武尊山(ほたかやま。二一五八.三メートル)

 平成二一年六月二六日(金)快晴

群馬県北部にある武尊山は、沖武尊(おきほたか)を主峰とする十ほどの峰と、広い裾野を持つ独立火山。信州の穂高岳と区別するため上州武尊とも呼ばれ、沖武尊の名は奥武尊がなまったものではないかと「日本百名山」にある。

また「谷川岳から眺めた長大な壁のようなこの山の姿は人を驚かす」とも百名山にあったので、その壁のような山容を写真にとろうと走りまわったが、山を一周しても山全体を見渡せる場所はなかった。この山は山麓からはほとんど見えないのであり、それがこの山があまり知られていない理由かもしれない。

この日の行程は、裏見(うらみ)の滝登山口から入山、剣ヶ峰山(けんがみねさん)、沖武尊山頂、藤原武尊、手小屋沢(てごやざわ)避難小屋、登山口、という日帰り一周コース。

裏見の滝は裏を見ることのできる滝。滝の裏側に遊歩道が通っているのであるが、その遊歩道は危険ということで通行禁止になっていた。ところが対岸に人がいるのが見えたので、その通行禁止の遊歩道を行ってみたら、滝の裏を通って簡単に対岸へ行くことができた。滝を裏から見たのは初めてであった。

     
出発

登山口にある駐車場は二〇台分ほどの広さ、その百メートル先に小さな武尊神社がある。小さいとはいえこんな山中に神社を作ったのは下に裏見の滝があるからだろう。その武尊神社にお参りしてから林道を直進する。この片道五〇分の林道歩きが、登りでは準備運動、下りでは整理運動になる、などと思いながらひたすら歩き、正面に剣ヶ峰山が見えてきたらその峰を目指して進む。なおこの山には剣ヶ峰という別の峰もある。

林道終点で右回りにするか、左回りにするかを選ぶ。私は左回りを選んで剣ヶ峰山へと向かう。昼なお暗き自然林の中に道が続き、アスナロの大木の群生地を過ぎると、左に藤原武尊、右に獅子ヶ鼻山が見えてくる。木の根をつかんで最後の急登を登った剣ヶ峰山の山頂は剣の刃のようなやせ尾根、少し寄り道になるが景色も雰囲気も申し分なし。

剣ヶ峰山から沖武尊へ向かう縦走路がこの日いちばんの見どころ、ハイマツ、シャクナゲ、ドウダンツツジ、などの低木に囲まれた見晴らしのいい道を、マイヅル草やゴゼンタチバナなどの花を見ながら歩く。この道にはハリブキという鋭いトゲをもつ低木が多い。そのトゲだらけの幹を転びかけたときしっかり握りしめてしまい、とび上がるほど痛かった上に手にトゲが残った。この山にはブユが多い。この虫は日射しを嫌うはずなのに快晴の日射しの中でもたかられ、ブユが多いのは水の豊かな証拠というが道にぬかるみが多かった。

日本の山は標高二千三百メートルをこえると面白くなってくる。そのあたりで森林限界をこえるからであるが、この山の高さはそれには少し足りないので、山頂の雰囲気はもう一つであった。山頂では十人ほどの登山者と挨拶を交わした。方位盤には百名山が十ほども載っており、天気がよかったので富士山を含むそれらすべてを確認できた。

藤原武尊を経由して下る道には鎖場が四ヵ所あるが、はしごも付いているので問題はない。この日の唯一の避難小屋、手小屋沢小屋は急斜面の下にあった。水場の近くにと道からはずれた所に作ったのだろうが、見に行くだけで体力を消耗する、冬は雪に埋まってしまう場所であった。小屋は仮設の水路を作るときに使う、かまぼこ形の蛇腹の金属板でできているので、日射しを浴びた小屋の中には熱気が充満していた。

この日は中型の麦わら帽子を試してみた。その結果は、日焼け止めなしでも唇が少し焼けただけ、しかも涼しく、値段も安く、うちわの代わりにもなる、という好成績。欠点はかさばること。

同じ日曜大工の店で買った、ごく薄の手袋も試してみた。その結果は、素手とそれほどかわらない涼しさ、日焼けも防止でき、薄くゴムが塗ってあって滑らず、はめたままカメラを扱える、という好成績。今回またペットボトルから水が漏れた。古くなるとフタがひび割れるのである。

     
山名の由来

武尊山の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)に由来するとされ、山頂横の峰には彼の銅像が立っていた。ヤマトタケルは記紀(きき。古事記と日本書紀)に出てくる悲劇の英雄であるが、生存年代どころか、実在の人物かどうかもはっきりせず、実在したとすれば四世紀から五世紀ごろの人。

景行(けいこう)天皇の第三王子とされ、武勇にすぐれていたため天皇の命を受けて九州と出雲を平定、それから蝦夷(えぞ)を討つために東征し、帰路に群馬県を通過したときこの山に登ったのだという。そのため武尊山の名が付いたというのであるが、記紀には滋賀県の伊吹山に登ったことは書いてあるが、武尊山に登ったとは書いてない。それに彼は戦いのために来たのだから、必要がなければ山など登らないはずである。

もう一つの疑問は、武尊をなぜ「ほたか」と読むのかということ。尊は「たか」と読めるが、武尊を「ほたか」と読むのは無理だと思う。車で山を一周したのは、武尊神社に何か手がかりがあるかもしれないと思ったのも理由の一つ、この山の周囲には武尊神社が十数社、点在するのである。

ところが小さな神社ばかりのせいか三社しか見つからず、また神社にお参りしても、人にきいても、ネットで調べても、はっきりとした答えは見つからなかった。ただし裏見の滝の武尊神社の解説板にすこし手がかりがあった。それは、昔この神社は宝高(ほうたか)神社、あるいは保宝鷹(ほほうたか)神社と呼ばれていたという解説である。

つまり武尊山も昔は宝高山とか保宝鷹山と呼ばれていたが、修験修行の山になったとき、日本武尊の名を借用して武尊山と書くようになり、やがて「ほかたやま」読むようになったのではないかと推測したのであった。

武尊山は江戸時代の寛政年間に普寛(ふかん)行者によって開かれた山。この行者は木曽の御嶽山(おんたけさん)や、越後の八海山(はっかいさん)を開いた人でもある。なお武尊神社群の中心となる神社は、武尊山の表登山道の入口に立派な社殿を構える川場村の武尊神社である。

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