八海山(はっかいさん。一七七八メートル)

 平成二一年九月十八日(金)晴

新潟県中部にある八海山は、屏風を立てたような急峻な崖の上に、八つの岩峰が並びそびえる修験修行の山。山麓にある八海神社の冊子に、「二百余本の鎖が設置された日本で一番険しい山」とある深田二百名山の一峰。ただし「日本一険しい山」は誇大広告であるが、「日本一険しい修験の山」ならその通りかもしれない。

八海山という山名は、狭義には八ッ峰(やつみね)と呼ばれる八つの岩峰部分を指し、その場合はその中でいちばん高い大日岳(だいにちだけ)が山頂になる。広義の八海山には薬師岳から五竜岳までが含まれ、その場合は入道岳(にゅうどうだけ。一七七八メートル)が山頂になる。なお三角形にならぶ八海山、越後駒ヶ岳、中ノ岳の三山は、越後三山と呼ばれるいずれも人里からよく目につく山。

山になぜ八海山の名をつけたのだろうか。この山名を見たとき私は、八海は仏教で説く八戒(はっかい)から来たと直感した。嶺が八つで八戒山、それが八海山になったということである。そこでネットで調べてみたら、山名の由来に定説はないとあって、つぎの三つが有力候補にあがっていた。

一つは私と同じ「八戒山」説。

つぎは八ッ峰を横から見ると階段のように見える。そのため八階山と呼ばれていたのが八海山になったという説。

最後は、昔、山上にあった八つの池を海に見立てたとする説。現在も「日の池」と「月の池」という二つの池がある。この三説の中では八戒山説がやはり一番ふさわしいように思う。

登山口は三ヵ所あって、それぞれに里宮があり、山口集落は八海神社、大崎集落は八海山尊(はっかいさんそん)神社、大倉集落は坂本神社となっていた。下見をかねて三社ともお参りしたが、いずれも雰囲気のいい神社ばかり、周囲の山里のたたずまいにも心を引かれた。

八海神社の冊子によると、八海山は千二百年前に藤原鎌足(ふじわらのかまたり。六一四〜六六九。藤原氏の祖。大化の改新の功労者)が開山したとある。

八海山尊神社の解説板によると、孝元天皇(紀元前三世紀ごろ)の第五皇子、彦大忍命(ひこおおしのみこと)が、この山の姿を愛でて国土平安を祈願したのが八海山信仰の始まり、山全体がご神体になっているとある。

八海山信仰が一般に広まったのは江戸時代中期、木曽の御嶽山(おんたけさん)の中興の祖、普寛(ふかん)行者が、大崎村の泰賢(たいけん)行者とともに、御嶽山の兄弟の山として行場を開いてからという。そのため御嶽山で見たことのある霊神碑(れいじんひ)と呼ばれる石碑が、この山にもたくさん立っていた。霊神碑は功績のあった行者を霊神としてまつる薄型の石碑、死んだ行者の霊は山に帰って霊神になる、ということで山中に碑を立てるという。

修験修行の八海山であるが、今はロープウェイを利用して登る人が多い。四合目までロープウェイでのぼり、八ッ峰を踏破して、迂回路をもどり、ロープウェイで下山、というように利用するのである。その場合、鎖とはしごが連続する八ッ峰はもちろんであるが、迂回路も険しい道なので要注意。また大日岳東側の十五メートルの鎖場は、腕力のない人は登りで通過する道順にしない方がよい。

この日歩いた屏風道(びょうぶどう)は修験修行のための道なので、山中で白装束の行者さん五人と会った。彼らは行場に着くたびにホラ貝を吹いたり読経したりしていたが、不慣れな人が一人混じっていて、その行者さんは今にも死にそうな顔をして歩いていた。

屏風道は登山口から百メートルのところで川を渡るが、その徒渉点にカゴ渡しなるものが設置されていた。この日その川に水は流れていなかったが、八海山は岩ばかりの山なので、雨が降るとすぐに水が走り下る。そうしたとき涸れ沢は特に危険な状態になりやすいのである。そのための備えがカゴ渡し、両岸に鉄柱を立ててワイヤーを渡し、それにカゴを下げた滑車が取りつけてある。つまりカゴに乗りロープをたぐって川を渡るという仕掛け、こういう物はネパールにでも行かないとお目にかかれないと思っていた。増水時以外は使用禁止とあるが、練習も必要と試してみたらすんなり渡れた。

     
屏風道出発

この日の行程は、屏風道を登り、八ッ峰、入道岳、少しもどって新開道を下山、という一周コース。なお屏風道は下るのは危険として下山禁止になっている。屏風道と新開道の登山口になっている駐車場には十数台分の広さがある。

屏風のような崖を正面から直登するのが屏風道、東に向かって壁に取りつくので朝は日の射すのがおそい。三合目で正面に滝が見えてくる。水量は少ないが形のいい滝である。四合目の清滝の水場に半分つぶれた小屋があった。中を覗いてみたら猿田彦大神が祀られ、石碑も立っていたので、ここも行場の一つになっているらしい。

道はここまではなだらかであるが、ここから先は、よくこんな所に道を作ったものだと感心するような険しい岩場の連続となる。鎖がついているからそれほど危険はないが、落ちれば大事故まちがいなしなので、緊張感を維持しなければならない。岩場の棚はナナカマドの茂みになっていて、そこから五葉松が頭を出していた。この山には五葉松が多い。

七合目に分岐があって、左が登山道、右へ行くと八海山大神をまつる行場と、ノゾキの松という展望台があるが、崖下を覗いていたと思われる松は枯れたのか見あたらない。このあたりが屏風道の核心部分、切り立った崖を見上げながらの登りが続く。八合目の手前で涸れた狭い谷を登る。ここは大雨のときは通過できないと思う。

屏風道を登りつめて主稜線に出た九合目にあるのが千本檜(せんぼんひのき)小屋。入口に「管理人は下山中のため不在」という札が下がっていた。ここにはトイレと避難小屋も併設されている。ここでロープウェイ利用の登山者と合流。

そしてこの先の稜線上に、地蔵岳、不動岳、七曜岳、白川岳、釈迦岳、摩利支天岳、剣ガ峰、大日岳、という八ッ峰の険が連なり、最後の大日岳が十合目。八海山神社の奥の院のある大日岳に立つと、足もとに絶景が広がる。

入道岳は大日岳から片道三〇分の寄り道になるが、そこまで行くと景色が大きく変化する。越後駒ヶ岳と中ノ岳とをむすぶ稜線が谷の向こうに迫ってきて、中ノ岳へ行く道も見えてくる。中ノ岳への道は、谷底まで下りて登りかえすような落差の大きな道。下山に使った新開道は危険のない尾根道であるが、尾根に乗るまでは鎖場がつづく。新開道から眺めると、八ッ峰と屏風道の険しさがよく分かる。

手間のかかる山なので、この日は十一時間ほど歩いた。体と心に大きな負担をかけながらの十一時間、こうして身心を鍛えるのが修験修行というものであろう。とはいえ四日間ほど疲れが残っていたので、入道岳はやめておくべきだった。

しかも暑いさなかだったので水を切らしてしまった。登りの四合目に水場はあるが、そこまでは道はなだらか日も射さず、ということで汗をかかず、そこで水を補給する必要はなかった。ところがその先は鎖場の連続、強い日射しで気温も急上昇ということで、大量の水を飲むようになった。この日は二リットルの水が必要であった。

ところが出発直前に「険しい岩場」という言葉が頭に浮かび、つい荷物の中でいちばん重い水を減らしてしまったのが水切れの原因。もっと慎重に計算をするべきだったと反省した。下山のとき三合目にある水場で飲んだ水はおいしかった。

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