常駐していて、誰もいないように見えても、立ち入り禁止の看板から中に入るとすぐにおまわりさんが出てきます」、ということなので、写真を撮ったときこちらも写真を撮られたかもしれない。中はまったく見えない状態なので、「陛下。お元気ですか」と声をかけたりはできない。

「奥の細道」に出てくる白河の関も那須岳の近くにある。芭蕉は「春立てる霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず」という状態で旅に出て、「心もとなき日かず重なるままに、白川の関にかかりて、旅ごころ定まりぬ」と、この関を越えて陸奥(みちのく)に入ったことで、やっと心が落ちついたのであった。芭蕉は白河を白川と書いている。

白河の関は都と陸奥をむすぶ東山道(とうさんどう)に、八世紀の初めごろに作られた関所、平安中期に廃止されて場所が分からなくなっていたのを、一八〇〇年に白河藩主の松平定信が場所を特定したという。発掘調査をしたら空堀や土塀の跡が出てきたというから、関というのは砦のような軍事施設のことなのである。今はそこに白河神社が建っている。

芭蕉がここを訪れたのはまだ場所が特定されない一六八九年のことで、当時は関の跡とされる場所がもう一ヵ所あった。そのため芭蕉は両方とも訪ねているが、白河の関として書き残したのは、西へ五キロほどのところにある「境の明神」という神社の方であった。

殺生石は生き物を殺す石のこと。芭蕉がわざわざ寄り道して見に行った殺生石は、那須山麓の湯本温泉にある。「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にある。石の毒気いまだほろびず、蜂、蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど、かさなり死す」と書き残している。

殺生石があるのは大小の岩が重なり転がる賽の河原と呼ばれる場所。そこに転がる岩の中で、いちばん大きな岩が殺生石とされているらしく、しめ縄がかかっていた。火山性ガスが噴出する場所なのでその岩の周囲は立ち入り禁止になっている。虫が死ぬのはもちろん火山性ガスが原因であるが、芭蕉のころに比べるとガスの噴出量が減っているということで、死んだ虫は見つからなかった。また湯本温泉の泉源ということで温泉神社があり、賽の河原ということで千体地蔵もある。

解説板によると平安初期の鳥羽帝の時代に、インドや中国を荒らし回った白面金毛九尾(はくめん・きんもう・きゅうび)の狐が日本に渡来し、玉藻の前(たまものまえ)という美女に変身して帝(みかど)の寵愛を受けるようになり、やがて帝は原因不明の重い病気にかかった。

そこで陰陽師(おんみょうじ)の安倍泰成(あべのやすなり)が呼ばれ、泰成に病気の原因と正体を見破られた玉藻の前は都を逃げだし、やがて那須の野に姿をあらわした。そこで帝は泰成を軍師とする大軍を派遣し、討伐軍は狐の妖術のために苦戦を続けながらも、ようやく那須岳のふもとで狐を討ちとった。

ところが狐は死ぬと毒気を吐く巨大な石に変わり、近づくものの命を奪うようになった。そのため南北朝の時代に、会津から玄翁(げんのう)和尚という高僧がやって来て、石に引導を渡し、杖で一打した。すると石は三つに割れ、一つは会津、一つは備後(びんご)に飛び去り、あとの一つがここにある殺生石だという。それ以後、石を割る金槌を玄翁と呼ぶという落ちも付いている。

この九尾の狐は、インド、中国、日本、を代表する悪女の正体とされるから、きわめて魅力的な女狐であったらしい。インド耶竭陀(まがだ)国の班足(はんぞく)太子の妃の華陽夫人、中国殷王朝最後の紂(ちゅう)王の妃の妲己(だっき)、周王朝の幽王の妃の褒じ(ほうじ)、などの正体はこの三国伝来の狐であったというのである。

もどる