池木屋山(いけごややま。1395.9m)
平成二一年四月七日(火)晴
池木屋山は奈良と三重の県境をなす台高(だいこう)山脈の中央にある山。主稜線上にある山頂を縦走路が通る山。なお台高山脈の名は、山脈南端の大台ヶ原山(おおだいがはらやま)と、北端の高見山(たかみやま)から来ている。
池木屋という山名は、山頂付近にあった池と木屋(こや)に由来するとされるが、池も木屋もすでにないという。木屋は辞書によると、「工事用の仮設の簡素な建物。材木を保管したり大工の仕事場とする」とあるから、意味は小屋とほとんど同じらしい。まぎらわしい山名なので池小屋山と誤記した道標があった。
日帰りでこの山に登るには、この日私が歩いた三重県飯高町(いいたかちょう)の宮ノ谷(みやのたに)渓谷からの道を往復するしかなく、宮ノ谷林道を詰めた登山口には十台分の空き地がある。
この山に登るのは今回が初めてであるが、宮ノ谷渓谷は四〇年ほど前、一度歩いたことがある。この渓谷にはそのときからすでに遊歩道が完備していて、高滝(たかたき)や風折(かぜおれ)の滝まで、奇岩奇勝を楽しみながら手軽に入ることができた。だから秘境と呼ぶような渓谷ではないが、交通の便の悪さが幸いして今も豊かな自然が残っている。
風折の滝の落差は七〇メートル、高さの割に水量がなく風が吹くと落下する水が折れ曲がる、ということでこの名が付いたというが、今この滝へ入るには沢登りの装備が必要である。
四〇年前には渓谷の入り口に小さな神社があった。宮ノ谷の名はこの神社があることで付いた名だと思う。そのときはこの神社の境内にテントを張り、そこで赤まむしを踏みそうになったことを覚えている。また渓谷を散策しているとき、遊歩道の工事をしている人と親しくなり、その人の家でお昼をご馳走になったこともあった。
それは私の二十歳の原点というべき旅だったので、四〇年前の自分が今もそのあたりをうろついているような気がしてならず、それが今回この山を選んだ理由であった。今も四〇年前と同じことをやっているのだから、人間は変わらないものだと思うが、蓮(はちす)ダムができたことで現地の状況は一変し、過去の自分探しのつもりでやって来たのに、道は想い出と一致せず、テントを張った神社も周囲の家もなくなっていた。
飯高町から西へ山を越えると奈良県へ出る。つまり山をへだてているとはいえ、昔ここは都に隣接する地域だったので、この辺りには古い寺や神社が多い。前泊した「森のホテル・スメール」は登山口から三〇分ほどの距離、下山後ここで汗を流すことができる。
宮ノ谷出発
宮ノ谷渓谷の散策路は、高滝まで飯高町がしっかり整備している。鉄製の五〇メートルの桟橋が一本、階段十五、橋三五、中ほどにはトイレと小さな休憩小屋、といういたれり尽くせりの状態である。登山口から高滝までは一時間半ほどの距離、渓谷歩きを楽しみながら足慣らしができる。高滝はすっきりとした立ち姿の五〇メートルの直瀑、到着したとき真正面から朝日を浴びて、滝にくっきりと虹がかかっていた。
高滝まで道がよく整備されているので、この先もこの調子で行けるだろうと思いたくなるがそうはいかず、この先は踏み跡ていどの道に急変する。そしてその手始めが高滝の巻き道。高滝の周囲は垂直の壁になっていて、とても登れるようには見えないが右の方に巻き道がある。ここがこの日一番の難所、何度も滑落事故が起きた場所なので、登りつめた所にお地蔵様がまつられていた。
この巻き道は木立に隠れて落ちる猫滝で終わるが、先にまだ何ヵ所か巻く所があり、テープと踏み跡を慎重にたどっていても、巻き道や徒渉点を何度も見落とした。巻いたり徒渉したりするのは、その先が通過できないということなので、見落とすと無駄足を踏むことになる。
奥の二俣はキャンプ適地、五人用テントが三張り設置できる、と本にあるが、その一張り分は炭焼きの窯跡の中。ここで炭を焼いて、この険しい道を担ぎ下ろしていたのだから、昔の人はすごいと思った。隣の飯南町(いいなんちょう)にある「深野の棚田」は、山の急斜面に石積みの棚田がえんえんと続くところ、しかもその石は下の川から運び上げたものなので、ここでも昔の人はすごいと思った。
この日の道の累積標高差は一二五二メートルとあるが、登山口から三分の二の奥の二俣までは、沢道なので高度をかせぐことができず、その分、その先にきびしい急登が待っている。そのやせ尾根の急登の名前はシャクナゲ坂、ヒメシャラや高野槙も多かったが花はまだ咲いていなかった。
山頂はブナ林に覆われ、南の大台ヶ原方面がわずかに見えるのみ、日陰に雪が少し残っていた。おだやかな天気の静かな山頂で、時間の許すかぎりゆっくりと過ごす。今日は人に会わないだろうと思っていたら、下りで一組の男女とすれ違った。三重ナンバーの車が駐まっていたので地元の人らしかった。
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