越後駒ヶ岳(えちごこまがたけ。2002.7メートル)

  平成二〇年十月二一日(火)。曇

越後駒ヶ岳は新潟県東部にある百名山の一峰。広くて見晴らしのよい山頂と、雪に削られた急峻な山腹をもつ一等三角点の山。駒ヶ岳の名は駒(こま。馬)の雪形に由来するとされ、所在地の地名から魚沼(うおぬま)駒ヶ岳とも呼ばれる。

この山と、中ノ岳(なかのだけ)、八海山(はっかいさん)、の三山は越後三山と呼ばれ、水無川(みずなしがわ)源流をかこむ稜線がこれら三山を結んでいる。三山とも修験者が開いた山とされ、修験の山としては八つの岩峰を列ねる八海山が有名であるが、三山の代表としては重厚さと格調の高さを兼ね備える駒ヶ岳が適任だと思う。

この日の行程は、枝折峠(しおりとうげ)から入山し、山頂までの標高差千メートルを明神(みょうじん)尾根で往復、といういちばん入山者の多い道。枝折峠にはトイレを備えた、電話の通じる、三〇台分ほどの駐車場はあるが、水場はない。

前日の夕方、下見に行ったとき、その駐車場のすみに老夫婦がテントを張っていた。「明日、駒ヶ岳に登ります。足が遅いので、できるだけ早く出発するためここで寝ます」とか。早立ちには有利な登山口でのテント泊だが、気の毒なことに夜中に雨が降った。

百名山の深田久弥氏は、枝折峠から入山、駒ヶ岳、中之岳、八海山、と縦走し、大崎口へ下山している。途中、中之岳の手前で幕営したが、やせ尾根のため場所がなく登山道にテントを張ったとある。

夜間に冷えこんだことで当日は濃い朝霧が発生し、枝折峠周辺では銀山平(ぎんざんだいら)の雲海を撮影しようと、暗いうちからたくさんの人がカメラをかまえていた。銀山平は雲海の名所らしかった。ところが日が昇ると、その雲海が上昇してきて山を覆ってしまい、暖かくなればさらに上昇して消えるだろうと思っていたら上昇せず、一日中、遠目がきかなかった。

明神尾根の道は、途中の峰を丹念に踏んでいく起伏のはげしい道、両側に木が茂っていて景色の見える場所は少ない。山中で十数人の登山者と挨拶をかわした。平日にこれだけ入山者があるのだからさすが百名山。駐車場でテントを張っていた夫婦とも再会した。二人ともかなりの健脚であった。今年は紅葉の発色が悪く、その中で山ウルシの葉の赤と、ナナカマドの実の赤が目についた。

出発して二〇分ほどで「銀の道」を横切る。これは只見川上流の鉱山から銀を運んだ、人馬の絶えることがないといわれた道であるが、それは江戸時代の話で今は踏み跡がわずかに残るのみ。

前駒という小さな峰で道の雰囲気が一変する。ここで樹林帯が終わって駒ヶ岳が全身をあらわし、あとは威風堂々たる山に向かっての一気の登りになる。広大な斜面にのこる雪が、冬の積雪のすごさを物語る。山の肩にある「駒の小屋」は閉じていた。これは避難小屋ではなく、夏だけ素泊まりのみの営業小屋、小屋の下にこの道でただ一ヵ所の水場がある。なお小屋の上の斜面に残雪があるときはその下も水場になる。

小屋からひと登りで山頂着。山頂はすっぽりと雲に包まれ、かろうじて中ノ岳が見えただけなので、これでは駒ヶ岳でなく雲ヶ岳だという声が聞こえてきた。修験道の山ということで、五〇センチほどの猿田彦の命の銅像や石碑がいくつか立っている。登山道の途中にも観音菩薩の石像や、避難小屋になりそうなお堂があった。

     
国道三五二

下山後、枝折峠を出発しようとしたら、まちがえて観光バスが大湯温泉から峠の方へ入ったことが原因で、その間が通行止めになっていた。すれ違いができず、枝折峠まで来ないと方向転換もできないので、バスが着くまで待ってくれというのである。こういうことがあるから道路標識はよく見なければいけない。なお枝折峠と銀山平の間はバスはまったく通行できない。

そういう道なので、枝折峠は魔の峠として知られ、大湯温泉、枝折峠、銀山平の間の国道三五二は平成十八年まで時間を区切った一方通行規制がおこなわれ、しかも大型車や二輪車は通行禁止になっていた。もちろん大型車は今も通行禁止。

この国道三五二沿いには、越後駒ヶ岳、平ヶ岳(ひらがたけ)、燧ヶ岳(ひうちがたけ)、会津駒ヶ岳という四つの百名山が並んでいる。つまり百名山に含まれる駒ヶ岳四峰のうちの二峰がここにある。なお残りの二峰は木曽駒と甲斐駒。

この国道が福島県の桧枝岐村(ひのえまたむら)まで開通したのは昭和四七年のことで、当初は国道になっておらず昭和五〇年に国道に格上げされたが、今も銀山平と桧枝岐村の間は冬は通行止めになる。しかもその区間は一級酷道と評される道幅一車線半の林道のような道、そのうえ沢の水を道路上を横断させて流す、林道でもほとんど用いていない洗い越しという方法をとっているので、大雨のときは通行できず無理して通れば車が流される。

銀山平の奥に十二山神社という小さな神社があった。この神社のある辺りが江戸時代に銀鉱山があった場所。そこからダム湖にむかって急な歩道を下りていくと、坑道の入口が二つ残っているが、銀山のほとんどはダム湖に沈んでいる。

解説板によると、一六四一年に折立(おりたて)村の源蔵という百姓が、只見川(ただみがわ)で鱒を獲っているとき崖に光る岩があるのを見つけ、持ち帰って調べてみたら銀鉱石と分かり、高田藩に注進した。高田藩は山の神をまつる十二山神社を建ててお山始めの儀(起工式)をおこない、大福銀山と名づけて一六五七年から本格的に採掘を開始した。

そして一六八九年からは幕府の直営鉱山となり、江戸の事業家、河村瑞軒に経営がゆだねられ、こうして山深い村は銀山景気にわき、小出(こいで)から銀山まで八つの宿場が作られ、寺や遊郭までそろった千軒の鉱山町ができ、天下の険と恐れられた枝折峠は人馬の影の絶える間がないと言われるようになった。

ところが銀山景気は長くは続かず、一七〇六年に幕府は銀を掘り尽くしたとして閉山した。排水作業の手おちで多数の死傷者を出したのも閉山理由の一つとされる。幕末の一八五〇年からは鉛の採掘がおこなわれたが、それも只見川の川底を破って三百人あまりの死者を出し、一八五九年に閉山した。

国道三五二と並行するシルバーラインは、奥只見(おくただみ)ダム建設のために作られた、全長二二キロのうちの十八キロがトンネルという工事用道路を転用した道。岩盤むき出しの暗いトンネルが十九も続く、走っていると地底人にでもなったような気のする道に、なぜシルバーラインの名をつけたのかと不思議に思ったが、名前の由来は「銀の道」だと気がついた。

このトンネルは工事用に作られたものなので高さも幅も節約している。そのため観光バス二台がすれ違うときには手間がかかり、そのたびに車の列ができる。この道はオートバイも自転車も徒歩も通行禁止になっている。狭いうえに湧水のため滑りやすく事故が多発したからという。

「秘境奥只見」という看板が奥只見ダムの駐車場に出ていたが、大型バスがずらりと並ぶさまはとても秘境には見えなかった。このダムは佐久間ダム、黒四ダムとともに発電用巨大ダムのはしりになったもの、この豪雪地帯に降った雪を電気に変えることを目的に、昭和二八年に着工、犠牲者一一七人という難工事のすえに、三二年に完成した。このダムは平成二〇年に徳山ダムができるまでは貯水量日本一を誇り、水を抜いてから貯め始めると、ひと冬分の雪どけ水がダム湖に収まるという。

このダム湖の通称は奥只見湖、正式名は銀山湖、この湖は釣り好きで知られた作家、開高健氏のお気に入りの釣り場であったが、特大のイワナが釣れるというのは昔の話とか。彼が釣りの基地にしていた銀山平には温泉もある。

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