雪彦山(せっぴこさん。九五〇メートル)
平成二三年四月六日(水)快晴
兵庫県姫路市の北部にある雪彦山は、高さは千メートルに足りないながらも、険しい岩場と岩峰に恵まれていることから古くから修験道の行場となり、今では本格的な岩登りもおこなわれている山。夢前川(ゆめさきがわ)という心引かれる名前の川が、姫路市を北南に貫いて流れている。雪彦山はその源流にある山なので、この山を歩くと夢前川の始まりを見ることもできる。
雪彦山展望所というべき賀野(かや)神社から雪彦山を見上げたとき、真正面に見えるのがこの山の中心となる洞ヶ岳(ほらがたけ)岩峰群、そしてその中でいちばん高い峰が大天井岳(おおてんじょうだけ。八八四メートル)である。この岩峰群にはほかにも、不行岳(ゆかずがたけ)、三峰岳(さんぽうだけ)、地蔵岳(じぞうがたけ)、の三山があり、この三山では岩登りがおこなわれていて、不行岳の初登頂は大正十三年のこととされる。
ただし洞ヶ岳以外にも岩場がまだたくさんあると思いたくなるが、顕著な岩場があるのはここだけである。現地の解説によると雪彦山という山名は、洞ヶ岳、鉾立山(ほこたてやま)、三辻山(みつじやま)、の三山の総称とあるが、鉾立山や三辻山は修験の行場としてはあまりに平凡な山なので、この二峰を雪彦山に含めたのは、洞ヶ岳だけでは行場としての奥行きがなく、歩行時間も短かすぎるからだろうと思った。洞ヶ岳岩峰群がなければ雪彦山はどこにでもあるただの低山に過ぎず、修験道の霊山になることもなかったのである。
雪彦山には山頂というべきところが三ヵ所ある。この山の全体像を把握するのに手間どったのはこれが原因であった。その三ヵ所というのは、大天井岳の山頂、最高点のある鉾立山(九五〇メートル)の山頂、三角点のある無名の峰(九一五、二メートル)の山頂、の三ヵ所である。
姫路では雪が降らないという思い込みから、雪彦山の名は岩の白さに由来するのだろうと登る前は思っていたが、鉾立山に雪が少し残っていたし、またこの山によく来るという人の話では、今年は六〇センチの積雪があったというから、やはり雪に由来する山名だろうと思い直した。雪の少ない土地だけにかえって雪の白さが目につくとも考えられるし、地味な灰色をしたこの山の岩肌はどう見ても雪には見えないのである。
この山と、新潟県の弥彦山(やひこやま)、福岡と大分の県境にある英彦山(ひこさん)、の三山は、まとめて三彦山(さんひこやま)と呼ばれる修験道の山であるが、雪彦山に残る修験道関係のものは山頂の祠ぐらいであった。なおこの山の登山地図は「昭文社。山と高原地図。氷ノ山。二〇一一年版」の裏面に載っている略図のような地図のみ、ほかには地図も案内書も見つからなかった。
表登山口出発
この日の行程は、表登山道で大天井岳、それから三角点のある峰、最高点のある鉾立山、裏登山道で夢前川をくだる、という一周コース。登山口には十台ほど駐められる有料駐車場があるが、数年前から無料の状態になっているという。
登山口から大天井岳山頂までは一時間半ほどの一気の登り。途中に見晴台、出雲岩の巨岩、狭い岩のすき間を通りぬける覗き岩(のぞきいわ)などがあり、鎖場も数ヵ所ある。山頂には小さなほこらが建ち、中に石像が二体まつられていた。その石像は古くて分かりにくいが、不動明王と役行者(えんのぎょうじゃ)のように見えた。山頂から瀬戸内海が見えるというが、この日は春霞のため見えなかった。
大天井岳山頂に出ると鉾立山が姿を現す。ところが名は体を表さずで、鉾を立てたような山ならぬ、縦走路の小さな出っ張りという感じの山とも呼べない山であった。そのため「鉾立山はぜんぜん面白くないから、鎖場コースを一緒に下りましょうよ。いちばん雪彦山らしい、いちばん面白い道ですよ」とこの山にしばしば来る人に誘われたが、最高点を無視する訳にはいかず、全体像を知るためにも鉾立山ははずせずで、次回は鎖場連続コースを歩こうと思いながら一人で鉾立山へと向かった。
大天井岳から先は杉と桧の植林帯ばかり、その植林もかたい岩盤で根が張れないせいか、傾いたり根がえりしている木が目につき、地すべりで全滅している急斜面もあった。これほどたくさんの倒木を見たのは初めてである。鉾立山からはまだ残雪で真っ白の氷ノ山(ひょうのせん)と三室山(みむろやま)がよく見えた。夢前川源流ぞいの道は岩場の多いおもしろい道であるが滑りやすかった。
雪彦山の歴史
ネットで調べていたら、「賀野神社御事歴」という賀野神社の歴史を書いた文書が見つかったので、その引用でこの神社の歴史をご紹介したい。この神社の歴史は雪彦山の歴史でもある。
昔、応神天皇が各地を巡幸したとき、しばらくこの地に逗留された。ある夜、天皇は夢を見た。伊弉諾神(いざなぎのかみ)と伊弉冊神(いざなみのかみ)が枕元に立ち、次のようなお告げをする夢であった。「この山に祠を建て、保食神(うけもちのかみ)と我らの三神を祀れば、百姓は豊かになり国も栄えるであろう。祠を建てるべき場所に鉾を立てておく」
調べさせたら果たして山上に鉾が立っていたので、早速その地に祠を建てて三神を祀り、それ以後この山は鉾立山と呼ばれるようになった。(この鉾立山は大天井岳のことではないかと思う)
推古天皇の御代、法道という仙人がやって来て、洞ヶ岳で修行し、仏像を刻み、お堂を建てた。また仙人は、険しく遠い山上のお堂は人々の参拝に不便と考え、賀野神社の場所にお堂を建て、神社を「雪彦山大権現」、寺を「雪彦山金剛鎮護寺」とした。
天安(八五七〜八五九)のころ、玄常上人が都からやって来て洞ヶ岳を修行の場とし、以来修験道の行場として大いに栄えた。
江戸時代、池田輝政をはじめとする歴代城主の厚い尊崇をうけて寺も神社も繁栄し、改築が行われ社殿が完成した。
明治元年、神仏分離令が公布されたため寺を廃し、以後、賀野神社と呼ばれるようになった。
明治三年、火災でほとんどの建物が焼失したが、本殿は奇跡的に焼失をまぬがれた。
玄常上人
この文書に出てくる玄常上人の話が、今昔物語に載っている。
今は昔、比叡の山に玄常という僧がいた。もとは京の人で、幼くして比叡の山に登り、出家して師に従って法門を習い、悟りを得てひろく教義に通達した。また法華経を習い昼夜おこたらずに読誦した。
玄常上人のふるまいは普通の人と違っていた。いつも紙子と木の皮でできた衣をまとい、絹の衣服は身につけず、川を渡るときも衣をはしょらず、雨の降る日も晴れの日も笠をかぶらず、遠く行くときも近く行くときも履き物をはかなかった。一生の間、戒を守り、午後になると食事をせず、寝るときも帯を解かなかった。また僧であろうと俗であろうと貴賎を選ばずに敬い、鳥や獣などの畜類であっても腰を屈めた。これを見て人は正気をなくしていると思った。
やがて播磨の国の雪彦山(ゆきひこやま、と振り仮名がある)に移り住み、静かに山に籠もり熱心に修行した。百の栗で九十日の修行期間を過ごし、百の柚子(ゆず)を冬の三ヵ月間の食とした。その山は人里からはるかに離れた所にあったので、猪、鹿、狼、などの獣が常にやって来て、恐れることなく上人に近づき戯れた。
上人は人の心を知ることに長け、人が思っていることを指摘してまちがうことはなかった。また世の中のあり様を見て吉凶を占い、はずれることもなかった。そのため世人は上人を仏菩薩の化身だと言った。
死に臨んでは、里に出て僧俗の知人の家を訪ね、別れを惜しんで言った。「今生での対面は今日を最後とす。明後日、私は浄土へ参る。またの対面は浄土のほとりでなさん」。そして雪彦山に帰り、岩窟の中で心を乱さず法華経を読誦しながら世を去った。
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