飯綱山(いいづなやま。一九一七.四メートル)
平成二一年五月十四日(木) 晴
長野市の北西にある飯綱山は、北信五岳に数えられる円錐形の火山。長野市民が毎日ながめて暮らすふる里の山。学校登山に利用される短時間で登れる山なので、道はよく踏まれている。
この山の名前はかなりややこしい。漢字の表記には、飯綱、飯縄、飯砂、井綱、伊豆那、伊須那、稲縄、があり、発音も、イイヅナ、イイズナ、イヅナ、がある。現在はおもに飯綱と飯縄が使われ、これはイイヅナと読む。そのためここでは漢字は飯綱山、読みは「いいづなやま」で統一し、神社も飯綱神社(いいづなじんじゃ)とした。
ただしその他に関しては、飯綱神(いづなしん)、飯綱の法(いづなのほう)、飯綱使い(いづなつかい)と私は読んでいるが、イイヅナで統一した方がいいようにも思うので、これらの読み方は読む人にお任せする。
数年前に戸隠山(とがくしやま)に登ったとき、すぐ前にそびえる飯綱山を眺めながら、この山に登りに来ることは絶対にないだろう、と思ったことを覚えている。それほどこの山は平凡な姿をしている。その山になぜ登りに来たかというと、それはこの山が興味深い歴史を持っていることを知ったから。飯綱山は全国に数百ある飯綱神社の発祥の地であり、飯綱修験道の根本道場なのである。そのため山頂手前の峰に飯綱神社の本宮(ほんぐう)、山麓の荒安(あらやす)には里宮(さとみや)がある。
ところが飯綱修験道の中心は、東京八王子市の高尾山薬王院(たかおさん・やくおういん)に移ってしまったらしく、飯綱山麓にも高尾山系の小さな飯綱神社があった。登山前日、道に迷いながらお参りを果たした里宮は、こぢんまりとした神社であるが、掃除の行き届いていることには感心した。
登る前も登ってからも、岩場ひとつ持っていないこの山が、なぜ有力な修験道の行場になったのか不思議で仕方なかった。この山は修験修行で有名な戸隠山の正面にあるが、行場としてははるかに格下の山である。しかも山上にある本宮は、棚のうえに小さな神殿が置いてあるだけの、とても神社とは見えない単なる小屋なのである。
しかし帰ってから思い返してみると、本宮はたいへん重要な場所に建っていることに気がついた。本宮は町を見下ろす場所に、戸を開ければ正面に町が見えるように建っている。つまり人々の安寧を祈るための最良の場所に建っているのであり、人々の幸せを祈る以上の修行はないと気づいたのであった。
南登山道を登る
この日の行程は、表登山道である南登山道の往復であった。登山口へ入る林道入口にトイレ付きの大きな駐車場があり、林道奥の一の鳥居が登山口、途中にもいくつか鳥居があった。道沿いに十三仏も配置されているが、十三番は山頂ではなく西登山道との出合いに置かれていた。
地図によると中腹にある水場の横に、飯綱山で修行して神通力を身に付けた千日太夫(せんにちだゆう)の屋敷跡があるはずだが、それらしきものは見当たらなかった。ここがこの道で唯一の水場。
本宮手前の景色のいい所に、飯綱修験道の祖、学問行者(がくもんぎょうじゃ)が修行したという西窟の跡もあるが、鳥居と石の祠があるのみで、洞窟らしきものは見つからなかった。
この山は一九一四メートルの高さがあるからそれほど低い山ではないが、登山口との標高差は八百メートルしかなく、しかも見るべきもののない山なので、朝八時には山頂に着いてしまった。そのためたまにはゆっくりしようと、風の強い山頂で二時間ほど過ごした。
なだらかな草原になっている山頂には、火山のなごりの黒い岩がごろごろと転がり、北側の斜面には大量の雪が残っていた。展望のいい山頂であるが霞のため遠くの山は見えず、金山(かなやま)と天狗原山(てんぐはらやま)の辺りが残雪で輝いていたので、つぎはあの辺りを歩いてみようと思った。
山頂で会った人に西窟の洞窟とか、この山で採れたという食べられる砂のことを聞いてみたが、地元の人でさえ名前すら知らなかった。だからそうしたものを確認しながら歩きたい人は、よく知っている人に案内してもらうか、しっかり下調べをする必要がある。
飯砂(いいずな)
飯綱山の名は昔この山で採れた食べられる砂、飯砂に由来するとされる。飯砂の正式名は天狗の麦飯(てんぐのむぎめし)、その名の通り麦飯のような色と形をした粒の集まりであり、乾燥すると味噌の固まりに見えることから、長者味噌、謙信味噌、味噌塚、とも呼ばれる。この山の行者はこれを食べて修行したという。
天狗の麦飯は中部地方の高地の火山地帯でのみ発見されている。地下に層をなして存在し、深さは地下数センチから数十センチ、深いところでは二メートルに達し、地上に露出することもある。その正体は藍藻類(らんそうるい。下等な単細胞植物)や菌類の共生体とされるが、なぜこの地域にだけあるのか、なぜ地下にあるのか、なぜ腐敗しないのか、など多くの謎があり、小諸市にある産出地は国の天然記念物になっている。
登山前日は戸隠神社の例祭に当たっていたので、宝光社(ほうこうしゃ)では世話人さんたちが出て境内の案内をしていた。そこで七〇歳ぐらいの男性に飯砂のことを聞いてみたところ、「ずいぶんと昔、いちど食べたことがある」という答えが返ってきた。「場所は飯綱山頂と本宮とのあいだの道からはずれた岩陰。掘り出して砂を払って食べたが決してうまいものではなく、それこそ味もシャシャリもないという感じだった。山の上が乾燥したのが原因だと思うが今はまったく見つからない」
俳人の小林一茶は、山麓の柏原宿(かしわばらじゅく)の生まれ、一八一七年八月四日に飯綱山に登ったとき次の三句を残した。
「涼しさや飯を掘りだす飯綱山」
「神風や飯を掘り出す秋の風」
「粟飯はここに有りとや女郎花」
飯綱の法
以下はこの山の歴史らしきものと、あまり当てにならない飯綱の法の説明。
応神天皇の世の西暦二七〇年ごろ、山上に大戸道尊(おおとじのみこと)を祀り、飯綱大明神と称したのがこの山の修験修行の始まり、大戸道尊はイザナギ、イザナミ神の二代前の神様だという。
八四八年、学問行者が修験道の行場として飯綱山と戸隠山を開いた。ただし開山したのは役行者(えんのぎょうじゃ)とする説もある。
一二三三年、のちに千日太夫と呼ばれる侍が、この山に千日間こもって修行、飯綱大明神を感得し、「飯綱の法」という神通力を得た。その子も同じように修行して飯綱の法を得、やはり千日太夫と称した。ここまでがこの山の歴史らしきもの。
飯綱の法の内容はよく分からないが、これが、武術といくさの神である飯綱神への信仰、飯綱修験道、飯綱流武術、伊藤流忍法、管狐(くだぎつね)を使う飯綱使いの妖術、天狗の妖術、などの元になったとされる。
あるいは逆に、戦場における精神統一術、戦勝祈願のための祈祷術、兵士や人民に対する人心掌握術、敵陣における人心攪乱術、情報収集術、刺客や呪術による暗殺術、といった兵法の類を集めたものが、最終的に飯綱二十法としてまとめられたとも考えられる。
鎌倉、室町、戦国、の乱世の時代には、戦勝や戦地での無事を祈る祈祷が盛んに行われ、その祈祷のための、飯綱神信仰、不動明王信仰、ダキニ天信仰、天狗信仰、勝軍地蔵信仰、摩利支天(まりしてん)信仰、などが全国に広まっていた。飯綱の法を修するときに祀る飯綱神は、からす天狗が狐の上に立つ姿で表され、これは不動明王とダキニ天とからす天狗が融合した像とされる。また飯綱山は天狗界の大物、飯綱三郎坊の本拠ともいわれる。
飯綱の法は、足利義満、上杉謙信、武田信玄、などから信奉されていたというから、単なるこけおどしの呪術ではなかったはずである。これは推測にすぎないが、飯綱の法の核心部分は、修行によって超人的な精神力を身につけることだったのではないかと思う。この法を修する人は女性を近づけてはならないとされるが、不犯を守って修行すれば超人的な精神力を得ることができるということは、仏教やヨガでも説くことである。
ところが乱世が終わって江戸時代になると、そうした精神力は顧みられなくなり、核心部分が廃れたことで飯綱の法は、狐信仰を利用した祈祷、管狐や手品を使ったまやかし、狐つきの俗信によるたぶらかし、の類になり果て、消滅したのではないかと思う。
飯綱の法が伝わらなかったのは、その核心部分が文字では伝えられないものだったからかもしれない。たとえば剣の極意を文字で伝えるのは不可能なことであるし、文字で表現したとしても月並みな内容にしかならない。精神的ことを文字で表現するのはさらに難しいことである。
管狐(くだぎつね)
管狐というのは竹筒に入れて持ち歩ける小さな狐のこと。このイヅナとも呼ばれる他者には見えない小さな狐、あるいは狐の霊を使って、ひそかに情報を集めたり、人に取り憑かせて運命を良くしたり悪くしたり、病気にしたり殺したり、などのことをするのが飯綱使いである。
この管狐の話を読んで、私はすぐにイイズナという世界最小の肉食動物のことを思い出した。イイズナはイイズナイタチとも呼ばれるイタチ科の動物、高山に棲むオコジョに形も生態もよく似ているがそれより一回り小さく、オコジョと違って尾の先が黒くなく、尾も小さい。アジア北部、ヨーロッパ北部、北アメリカに分布しており、国内では、北海道、青森県、山形県、にだけ生息している。
イイヅナもオコジョも狐によく似ているし、オコジョにはクダギツネの呼び名もあったというから、これらを飼い慣らして竹筒に入れて持ち歩き、「これが管狐でござる」と言って、人をたぶらかしたのではないかと思う。イイズナを知っている人はほとんどいないから、オコジョを知っている人でもイイズナにはだまされたかもしれない。私もオコジョは見たことはあるが、イイズナは見たことがない。
私がオコジョを見たのは、南アルプスの間ノ岳(あいのだけ)の山頂から少し下った標高三千メートルほどの稜線。そのオコジョはエサを探しているらしく、しきりに私の周りを走り回っていた。胴の割に足が短く決してかっこいい走り方ではない。そして私が立ち止まって見ていたら、足もとに走り寄ってきて山靴の上に前足を乗せてこちらを見上げた。そのため上と下でにらめっこするような形になった。あまり人を恐れない動物のようである。
それから今度は、ヒナを連れた雷鳥を追いかけ始めた。メスの雷鳥はヒナを守るためケガをした振りをしてオコジョの注意を引いていたが、狩りが成功したかどうかは確認できなかった。
参考文献「スキャンダラスな神々」川副秀樹 二〇〇六年 龍鳳書房
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