両子山(ふたごさん。七二〇.五メートル)
平成二三年十一月三〇日(水)曇
両子山は大分県の国東(くにさき)半島の中央にそびえる半島でいちばん高い山。百数十万年前の噴火でできた溶岩ドームの上に山頂がある双耳峰。この山も、そのなだらかな裾野も、丸い形の国東半島も、両子火山群から流れ出た溶岩によって作られたもの、そして両子山から放射状に広がる尾根と谷はのちの浸食でできたものである。
国東半島には六郷満山(ろくごうまんざん)と呼ばれる寺院群がある。昔は国東半島に六つの郷と六五の寺があり、初めそれらは宇佐(うさ)八幡宮に属していたが、のちにはすべてが天台宗の寺になった。その寺院群が六郷満山、そしてその中心が両子山の中腹に建つ両子寺(ふたごじ)である。
両子山という山名の由来ははっきりしないが、おそらく双耳峰に由来する山名か、両子寺の奥の院にまつられている両子大権現(ふたごだいごんげん)という双子の神さまに由来する山名であろう。普通に考えれば、双耳峰ということで両子山の名が付き、その山名からこの山の神さまに両子大権現の名が付けられ、その~名から双子の神とされ、寺も両子寺と呼ばれるようになった、ということだと思う。
この日の行程は、両子寺から入山、奥の院、お山めぐりの道、アンテナ保守のための林道、山頂、郡境尾根縦走、走水(はしりみず)観音、両子寺、という一周コース。郡境尾根の読みは「ぐんざかい」でいいと思う。おそらくこの尾根は郡の境界になっていたのであろう。今も何かの境界になっているらしく、一定間隔でクイが打ってあり、これはいい道しるべになった。
この山の登山口は両子寺の境内にある。そのため拝観料の二百円が登山の必要経費となり、拝観が始まる八時以降でないと入山できない。もちろん逆の走水観音からならいつでも入山できるが、逆だと道が分かりにくい。走水観音は両子寺から歩いて十五分ほど、車も入れる。
出発
両子寺の境内はきれいに整備されているが、ここの和尚は山登りなどしないらしく、登山道に整備の手は及んでいない。入山したとき境内に人はいなかったのに、下山したときは観光客があふれていたので、紅葉の季節に駐車場のいちばんいい場所を長時間占領したのはまずかった。
拝観受付の建物の前から山を見上げたとき、アンテナが見えているところに山頂がある。道は二本あって、一つはアンテナ保守のための林道、もう一つは「お山めぐりの道」と呼ばれる登山道、私はもちろん後者を選んだ。お山めぐりの道の入口は奥の院の手前にあるが、広い遊歩道から急に崖をよじ登る道になるので見落としやすい。
お山めぐりの道をしばらく進んだところに七不思議の一つ「針の耳」がある。これは岩場にできた小さなトンネル、針の耳より針の穴と呼ぶべきではないかと思ったが、調べてみたら針の耳とは針穴のことであった。なおここにある七不思議というのは、火山活動が作った岩の七変化のことである。ところが七不思議めぐりをしていたら、「鬼の背割り」の先でアンテナ保守の林道に出てしまい、いくら探しても登山道が見つからず、結局コンクリートで固めた林道を登ることになった。
しかもその林道がとても車道とは思えない急勾配の道なのでしっかりと汗をかかされ、杉と桧の植林帯で面白味もなく、福井から十時間かけて登りに来る山ではないと思った。山頂に鬼の背割りへ下る道の道標があったのでその先を探してみたが、やはり踏み跡すら見つからなかったので、鬼の背割りと山頂の間の登山道が廃道になっているのはまちがいない。
山頂には一等三角点と大きなアンテナ数本と展望台がある。展望台からは三六〇度の景色を楽しめるが、ここの方位盤はかなりずれている。展望台の横でマユミが真っ赤な実を付けていた。
二百メートルほど林道を戻ったところに、この日の目玉というべき「郡境尾根」へ入る道を示す道標がある。ところがこの縦走は初めから道をまちがえた。その一本目の道標のすぐ上の小さな峰に二本目の道標があって、そこが縦走の出発点になっていたのであるが、その峰を右側へ巻く踏み跡をたどってしまったため、別の尾根に入ってしまったのである。
そのまちがい尾根を下りていくと、やがてテープも踏み跡も無くなり方角も違っていたので、最後のテープまで引き返して道を探したが道は見つからず、密生する樹木のため地形も読めずで困った。下りで迷うとこわい。上りならいつか山頂へ出るはずだが、下りはどこへ出るか分からない。しかも登り返すのが嫌でそのまま下りたくなる。ところが初めからヤブ漕ぎ目的で来たのでない限り、低山であっても道なしで山など歩けるものではない。
結局、汗びっしょりになって一時間ほど歩き回ったあげく、最初からやり直しをしてやっと縦走路に入ることができた。郡境尾根を歩きに来たのだから林道を戻るわけにはいかないのである。まちがえて付けたテープは付けた人が責任を持ってはずしてほしい。
はなから苦労させられたので、以後は磁石に方角を設定しながら歩いた。次の峰が見えていたらそこに狙いをつけ、見えなければ地図を使って狙いをつけた。道標はほとんどなく、テープと、境界を示すクイと、わずかばかりの踏み跡が道案内である。縦走が終わると走水(はしりみず)林道に出る。その林道を右へ行くと一キロほど先に走水観音への道を示す道標がある。それに従って左へ荒れた山道を下りていくと走水観音に着く。そこから両子寺までは舗装された車道を歩く。
この山のような入山者の少ない低山を歩くときに困るのは地図が手に入らないこと。登山地図は売っていないし、九州の山の案内書にこの山は載っていないし、国土地理院の地形図には登山道が記されていない。しかも今回はネットを使って地形図を取りこんだので印刷が不鮮明で分かりにくかった。ということで迷う予感はあった。低い山ほど気をつけなければいけないのである。
三浦梅園旧宅
この旅行はかなりの冒険であった。登山がではなく、物流の大動脈の高速道路を九州まで走っていくことがである。この大動脈を夜間や早朝に走っているのは大型トラックばかり、深夜の休憩所でそうしたトラックに混じって仮眠をとっていると、自分もトラック運転手になったような気がした。
前泊した国東半島の道の駅で、隣で車中泊している人が釣り竿のようなものを立てていた。何をしているのかきいてみたら、その釣り竿はアマチュア無線のアンテナであった。車の主は千葉から来たという七五歳の男性。「車中泊で走りまわりながら無線でお喋りを楽しんでいる。長時間の運転がつらい歳になってきたので、できるだけフェリーで移動するようにしている。今回は十日ほど前に家を出て、まず四国へ船で渡り、それから国東半島へまた船で来た。交信記録の残っていない場所で最初の交信をするのが一番の楽しみ。ノイズの発生源である女房は積んでこない」
私の今回の目的は、両子山と、み仏の里と呼ばれる国東半島と、三浦梅園(みうらばいえん)の旧宅と資料館であったが、どちらかというと両子山は付け足しであった。
三浦梅園は小欲と知足を守る生き方と、穏やかで誠実な人柄から豊後(ぶんご)聖人と呼ばれた人。江戸時代の中期に両子山麓の医者の家に生まれ、医者を一生の仕事とした人。また家塾を開いて常に二〇名ほどの寄宿生を養う教育者でもあった。
両子山はその梅園先生が愛した山。「朝に両子川の水を飲み、夕べに両子山の雲に臥す。それでこと足れり」。「人生恨むなかれ、人知ることなきを。幽谷深山、華自ずから紅なり」。彼は両子山のふもとで仙人のようにひっそりと生き、伊勢参りを一度、長崎へ二度旅行をした以外は遠出をしたことがなく、杵築(きつき)藩から招かれても出仕しなかった。
梅園先生の特色は、天地万物の不思議に対してノイローゼになるほどの強い疑問を抱き、「世界とは何か。時間とは何か。何がこの世界を生み出しているのか。宇宙の根本原理は何か」といったことを生涯をかけて追求したことである。宇宙の根本原理を真剣に追求すればノイローゼになるのも無理はない。彼の前世はインドの哲人であったのかもしれない。
そうした追求の結果、彼は「気」を究極の存在とし、気からすべてが生まれてくるとした。「天地万物はみな一つの根本から現れ、その現れ方には決まった条理がある。その条理によってものを見れば何一つ分からないことはなく、条理によってものごとを行えば何一つできないことはない。世の人々は、自分勝手な心でものを見るから本当の姿が見えず、自分勝手な心でものごとを行うから無理が起こる。だから心の執する所を捨て、天地を師としなければならない」
彼の説は仏教の「一即一切、一切即一。天地と我れと同根、万物と我れと一体」の教えに通じる面が多い。また強い向学心から、医学、天文学、生物学、政治学、経済学、倫理学など多くのことを研究したが、青年期に中津藩と杵築藩の学者に短期間入門したほかは、すべて独学であった。天地万物を師と仰ぎ、独学で自然観察と思索を深めたことで、彼は独自の哲学を作り上げたのであった。
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