赤城山(あかぎやま。一八二七.六メートル)

  平成二二年五月二八日(金)晴

赤城山は群馬県中部にある百名山の一峰。地図を見ても地形の分かりにくい複雑な山容の複式火山。ただし最後の噴火から長い年月を経てすでに火山の殺伐さはなく、山を覆う木々の緑が登山者をやさしく迎えてくれる山。なお赤城山という峰はなく、最高点のある黒桧山(くろびさん)登頂をもって赤城山登頂としている。

この山はわざわざ遠くから登りに来る山ではないかもしれない。外輪山の中まで車で登ることができ、外輪山の中には大沼(おの)と小沼(この)の二つの湖があって、大沼周辺が観光の中心という山上まで観光地になっている山だからである。しかも最短の道なら一時間半で登頂できる。

そのため深田久弥氏は、登山の対象としてではなく滞在し逍遙する山として、また眺める山としてこの山を紹介している。たしかにこの山の長くなだらかな裾野を眺めていると心が雄大になってくる。

赤城山は新国劇の国定忠治のせりふ、「赤城の山も今宵限り、かわいい子分のてめえ達とも、別れ別れになる門出だ」で有名になった山なので、あるいは忠治親分の銅像でもあるかと探したが見つからなかった。なお「国定忠治は鬼よりこわい。にっこり笑って人を切る」と恐れられたこの親分の墓は伊勢崎市の寺にある。

     
大沼出発

この日の行程は、北側登山口から入山、黒檜山山頂、駒ヶ岳山頂、覚満淵(かくまんぶち)、北側登山口、という約三時間の一周コース。

標高千四百メートルということで早朝の赤城山上は寒かった。気温は三度だが風が強く体感気温は完全に氷点下、これが上州名物のからっ風かと思った。寒くて車から出たくなかったのと、山上の地形を頭に入れるため、日が昇るまで山の上を車で走り回った。山上の観光地はざっと見るだけなら一時間ほどで回れる。

北側登山口は大沼湖畔にある。三つ葉ツツジが咲く登山口からすぐに急登が始まり、大沼を見下ろしながら登っていくと、やがて小沼も見えてきて、ミズナラがダケカンバにかわると山頂は近い。山頂ではミネザクラらしき満開の小さな桜の木が迎えてくれたが、山頂は樹木に囲まれて展望がなかったので、その可愛らしい桜の並木を通って二百メートルほど北にある景色のいい笹原へ移動した。まだ八時を過ぎたばかりで他の登山者はなく景色を独り占めである。そこから見えたのは、日光白根山、皇海山、袈裟丸山、男体山、武尊山、榛名山、浅間山、燧ヶ岳、谷川岳など、富士山が見えることもあるという。

下山には駒ヶ岳を経由する道を選んだが、道標が立っているのに分岐点を素通りし、森林公園の方へ下りてしまった。その道を登ってきた夫婦と立ち話をしていたとき、彼らが道をまちがえていることに気づき教えてくれた。分岐点では立ち止まって確認するようにしているが、森林公園からの道がよく踏まれているため、気づかずに通過してしまったのである。下山後、覚満淵という湿原に寄り道した。ニッコウキスゲ、ツルコケモモ、モウセンゴケなどが自生する湿原とあるが、まだ花のかけらもなかった。

     
連取(つなとり)の松

車で上れる山なので、赤城山はもっと歳をとってから来ようと思っていた。それなのにこの日来たのは別に目的があったから。それは伊勢崎市にある「連取の松」と、長岡市にある「山本五十六(いそろく)記念館」。

連取の松は、枝張りでは日本最大と言われる黒松。形が笠に似ていることから笠松、天神さまの境内にあることから天神松とも呼ばれ、連取はここの地名である。この松は一七一七年に隣の韮塚村(にらづかむら)の諏訪の原から移植されたものであり、これだけ由緒がはっきりしている木は珍しいという。だから移植して三百年ほどの松であるが、わざわざ移植したのだからその当時すでに目につく松だった筈なので、樹齢は三百五十年ぐらいかと思う。

この松は移植の百年後にはすでに名木として知られ、伊勢崎藩士の鈴木松山という人が、版画に描き老之松(おいのまつ)と題して頒布したという。現在この松は県の天然記念物になっている。

伊勢崎市は無計画に宅地開発するとこうなります、という見本のような道の分かりにくい町。そのため連取町(つなとりまち)という交差点を見つけたとき、これでもう松を見つけたも同然と喜んだが、そうはいかなかった。道は県道をはずれるともつれた糸のように曲がりくねり、同じ道を何回走っても頭の中に地図が描けず迷いに迷った。

しかも住んでいる人でさえこの松のことを知らないのである。始めに若い人三人にきいてみたがそんな松のあることさえ知らず、これは若い人ではだめだと年配の人にきいて回り、たどり着くのに交差点から一時間もかかった。

名木があったのは住宅地の中にある菅原神社という小さな神社の境内、看板に「連取の笠松」とあるように、中心部の盛りあがりから赤城山の裾野のようになだらかに枝を伸ばす姿はたしかに笠に似ている。これだけ枝を張った松を見るのは初めてのことで、枝張りではまちがいなく日本一であろう。

この寝姿で見せる松は、大蛇のような幹を低く長くうねらせて、入口の鳥居と拝殿のあいだの空間を完全に占領している。そのためお参りに来た人は屈んでその下を通らなければならない。拝殿にあった冊子によると、樹高五メートル、目通り(めどおり。目の高さ)の幹回り四メートル、枝張りは東西三五メートル、南北二六メートルとある。

ただし明治の初めごろの記録では、樹高三メートル、目通りの幹回り二.四メートル、枝張りは東西・南北とも四五.六メートルとあるから、高さと幹回りは大きくなったが、枝張りはかなり小さくなっている。この松の形は人が作り上げたもの、今も菅原神社の氏子たちが毎年秋に手入れをしているという。

しかもすぐ横にはシンマツというもう一本の黒松が控えている。それを見てよい後継ぎを作ることは何の世界でも大事なことだと思った。こちらは一九一〇年の移植というからちょうど移植後百年の松、すでに初代に負けない枝張りになっていて、形はやはり笠の形に仕立てられているが、こちらは二メートルの高さに枝を張らせているので屈まなくても下を歩ける。

     
山本五十六記念館

山本五十六元帥は連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃やミッドウェー海戦を指揮した人。連合艦隊は旧海軍で戦闘を主な任務とした主力艦隊のこと。元帥は昭和十八年四月十八日、南太平洋のニューギニア島とガダルカナル島のほぼ中間に位置するブーゲンビル島上空で、乗機が米軍戦闘機に撃墜され戦死した。前線視察の予定を知らせる通信文を、米軍に解読されたのがこの失敗の原因であった。

元帥は新潟県長岡市の生まれ、ということで、その長岡市の生地に平成十一年に山本五十六記念館が作られた。この記念館の目玉は元帥が戦死したとき搭乗していた一式陸上攻撃機の左翼の一部、これはブーゲンビル島を領有するパプアニューギニア国の好意で、持ち出しが許可されたものである。なおパプアニューギニアはイギリス連邦王国の一員なので、この国の国家元首は象徴的な存在であるがイギリスのエリザベス女王である。展示品の中にあった手紙の字の十五歳とは思えない立派さに驚いた。

近くの山本記念公園には元帥の生家もあるが、実物は米軍の空襲で焼失し、今あるのは元の場所に復元されたものである。工場などない長岡市を米軍が空襲したのは、ここが元帥の生地だからという説がある。なお五十六という名前は、父親が五十六歳のときの子供であったことで付けられたものという。

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