袈裟丸山(けさまるやま。一九〇八メートル)

  平成十九年十一月十五日(木)晴

栃木と群馬の県境に長々と横たわる袈裟丸山は、自然石を利用して作った涅槃像(ねはんぞう)のある山。花崗岩の巨岩の上に横たわるその像は、解説板によると「北を枕に西を向き」とあるが、自然石を利用しているため頭北面西(ずほくめんさい)の手本通りにはいかず、実際は西枕で南を向いている。

お顔の角度も横向きというより上向きに近く、全長は四メートルほど、正直なところかなり稚拙な作り、いつ誰が何のために作ったかは不明。弘法大師説とか、勝道上人(しょうどうしょうにん。日光を開いた修験者)説もあるが、そんなに古いものではない。この像は寝釈迦像(ねしゃかぞう)とも呼ばれるが、涅槃像と寝釈迦像はちがう。涅槃像は釈尊入滅の姿、寝釈迦像は寝ている姿。

近くには四角い岩が積み重なってできた相輪塔(そうりんとう)と呼ばれる石塔もある。この塔は自然がすべて作り上げたもの、解説板によると塔の高さは十八メートル、幅は三メートル。塔の下には石仏がいくつか置かれているから、信仰の対象にされてきたことが分かる。なお相輪塔というのは柱の上に相輪を載せた塔のこと、相輪は五重塔や三重塔の先端に付いている金属製の飾りのこと。

相輪塔からすこし登ったところに賽の河原(さいのかわら)もあるが、これまで見た中で一番小さな賽の河原であった。解説板にいわく。「その昔、弘法大師が夜ここを通りかかると、赤鬼青鬼に責め立てられて子供たちが石を積んでいた。大師はそれを見て哀れに思い、三夜読経して子供たちを済度した。子供を亡くした親がここへ来て石を積むと、死んだ子供に会うことができると伝えられている」

袈裟丸山の名も弘法大師に関係するという。現地の説明によると、中国から帰国した大師が赤城山(あかぎやま)に根本道場を開こうとしたとき、仏の地になることを嫌った赤城山の神が、一谷を隠して九百九十九谷しか現さなかった。そのため大師は最後の一谷を探して袈裟丸山まで来たが見つからず、落胆して袈裟を丸めて残し下山した。そのため袈裟丸山の名が付いたというのである。ただしこの説明では、なぜ谷が千なければならないのか、なぜ袈裟を丸めて残したのか、その理由が不明。

袈裟丸山は、小丸山、前(まえ)袈裟丸山、後(うしろ?)袈裟丸山(一九〇八メートル)、中袈裟丸山、奥袈裟丸山、法師岳などからなる山の総称であり、この中でいちばん高いのは一九五七.九メートルの奥袈裟であるが、最高点があるのは奥袈裟と法師岳の間にある一九六一メートルの無名のピーク。なお道が付いているのは後袈裟までであるが、尾根を北上すれば難読山名で知られる百名山の一峰、皇海山(すかいさん)まで縦走できる。

この山は自然の豊かな山なので、涅槃像がなくても登りに来る価値は充分にある。避難小屋が二ヵ所あるから、二日かけてゆっくり歩く手もある。この日は穏やかな天気に恵まれたが、これは雪が来るまえの最後の好天であったと思う。狩猟の解禁日だったので、銃声や犬の鳴き声が遠くから聞こえてきた。

     
塔の沢出発

この日の行程は、「塔の沢」登山口から後袈裟丸山までの往復。塔ノ沢の名は沢の上部に相輪塔があることに由来するのだろう。登山口の駐車場は六〜七台分の広さがある。

道の前半は塔の沢を遡上する道、水の心配はないが徒渉の繰り返しがある。冬枯れになったばかりのときなので、落ち葉が沢道をさらに分かりにくくしており、この日は入山者がもう一人いたが、その人は先に出発したのに支沢に入りこんだと言って後ろから追いかけてきた。

自然石の仏像があるから岩の多い山だろう、という予想は当たっていた。そこかしこに巨岩がそびえ、それもなぜか羊羹を切ったような形の長方形の岩の積み重なった岩場が多く、城の石垣かと錯覚するような岩場もあり、相輪塔もそうした四角い岩の積み重なりであった。川の中も石ころばかりなので、どうやらこの山は全体が花崗岩でできているらしい。

この道でいちばん景色が良かったのは小丸山。袈裟丸連山から皇海山へと続く尾根や、庚申山(こうしんざん)から鋸山(のこぎりやま)へと続く鋸尾根を眺めるのに最適の場所であった。また遠く日光白根山(しらねさん)、男体山(なんたいさん)も見え、白根山だけ雪をかぶっていた。小丸山手前の広い尾根で横道に入りこんでしまった。この辺りには獣道が多い。

急な坂を登りつめた前袈裟の山頂は樹木のため展望がなく、「後袈裟への道は危険につき通行禁止」という看板が立っていた。この警告に従えばここから引き返すしかないが、前のつく山で引き返すのは心残りだし、どう危険なのかも見たかったので後袈裟まで行ってみた。

前袈裟と後袈裟の間はやせ尾根が続き、鞍部の八反張(はったんばり)は特にやせている。だから危険と言えば言えなくもないが、ここが危険というならたいていの山は歩けない。しかもこの尾根はこの山でいちばん魅力的な場所であるし、ここを止めると塔の沢と郡界尾根を一周する道が歩けなくなる。そんなことを考えながら登った後袈裟も樹木のため展望がなかった。

     
足尾銅山(あしおどうざん)

この山の下には日本の公害の原点といわれる足尾銅山がある。今回この山を選んだのは、袈裟丸山という山名と、涅槃像と、足尾銅山に興味があったから。

足尾銅山は備前楯山(びぜんたてやま)という山の地下にある。ここで鉱脈が発見されたのは天文十九年(一五五〇年)のこととされ、本格的な採掘が始まったのは江戸時代とされる。そして足尾千軒といわれるほど足尾の町は発展し、江戸時代の代表的な通貨、寛永通宝もここで作られたが、採掘量の減少のため幕末には閉山状態になっていた。

それを明治十年に、古川市兵衛が買いとって有望な鉱脈をつぎつぎに掘り当て、最盛期には日本の銅の四割を産出、従業員一万人、坑道の全長は東京から長崎の距離に匹敵する一二〇〇キロ、という日本最大の銅山に発展させた。昭和初期の足尾の人口は、宇都宮につぐ栃木県第二の二万四千人であった。

ところが昭和四八年に、産出量の減少と銅の輸入自由化のため閉山すると、人口は激減、町はさびれ、今は至るところ廃屋だらけという状態。現在この町で産業といえるものは廃坑利用の観光ぐらい、その観光の目玉はトロッコに乗っての銅山見学。

明治後期に発生した、古川鉱業(現、古川機械金属)を原因企業とする足尾銅山の公害事件の傷あとは、今もはっきりと残っている。その被害は二つに分けられる。

一つは渡良瀬川(わたらせがわ)を媒体に、はるか下流にまで及んだ水と土壌の汚染。銅、砒素、カドミウム、などの鉱毒のため、魚の全滅や稲の立ち枯れが続出したのであり、それを今に伝えるのが七〇キロ下流にある渡良瀬川遊水池。この遊水池は鉱毒で廃村になった村の跡に作られたもの。

もう一つは酸性雨と煙害による樹木の立ち枯れ。今も本山(ほんざん)地区に残っている製錬所から排出された鉱毒ガスのため、周囲の山が禿げ山になったのである。排ガスは渡良瀬川ぞいに上流へ流れたため、上流の三つの谷の被害が特に大きく、木が失われたことで山が崩壊、土砂が川を埋め、大規模な洪水が起こった。そのためこの三つの谷の合流点に日本最大の砂防ダム、足尾砂防ダムが作られたが、今も木が生えない禿げ山への対策は手をつけたばかり。

砂防ダム下の環境学習センターの人に、禿げ山がどこまで広がっているかきいたら、歩いて四時間かかる所まで被害が及んでいるという話であった。砂防ダムから先は林道が通行止めのため確認できなかったが、解説図によると松木川流域の被害が一番ひどいようである。

その松木川上流にある松木渓谷は、日本のグランド・キャニオンと呼ばれる荒々しい渓谷、その渓谷を作り上げたのは足尾の鉱毒ガス、そして松木川には皇海山への登山道がある、ということで、今回は足尾銅山見学と、松木渓谷からの皇海山登山を予定したが、林道に車が入れないので日帰りは無理、山小屋もない、ということで皇海山はあきらめた。

本山地区では大規模な植樹が始まっていたが、一企業が引き起こした公害の回復工事に税金を投入することには批判があるという。しかも植樹する土地はその企業が所有する土地なのである。

しかし古川鉱業に言わせれば、鉱毒問題は古川市兵衛が経営する前から存在していたし、禿げ山になったのは、山火事や人口増加による樹木の乱伐も原因しているのだから、自分たちだけに責任があるのではない。われわれは国策に従って仕事をしてきただけ、そして日本の発展と雇用の創出に多大の貢献をしてきたではないか、ということになる。

古川鉱業を興した古川市兵衛は、京都岡崎の造り酒屋の次男として生まれ、生家の事業不振のため子供の頃からでっち奉公や行商で苦労したが、生糸の輸出で商才を発揮して独立、後半生は鉱山経営に専念、明治三六年に七二歳で亡くなった。

鉱毒反対運動で有名な田中正造は、渡良瀬川下流の現在の佐野市で、天保十二年に名主の長男として生まれ、十七歳で名主になった。ところが領主六角家の悪政を訴え続けたため投獄、追放され、後に政治を学んで県会議員となり、次いで衆議院議員になって足尾鉱毒問題を帝国議会で訴え続け、ついには議員を辞職して反対運動に専念した。

そして明治三四年には明治天皇への直訴を試み、直訴は失敗したがこの行動は大きな成果を上げた。富国強兵策をすすめていた当時の政府は、鉱毒問題の解決に消極的であったが、天皇直訴事件で鉱毒問題が全国的に知られるようになったことで、対策を余儀なくされたのであった。彼は大正二年に七二歳で亡くなった。

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