日光白根山(にっこうしらねさん。二五七七.六メートル)

 平成二三年十月十三日(木)薄曇

群馬と栃木の県境にそびえる日光白根山は、日光火山群中の最高峰にして、関東以北の山の最高峰、そして百名山の一峰でもある。直径一キロ、高さ三百メートル、という溶岩ドームの上に山頂のある活火山であるが、この山の火山活動は明治二二年の噴火を最後に休眠状態にある。

白根山は地図で地形を読み取りにくい山の一つ。山の中には一度歩いてみないと地図が読めないという山が存在するのである。この山の全体像を把握するには、五色沼(ごしきぬま)を火口湖とみて山の中心に置き、それをとりまく白根山山頂、座禅山、前白根、五色山を外輪山とすると理解しやすく、また以前はそう考えられていたし、日本百名山にもそう書いてあるが、最近では五色沼は火口湖ではなく窪地に水がたまっただけの沼とする説が有力。

白根山の名は「白い雪の峰」の白峰(しらみね)から来たとされ、日光白根山と呼ぶのは草津白根山などと区別するため、奥白根山と呼ぶのは前白根山(二三七三メートル)との関係からであるが、これは日光側からみた位置関係である。奥日光一帯は修験道の行場になっていたので、この山にも修験道関係のものが残っている。

この山の代表的な登山口は、栃木県側が湯本温泉、群馬県側が丸山高原スキー場。深田久弥氏は湯本温泉から入山して群馬県側に下山しているが、その当時は丸山高原スキー場はなかったと思う。そのスキー場のロープウェイを利用するのがこの山に登るいちばん楽な道、その次が私が歩いた菅沼(すげぬま)登山口からの道、この登山口には二〇台分ほどの無料駐車場があり、標高一七四〇メートルにある菅沼と丸沼は白根山の溶岩流が作ったせき止め湖である。

この山には水場がないとあり、火山だからなくて当然と思っていたら、五色沼のほとりに水場の標識が立っていた。見には行かなかったが、帰ってからネットで調べてみたら、その水場の写真も出ていたので、小さな流れがあるのは確かである。また五色沼の水も舐めた感じでは飲めなくはない。

白根山を象徴する花、それがシラネアオイである。白根山に群生するタチアオイに似た花、ということでこの名が付いたとされるが、その群生地は鹿に食い荒らされて壊滅状態になっていた。鳴き声を何度も聞いたし、フンもたくさん落ちていたので、かなりの鹿がこの辺りに生息しているのはまちがいなく、そのため群生地の周囲には電柵が設置されていたが、山上はすでに紅葉の季節、柵の中にも花は咲いていなかった。

登山前日は道の駅、白沢(しらさわ)で車中泊。寝る前に見て回ったら車中泊の車がほかにもたくさん駐まっていた。この駅は車中泊の車を積極的に受け容れている。お金がかからず、予約の手間がいらず、駅の近くにはたいていコンビニがあって買い物にも困らず、といったことが車中泊が増えた理由であろう。テントや山小屋に比べれば車の中は極楽であるから、登山者には車中泊をする人が多い。

帰りに関越道を走っているとき、「事故のため通行止め。ここで下りよ」の表示が出て、急に土地勘のない所で下ろされてしまい、料金所を出たところで地図を広げることになった。こういうこともあるから道路地図は全行程分、持参した方がよい。

     
出発

この日の行程は、菅沼登山口から入山、弥陀ヶ池、山頂、五色沼避難小屋、五色沼、五色山、金精山(こんせいざん。二二四四メートル)、金精峠、菅沼登山口、という大回り一周コース。

歩きはじめは拍子抜けするような平坦な草原、そのつぎがオオシラビソ、ダケカンバ、クロベなどの樹林帯、弥陀ヶ池に着くと巨大な溶岩ドームが池の向こうに姿を見せる。その赤茶けてごつごつとした溶岩のかたまりに取りつき、池を見下ろしながら胸突き八丁の急な道を登る。見た目よりも山頂は遠く、「もうそろそろですか」、「まだまだ」、そんな言葉を下りてくる人と何度も交わし、ロープウェイ利用の登山者と合流すると山頂は近い。広くもない山頂は混雑しており、すぐ近くに小さな奥白根神社の祠と噴火口の跡があった。

この数日間は霞がひどく、この日も午後になると霞の海にすべてが沈んでしまったが、山頂に到着したときにはまだ、男体山、燧ヶ岳、至仏山、平ヶ岳、武尊山、さらには富士山まで、霞の海に浮かぶように頭を出していた。近くの山から遠くの山へと霞みが少しずつ濃くなっていく景色を見て、「遠山(えんざん)限りなし碧層々(へきそうそう)」という禅語を思い出した。こんなにきれいに霞む景色は初めて見た。

広々とした五色沼の岸辺では登山者たちがのんびりと休憩していた。ところが金精山へ向かう道に入ると、急に人っ子ひとりいなくなり、自ずと心がひき締まった。この緊張感が単独行の魅力、鹿の声を聞きながらゆっくりと歩みを進めた。

金精山から金精峠への下りは、急斜面を下りるとても道とは言えないひどい道の連続、疲れの出てきた足にこたえたが、勢いにまかせて足を出すと事故につながると、慎重に次の一歩を踏み出すことに専念した。徳川家康公の「人生はすべからく険しい道を歩むが如し。急ぐべからず」は山歩きにも役立つ教えである。

金精山と温泉ヶ岳(ゆぜんがたけ)との鞍部にある金精峠は、標高二〇二〇メートルにある奥日光で最高所の峠、群馬と栃木の県境になっている。ここに建つ金精神社は無人の峠に建つ無人の小さな神社であるが、他にも数ヵ所ある金精神社の元祖。コンクリート製の建物の鉄の扉を開けて入ると、正面に高さ七十センチほどの黒い石で作られた男の象徴がまつられている。ここまで足を延ばしたのはこれを見るためであった。

金精神社は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に由来するという説がある。追放処分を受けて栃木県の薬師寺に流された道鏡は、この峠を越えて栃木県に入ったといわれ、この神社に祀られている彫刻は彼の巨根伝説に由来するというのであるが、これは単なる俗説に過ぎないと思う。関東や東北では性器崇拝に基づく神、金精神(こんせいしん)をまつることが昔から広く行われてきた。だからこの神社は屹立する金精山を金精神としてまつる神社だと思う。

この峠の地下には国道一二〇号線の金精峠トンネルが通っている。一九六五年にこの国道が開通したことで奥日光と群馬県が車道でつながったのであるが、道鏡が歩いたという峠越えの古い道もまだ残っていて、その荒れた街道を菅沼へと下山した。

     
寄り道

今回は長野県小布施町(おぶせちょう)にある北斎館(ほくさいかん)と、その近くにある米子瀑布(よなこばくふ)に立ち寄った。

葛飾北斎の作品と生涯を紹介する北斎館が、なぜ小布施町にあるのかというと、ここは八〇代半ばの北斎が地元の豪商に招かれて滞在し、多くの作品を残した場所だからである。北斎は九〇歳まで生きて膨大な作品を残したのであるが、絵でも書でも偉大な作品は多作の中から生まれてくるように思う。

日本の滝百選に選ばれている米子瀑布は、並んで落ちる不動滝(ふどうだき)と権現滝(ごんげんだき)の二つからなり、これらの滝は四阿山(あずまやさん)と根子岳(ねこだけ)に降った雨を集めて、断崖絶壁の上から飛び出して落ちてくる。しかも滝行(たきぎょう)の行場になっている不動の滝の落差はなんと八五メートル、近くにある米子不動尊には滝行のための宿泊施設もある。

一周一時間半ほどの滝めぐりの遊歩道もあって、昭和三五年に閉山した米子鉱山の住宅跡のあたりが滝の絶景地点であるが、午後は逆光になる。鉱山の最盛期には千五百人もの人がここで滝を見ながら硫黄の採掘していたという。なお滝の入口に無料駐車場はあるが、紅葉の季節の土日はこの駐車場は乗り入れ禁止となり、林道入口から小型有料バスでの往復となる。

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