平ヶ岳(ひらがたけ。二一四一メートル)

   平成二二年七月二一日(水)快晴

平ヶ岳は新潟と群馬の県境に平たく長く横たわる百名山の一峰。山頂に池塘の点在する湿原がひろがる雲上の別世界。平ヶ岳の名がこの平坦な頂稜地形に由来するのはまちがいなく、これだけ広い山頂を持つ山は初めてであった。

この山の登山道は鷹ノ巣(たかのす)登山口からの一本のみ。そのためこの道を往復することになるが、標高差一三五〇メートル、距離も長く、避難小屋もない、という山なので、テント泊か、荷物を軽くしての日帰りしかない。日帰りの場合、玉子石(たまごいし)の奇岩まで寄り道すると十二時間ほどかかるので、この山は百名山踏破を目ざす人の難関の一つになっている。

しかも入山すると山しか目に入らないという秘境の山なので交通の便も悪く、登山口があるのは「一級酷道」と酷評される国道三五二であり、この国道は十一月から六月までの半年間、冬の通行止めになる。

そのうえ私が登ったのは、全国で四百人以上が熱中症で病院に運ばれるという快晴の猛暑日であった。そのため山のふもとの前橋市では三九度まで気温が上昇し、その暑さが山上にまで及んだので、涼しい楽園へ行くつもりが灼熱地獄の山行になってしまった。ということで、とにかく日の長いときだから、事故さえ起こさなければ必ず明るいうちに下山できる、そう自分に言い聞かせながら十二時間歩くことになった。暑さにも、疲れにも、足の痛みにも負けず、細心の注意を払いながら長時間歩くのはいい修行であった。

歩行時間の長い山なので、早立ちするため鷹ノ巣登山口で車中泊する人が多かった。登山口には十五台分の無料駐車場とトイレはあるが、水場はなく電話は通じない。ただし十分ほど銀山平方面へ走ったところに、「ドコモの携帯ならここで通話できます」とあったので試してみたら通話できた。銀山平(ぎんざんだいら)も電話は使える。

この山には水場が四ヵ所ある。一つは出発してすぐの林道横。それから五合目の台倉(だいくら)清水、ただしここは渇水期には水なしと地図にある。六合目にある白沢清水は道端のたまり水のような水場、ところがこの水場は小さいながらも極上の湧水であり、見かけは日なた水なのにあまりの冷たさに汲んでいるだけで手がしびれてきた。最後の山頂下にある水場は、湿原を音を立てて流れくだる雪解け水。

この日は猛暑のため、こんなに飲んでもいいのかと思いながら五リットルの水を飲み、食欲がなかったので押し込むようにしてお握りを食べ、小さなお握り四個で十二時間歩いた。暑さと日射しでザックの中が火照ってきたので、これではお握りが腐ってしまうと、水場に着くたびに水筒の水を交換して冷やした。

実はこの山には楽勝日帰りの道もなくはない。中ノ岐(なかのまた)川林道の奥から出発すれば、三〜四時間で登れるのであるが、この林道に入る鍵を持っているのは国道ぞいにある数軒の山小屋のみ、つまりそこに泊まれば車で送迎してくれるということである。

「日本百名山」には、深田久弥氏がこの山に登った年も季節も書いてないが、当時の平ヶ岳はほとんど知る人のいない、まったく道のついていない山であった。そのため彼は案内と荷物運びのために、地元の若者を一人雇って入山したのであるが、それでも登りに三日、下山に二日かかったという。

その当時すでにダム湖の奥只見湖はあったが、まだ国道三五二は桧枝岐(ひのえまた)村へ通じていなかった。そのため彼はまずバスで銀山平へ入り、ダム湖を利用して船で中ノ岐川の上流に上陸、二岐(ふたまた)川との出合いのワラビ取りの小屋で一泊、二岐川を遡上して尾根にとりつき藪のなかで幕営一泊、三日目の午後遅く山頂に着いて一泊、そして水長(みなが)沢を下って上州方面へ下山したのであった。猛烈な藪こぎと藪もぐりが続いたとあるのはネマガリタケの藪であろう。この山はネマガリタケの群生地になっている。

     
鷹ノ巣出発

私が登山口を出発したのは午前五時を過ぎていたが、登山口で車中泊した人は空が白みかけた四時前に出たという。早朝の涼しいうちに取りつきの急登を通過すれば体力の消耗を抑えられる。それが分かっていながら私が登山口で寝なかったのは、電話が通じなかったから。

まず十五分ほど荒れた林道を歩き、それから右手の尾根に取りつく。そこから下台倉山(しもだいくらやま)までは、やせ尾根の急登が続く。この登りはきつかった。早朝から気温が高く、強い日射しをさえぎる木がなく、さらに岩場もあって疲れさせてくれた。この尾根には枝振りのいい五葉松の古木が多かったが、日よけの役には立たなかった。

中腹まで登ると尾瀬の燧ヶ岳(ひうちがたけ)が見え、下台倉山を過ぎると平ヶ岳も見えてくる。最後の急坂を登り切って池ノ岳の上に出ると、目の前に「姫の池」が現れ、その向こうに平ヶ岳山頂があった。というよりも、ここから山頂にかけて広がる起伏のある湿原全体をこの山の頂上部分と考えるべきかもしれない。笹とシャクナゲの茂みに囲まれて三角点があり、その先に広がる山頂らしからぬ平坦な湿原に最高点があった。

ところが平坦すぎてどこが最高点か分からず、最高点らしきあたりに立つと、越後三山、巻機山、武尊山、至仏山、燧ヶ岳などが平原の向こうに見え、山頂からの眺めとしてはかなり珍しい眺めであった。案内書には山頂でのテント泊の行程が載っていたが、テント場らしきものは見あたらず、この日、会った人はすべて日帰りであった。

玉子石は往復1時間ほどの寄り道になるが、行けば山上の景色を別の角度から楽しめるし、魅力的な池塘もあるし、玉子のような巨岩がなぜ湿原の中に立っているのかと不思議にも思う。下山したとき、翌日登る人たちにとり囲まれた。気にしていたのはやはり所要時間であった。

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