四阿山(あずまやさん。二三五四メートル)

  平成二二年十一月十七日(水)晴のち曇のち晴

四阿山は長野と群馬の県境に長く裾を引いてそびえる百名山の一峰。直径三キロのカルデラを山体とする火山。この山のカルデラは内側は急な崖、外側は広々としたなだらかな斜面になっていて、そのなだらかな斜面には日本有数の大きなスキー場が作られている。

なおカルデラと噴火口は直径の違いで区別している。この二つは同じような形をしているが、噴火活動だけでは直径が二キロ以上になることはなく、それ以上ある場合は噴火以外の作用も加わってできたものと考えられるので、カルデラと呼んで区別しているのである。なおカルデラという言葉はスペイン語の大鍋から来ている。

四阿山の名は、南北の二峰からなる山頂の形が四阿(あずまや)の屋根の形に見えることに由来し、東屋とも書く四阿は庭などに設置される壁のない休憩所のこと。ところがこの山は群馬県側では吾妻山(あづまやま)と呼ばれ、そう書いた道標もあったので、長野側と群馬側で山名をめぐって対立があるように感じたが、正式名は四阿山。

吾妻山の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)に関係するという。武尊が東征の帰路、群馬と長野の県境の鳥居峠(とりいとうげ)まで来たとき、亡き弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲んで東をふり返り、「吾妻はや」と三度嘆きの声をあげた。そのためここから東の地を「あずま」、かたわらにそびえるこの山を吾妻山と呼ぶようになった、というのである。

弟橘姫は日本武尊が三浦半島から房総半島へ舟で渡ったとき、嵐に遭遇した舟を助けるために、自ら人身御供になって海に入った女性である。ただし武尊が嘆きの声をあげた場所は、日本書紀では碓氷(うすい)峠、古事記では箱根の北にある足柄(あしがら)峠となっている。

なお福島県に吾妻山(あづまさん)という百名山の一峰があり、また島根と広島の県境に吾妻山(あづまやま)があり、群馬県に吾妻耶山(あづまやさん)があり、埼玉県に四阿屋山(あずまやさん)がある。

四阿山の山頂には二つの祠(ほこら)が祀られていて、信州側にあるのが信州祠、上州側が上州祠と呼ばれ、信州祠のところに山頂がある。ただし信州祠が信州方向の西、上州祠が上州方向の東を向いているなら納得できるが、なぜか信州祠は南向き、上州祠は上州に背をむけた西向きに建っていた。ふつう寺は南向き、神社は東向きに建てるものである。

中腹に花童子宮(げどうじのみや)の跡があって、そこにこんなことが書いてあった。「この山は修験道の霊山で、山頂には白山権現が祀られていた。のちに里宮との中間に花童子宮と呼ばれる中社(ちゅうしゃ)が作られ、そこで加持祈祷が行われるようになり、そこが吾妻山信仰の拠点となった」

この説明から、昔はここで修験修行が行われていたことが分かるが、今は建物の跡が残るのみ。花童子は童子の姿をした雨をもたらす神とされ、里宮の山家(やまが)神社では今も雨乞いの神事がおこなわれていて、そのとき花童子が現れると必ず雨が降るという。

鳥居峠に「猿飛佐助修行の地」と書いた看板が立っていた。猿飛佐助や霧隠才蔵などの真田十勇士は架空の人物であるが、ここ真田町は今も真田家の屋敷跡が残る真田家発祥の地である。真田一族はのちに上田市に進出し、千曲川の岸に川の段丘の崖を利用した難攻不落の上田城を築いた。この城は小さいながらも徳川の大軍を二度退けた名城として知られる。

     
鳥居峠出発

この日の行程は、鳥居峠から出発し、林道を歩いて登山口、的岩(まといわ)コースで入山して的岩、古永井分岐、山頂、花童子宮コースで下山して登山口、という一周コース。

新しい林道ができたことで、鳥居峠から三キロ先の登山口まで車で入れるようになったが、そのため鳥居峠にあった有料駐車場、みやげ物屋、峠の茶屋などは廃業していた。ところが今年は、材木の切り出し作業のため一般車両は通行禁止ということで、結局、鳥居峠から歩くことになった。

車は鳥居峠の廃業した駐車場に駐めた。国道からだと四阿山は見えないが、この駐車場に入ると、なだらかに裾を引くこの山の姿がよく見える。前日も当日もここで他の車は見なかったので、この二日間にここから入山したのは私だけらしい。雪の心配のある難しい時期なので、入山者は少ないだろうと予想はしていた。上信越道の妙高高原では道路上にも積雪があったので、今回は雪のため苦労するかもしれないと思ったが、意外にも四阿山に雪はなかった。

林道の奥にある新しい登山口は、車十台分ほどの広場になっていて、地図と道標も設置されているが、どちらも分かりにくかった。花童子宮コースの入口は広場のすぐ右、的岩コースの入口は林道をもう少し前進した右にある。登り初めはカラ松の植林帯、それがミズナラの自然林に変わり、そこにダケカンバが混じってくると的岩は近い。

国の天然記念物の的岩は、六角形の柱状節理の岩が米俵を積むように積み重なってできた壁。壁の厚さは二〜三メートルであるが、高さは最大で十五メートル、それが尾根の上に二百メートルも列なっている様は、まるで小さな万里の長城である。的岩の名の由来は、岩が抜け落ちてできた穴が一つ開いていること。この穴を的にして弓の練習をやりなさいということか。それとも誰かが的の岩を射貫いてこの穴を開けたということか。

的岩を過ぎるとコメツガの密林に入る。ここは昼なお暗き、まったく景色の見えない、踏み跡すらはっきりしない場所なので、道ぞいにロープが張ってあった。花童子宮コースと合流する古永井分岐には四阿が建っていた。ここは休憩に最適の場所である。

そしてその先にこの日の唯一の水場、「関東最高地点の湧水。四季を通じて涸れたことなし」という嬬恋(つまごい)清水があり、清水の先に四阿高原への分岐、その先に根子岳(ねこだけ)への分岐、さらにひと登りで山頂、山頂から五分ほどやせ尾根を進んだ先に三角点があった。山頂には低木しか生えておらず、それらの木々はびっしりと付着した樹氷のために、雪化粧をしたように真っ白になっており、山の北側の樹氷はとくによく成長していた。

ところがやっとたどり着いた山頂なのに、しかも頭上には青空が出ているのに、周囲はどちらを見ても湧き上がる雲ばかり、かろうじて隣の根子岳が見えただけであった。なお根子岳の向こうには小根子岳(こねこだけ)なる峰もある。この日、会ったのは山頂での男一人のみ、挨拶をしても返事もせず、根子岳側から来て群馬県側へ下りて行った。

下山の途中、「ギャー」と猿の悲鳴のような声をあげながら、カモシカが道の直前にとび出して来た。かなりの大物だったので一瞬クマかと思った。カモシカの声を聞いたのは初めてである。カモシカは前方十メートルのところで立ち止まり、じっとこちらを見ている。そのためしばらくにらめっこをしていたが、いつまでもそんなことしてられないので静かに近づいていくと、笹藪の中に逃げこんでまた振り返り見えなくなるまで見送ってくれた。

花童子宮コースの三ヵ所に四阿が建っていた。そのためなぜ四阿ばかり建てるのかという疑問が湧いたが、四阿山だから四阿だと気がついた。しかし三つの四阿より一つの避難小屋の方が役に立つのは確かである。午後になると雲が急速に消滅し浅間山が姿を現した。

もどる