比婆山(ひばやま。一二六七メートル)

  平成二四年四月十九日(水)。晴のち曇。午後一時雨

広島県庄原(しょうばら)市の北部にある比婆山は、怪獣ヒバゴンが出現したことと、山頂にイザナミノミコト(伊邪那美命)のお墓があることで少しだけ知られている山。イザナミノミコトは日本の国を生んだという女神、また天照大神(あまてらすおおみかみ)の母なる神でもある。

古事記に「出雲(いずも。島根県東部)の国と、伯耆(ほうき。鳥取県西部)の国の境にある比婆の山にイザナミノミコトを葬った」とあり、その比婆の山がこの山とされるのであるが、葬ったのは安来(やすぎ)市にある別の比婆山とする説もある。今回の比婆山は広島県にあるから、安来市のほうがこの記述と一致するのは確かである。

なお比婆山連峰に比婆山という峰は存在せず、イザナミノミコトの墓のある峰は御陵(ごりょう。一二六七メートル)と呼ばれている。だから比婆山という山名は広義には比婆山連峰、狭義には御陵を指すことになるが、連峰の最高峰は立烏帽子山(たちえぼしやま。一二九九メートル)である。

御陵の頂上平原には、国の天然記念物に指定された日本最南のブナの純林が広がっていて、その中央にある柵で囲まれた小高い場所がイザナミノミコトの陵墓、その中央にある天然の岩が墓石とされている。ブナの純林の中に杉とイチイの老木が群生する場所なので、この陵墓は遠くからでも判別できる。

その周辺には、命(みこと)神社奥宮、護符(ごふ)の水、太鼓岩、産子(うぶこ)の岩戸、などがあり、ブナ林に点在するイチイの老木は庄原市の天然記念物になっている。北海道でオンコと呼ばれるイチイは、北海道名物の木彫りの熊の素材であったが、群生地のある焼尻島(やぎしりとう)での伐採が禁止されてから手に入らなくなった。

怪獣ヒバゴンは一九七〇年から七四年にかけて、比婆山で数十回目撃されたという類人猿型の未確認生物、ヒバゴンの名は比婆山からきている。大きさと色からするとツキノワグマの見まちがえ、という説のあるヒバゴンが目撃されたのは、ツチノコというビール瓶型の未確認ヘビが話題になったのと同じころであるが、今ではともに忘れ去られつつある。

比婆という山名は火場(ひば)に由来するという説がある。火場というのは古代の製鉄所である「たたら製鉄場」のこと、そして「たたら」というのは鞴(ふいご。火力を高めるための送風機)のことである。鞴を意味するたたらが、やがて製鉄の炉を指す言葉となり、さらに製鉄場全体を指す言葉になったというのである。

たたら製鉄法は五世紀前後に日本に伝えられ、良質の砂鉄が採れる広島県と島根県の山中で盛んに鉄が作られるようになり、できた玉鋼(たまはがね)は不純物が少なく、炭素の含有量が日本刀に最適の一パーセント程度ということで、日本刀の素材にされてきた。たたら製鉄は大戦後は中断していたが、日本刀の原料を確保する必要から復活し、比婆山の北の横田町で今もおこなわれている。

比婆山麓にある「一の原」と「六の原」は、たたら製鉄がおこわれていた場所。六の原にはたたらの守護神、金屋子神(かなやごがみ)を祀る小さな神社が残り、水の流れで砂鉄を選る鉄穴流し(かんなながし)も復元されている。だから映画「もののけ姫」の舞台になったのはこの辺りと考えていいのだろう。

前泊したのは「おろちループ」という変な名前の道の駅。この駅は夜通しフクロウが鳴く、一軒の人家もない山奥にあり、他には一台の車も駐まっておらず、駅の近くにはコンビニがあるはずという当てもはずれ、食料の買い出しに四〇分もかかった。暗くなってから買い出しのため、潰れた家や明かりのつかない家が目につく過疎の山里を走っていると、一人旅の寂しさを感じた。

     
出発

この日の行程は、牛曳山(うしびきやま)登山口から入山、牛曳山、伊良谷山(いらだにやま)、毛無山(けなしやま)、ききょうヶ丘、出雲峠(いずもとうげ)、出雲烏帽子山(いずもえぼしやま)、御陵、越原越(おっぱらごえ)、県民の森公園センター、牛曳山登山口、という一周コース。

今回の道は六の原にある「県民の森公園センター」の周囲を半周する道なので、途中に何本かセンターへ下りる近道があった。つまり疲れたらすぐに下山できる、ほとんどの場所で電話が通じる、雪解け水の水場にも恵まれている、という便利な縦走路であった。車は登山口の道路脇に駐車できる。そのあたりにフキノトウがたくさん出ていた。

牛曳山の中腹はもろい岩盤の急斜面になっていて、「猿が移動するときの落石に注意」という珍しい警告板があった。山頂まで続くブナとミズナラの混じる林の中を、冬枯れの山の静けさを味わいながら歩く。牛曳山には山頂の標識がなかった。毛無山の道ぞいに低い石垣が続いており、これは謎の石垣だと思ったが、家畜を放牧していたときの柵代わりの石垣であった。花には縁のない季節であるが、出雲峠で写真を撮っていた人が、「もうすぐこのあたり一面にカタクリが咲きます。秋は一面のマツムシソウです」と言っていた。

雪の心配をしていたが、日当たりのよい前半部分に雪はほとんどなかった。ところが日当たりの悪い後半部分には大量の残雪があり、烏帽子山の登りでは雪に付いたまちがい足跡をたどって道をまちがえ、山頂で会った夫婦がそれは私たちがつけた足跡だと白状し大笑いになった。御陵山上も雪におおわれていた。広島県で雪のブナ林を歩くとは思わなかった。

今回いちばん苦労したのは越原越からの下山。尾根の縦走路をはずれると急に雪が深くなり、これはまずいと思いながら堅い雪にわずかに残る足跡とテープをたどっていくと、川の手前でついに道が分からなくなった。戻るにしても下りてきた道を戻る自信がなく、今日はここで露営かと少しだけ覚悟をし、いささかあわてた。

おにぎりを食べながら地図と案内書を読みかえし、磁石に方角を設定し、それから最後のテープの所に荷物を置いて道を探しまわり、見つけるのに四〇分ほどかかった。川を渡るためにそこで道が上流方向に急角度で曲がっていたのが迷った原因であった。車にもどり靴を履き替えているとき、大粒の雨が激しく降ってきたので、こんな日に露営などしていたら大変であった。

下山後、大雨のなか車で里宮の熊野神社へ向かい、傘をさして下りようとしたら、爆弾が炸裂するようにすぐ近くに落雷したので、これはヒバゴンのたたりかとしばらく車の中でじっとしていた。この神社の中に比婆山の表登山口がある。

     
今回の寄り道

この旅行の第一目的は戦艦大和であった。広島県呉(くれ)市の造船所に、大和建造のときに使ったドックの建物が残っていて、その近くに六年前、大和ミュージアムが作られたのである。ただしドックそのものは埋められて残っていないという。山と海に挟まれたこんな狭い町で巨大戦艦が作られたというのは意外であった。

この博物館の目玉は二億数千万円かけて作ったという大和の十分の一の模型。ほかにも実物のゼロ戦の機体、回天や海龍などの人間魚雷、なども展示されていた。平日なのに多くの来館者があり、とくに団体の学生さんが多かった。ここと広島の原爆資料館は修学旅行のコースに入っているらしい。

ここで一番ありがたかったのは、疑問があればすぐに答えてくれる奉仕活動の説明係がたくさんいること。飛行可能なゼロ戦がアメリカに四機残っているとか、大和が本当に活躍したのは終戦後であった、大和や武蔵を作った経験が造船日本の繁栄の基になった、などの話は興味深かった。となりに海上自衛隊の展示館もあり、そこでは廃艦になった潜水艦の中も見学できる。

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