会津駒ヶ岳(あいづこまがたけ。2132.4m)

  平成二〇年十一月十二日(水)快晴

会津駒ヶ岳は陸の孤島といわれた福島県の桧枝岐(ひのえまた)村にひっそりとそびえる山。長大な尾根の上に池と湿原が広がる百名山の一峰。

今回の旅の目的は、この山と、国道三五二、桧枝岐村、弥彦(やひこ)神社、の四ヵ所であったが、とくに一級酷道と評される国道三五二を走るのを楽しみにしていた。

ところが関越道を出るとき確認したら、国道三五二はその日の正午に冬の通行止めに入ったという。まだ十一月中旬の、まったく雪のない快晴の日なのにである。出発する前に桧枝岐村のホームページで道の状況を確認したが、通行止めのことは出ていなかった。村の生命線の道なのにのん気な話である。なお止めていたのは銀山平(ぎんざんだいら)と御池(みいけ)の間である。

そこで小出(こいで)の道の駅で計画を練りなおし、国道二五二で六十里越え峠を越えることにした。そのため桧枝岐村まで三時間もかかったが、現地で聞いた話では、国道三五二は距離は短かくても道の悪さが半端ではないので、大して時間はかわらないとか。旅に出るのはもめ事を買いに行くようなものなので、こうしたことは付きものである。

     
滝沢口出発

この日の行程は、滝沢登山口から入山、駒ヶ岳山頂、中門岳(ちゅうもんだけ)、そして同じ道をもどる、であった。登山口は林道奥の木の階段、そこまで車で入れる。登山口で紅葉が最終段階を迎えていた。カラ松の落ち葉に埋もれたこの林道ぞいには、百台分の空き地がある。

出発はカラ松の植林帯、それがミズナラ、ブナ、ダケカンバと変化し、最後のオオシラビソは背を低くしながら山頂まで続いていた。広い尾根を一定の角度で登っていく歩きやすい道、山頂まで下りは一歩もなし。

一時間半ほどで水場の上の休憩所に着く。水場は急斜面を少し下りたところにあって、水量はわずかだが大河の最初の一滴を汲むことができる。そこからしばらく進むと、オオシラビソと笹のとり合わせの美しい大きな尾根が現れる。この尾根の上に山頂があるはずだが、なだらか過ぎてどこが山頂か分からない。

九合目から先は雪景色となり、すぐに見晴らしのよい山の肩に建つ駒ノ小屋が見えて来る。そのあたりから木道の上を歩く。小屋はすでに営業を終了しており、一部が避難小屋として開放されていたが、その部屋は土台部分に作られているので、雪が積もると入れなくなるのではと心配した。小屋下にある駒ノ池は凍りついていた。

小屋の回りをカラスが二羽、元気一杯という声で鳴きながら飛び回っていた。エサがあるとは思えないこんな寒い所になぜいるのかと思った。小屋からひと登りで山頂着。山頂は雰囲気のよい丘の上にあるが、樹木に囲まれ見えるのはわずかに燧ヶ岳(ひうちがたけ)方面のみ。

山頂と中門岳の間は、池と湿原が点在する広大な尾根の上を、兎の足跡を見ながら、池をつないで設置された木道を道しるべに歩く。雪がなくて歩きやすかったので、池のあるところは池の氷の上を歩いたが、昼頃になると強い日射しでゆるんだ氷を踏み抜いてしまった。またゆるんで木の上から落ちてきた雪を何度も頭から浴びた。

単独登山なので足のケガが一番こわい。そのため気をつけているのだが落とし穴にも十回以上はまった。笹原の上に雪が積もっているので、至るところに落とし穴ができているのである。アイゼンよりカンジキが正解であった。

広大な尾根の広がりの向こうに、燧ヶ岳、平ヶ岳、越後三山、那須岳、男体山、日光白根山、などが見えるこの尾根が、この山の核心部であった。

山上では誰にも会わず、ひとりで心ゆくまで景色と雰囲気を味わい、何度も振り返って山に別れを告げ、今日はとびきりの名山を独占できたと思いながら下山しているとき、七〇過ぎと思われる男性が登ってきた。二本の杖をつき、曲がった腰に百メートル先まで響く特大の鈴を下げ、雪の状態を把握しているのかザックにカンジキを吊るし、挨拶をしても脇目も振らずにすれ違っていった。日帰りにはぎりぎりの時間であるが、登山口にこの人のものと思われるパンツを干している車が駐まっていたので、やはり日帰りらしかった。車中泊で百名山踏破を目ざす人と見た。

そこから少し下りたところで、やはり二本の杖をつき、百リッターぐらいのザックを背負い、びっしょりと汗をかいて登ってきた男性が、やはり脇目もふらずにすれ違っていった。頑丈な三脚をザックの上に載せていたので、こちらは避難小屋泊まりで日の出をねらう写真家と見た。

  
檜枝岐村(ひのえまたむら)

桧枝岐村は、会津の秘境、陸の孤島、などと呼ばれていた平家の落武者伝説の残る村。深田久弥氏が会津駒に登った昭和十一年には、隣村まで三里、郵便局まで五里、汽車のあるところまで二日、という村であった。標高千メートルの高所にあるため米ができず、急斜面の谷底にあるため平地もなく、昔は山を切り開いた畑でソバ、ヒエ、アワを作り主食にしていた。

そのため山に入れる季節には、村人の多くは山中の出作り小屋に住んで仕事をしていた。桧枝岐という村名は良質の桧(ひのき)を産出したことに由来するというが、なぜ桧枝岐かは分からない。なぜかこの辺りには岐(また)の付く地名が多い。現在は、会津駒ヶ岳、燧ヶ岳、尾瀬、などの登山口に位置する地の利を生かした観光業の村に変身しており、日帰り温泉の「駒の湯」と「燧の湯」がある。

この村には姓が三種類しかないという。平野、星、橘、以外の姓はこの村には存在せず、平野姓の人は平家の落人の子孫だというのであるが、姓が三種しかないことは墓を見ると分かる。この村の墓はすべて道路に面して作られている。これは冬に墓参するための豪雪地帯の智恵だろうと思った。

この村は重要無形文化財の桧枝岐歌舞伎(かぶき)を伝承している。これは江戸時代に伊勢参りをした人が、江戸で見た歌舞伎を見よう見まねで演じたのが始まりとされ、江戸時代の歌舞伎を今に伝える貴重なものだという。つまり、へき地のためほとんど変化せずに伝承されてきたということである。

その二六〇年の歴史を持つ農民芸術は、年に三回、村の鎮守さまの拝殿で上演される。この茅葺(かやぶ)き屋根の拝殿は、明治二六年に村が全焼したあとに再建されたもので、国の重要有形民族文化財になっている。拝殿の舞台をかこむ裏山の斜面全体が階段状の観客席になっていて、観客席のいちばん上、全体を見下ろすところに本殿がある。つまり神社全体が神さまに歌舞伎を奉納する野外劇場になっているのである。この地形を利用した劇場の作りは見事だと思った。

     
弥彦神社

越後の一ノ宮、弥彦神社は新潟県の霊峰、弥彦山(やひこやま。六三八メートル)の山懐にある。山全体が神域という弥彦山の紅葉を背にした神社のたたずまいはよかった。ここの宝物殿には、刃渡り二・二メートルという大太刀が二振り展示されていて、その一振りは重文指定であるが、両方とも重すぎて実用にならない奉納用に作られたものとか。

昭和三一年の元旦にこの神社で大事件が発生した。初詣の人に喜んでもらおうと餅まきをしたところ、殺到する人の重みで境内を囲む玉垣がくずれ、支えを失った人々が高さ二メートルの石垣の下に落ちて積み重なり、死者一二四人、重軽傷者七七人という大惨事になったのである。人が集まると予想もできない事件が発生するものである。

弥彦山は「日本百名山」の後書きに名前が出てくる。著者が百名山の選定基準を書いた文の中に、「付加的条件として、大よそ千五百メートル以上という線を引いた。山高きをもって尊しとせずだが、ある程度の高さがなくては、私の指すカテゴリーに入らない。例えば、越後の弥彦山や、京都の比叡山や、豊後(ぶんご)の英彦山(ひこさん)など、昔から聞こえた名山に違いないが、あまりに背が低すぎる」と登場するのである。今この山は山頂付近まで車でのぼることができる。

弥彦山の横に尾根続きでそびえているのが、良寛さんが住んでいた国上山(くがみやま。三一三メートル)、良寛さんは初めはこの山の中腹にある五合庵(ごごうあん)に住み、歳をとると山麓の乙子(おとご)神社の草庵に移ったのであった。良寛さんが円熟した作品を残したのは乙子神社の草庵、二つの庵とも元の場所に再建されているが、元の姿かどうかは分からない。

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