恵那山(えなさん。2191メートル)
平成十九年六月二七日(水)曇
恵那山は木曽山脈の南端にある百名山の一峰。岐阜と長野の県境になだらかに伸びる稜線が、船を伏せたように見えることから船覆山(ふなぶせやま)とも呼ばれる山。
この山は天照大神(あまてらすおおみかみ)の胞(えな)を山頂に納めた山と伝えられ、恵那山の名は胞山(えなさん)から来たされる。胞というのは出産のあとに出てくる胎盤のこと。しかも山麓には天照大神が産湯をつかった湯船もあるというので、地図で山の周囲を調べてみたら湯船沢という温泉が見つかり、そこが湯船のある場所だろうと下山後その温泉に立ち寄ってみた。すると受付の人がこんなことを言っていた。
「湯船沢というのはこのあたりの古い地名です。この温泉の前を流れる川は湯船沢川といい、この川は上流で温川(ぬくかわ)と冷川(つめたがわ)に分かれています。おたずねの湯船は温川の上流にあるのですが、道がないので山仕事の人ぐらいしか見たことがありません。話のタネに私も見に行こうと思ったことがあるのですが、あんたでは無理だと言われてあきらめました。ただし七〜八年前の豪雨で埋没し今もそのままになっているようです」
そのとき見せてもらった写真によると、湯船というのは川床にできた水槽のような岩盤の窪み、地形や水量から判断するとかなり上流にあるらしい。
恵那山には登山道が四本ある。その中で利用者がいちばん多いのは黒井沢(くろいざわ)登山口からの道であるが、登山口に十台ほどしか駐車できないことと、そこへ入る中津川沿いの林道が狭い、という欠点がこの道にはある。
この山の表登山道は、川上(かおれ)集落にある恵那神社の前宮(まえみや)からの道であるが、いまこの道を歩く人はほとんどいない。日本アルプスの父ウェストンも歩いたというこの道が嫌われるのは距離が長すぎるため。登山道は一合目から十合目までの十段階に分けるのが普通であるが、この道には二十合目まである。
登山前日その前宮にお参りしたが実に雰囲気のいい神社であった。ここが前宮ということは、山頂にあるのが本宮ということになる。境内には川上集落に伝わる恵那文楽を奉納するための文楽奉納殿や、樹齢千年という二本の杉の巨木があった。
距離がいちばん短いのは広河原(ひろがわら)からの道。この道の欠点は登山口のある林道が通行止めになっているため、片道二キロの林道歩きをさせられること。
そして私が往復したのが神坂(みさか)峠からの道。これは主稜線上の縦走路なので景色はいいが水場はなく距離も長い。「百名山」の深田久弥氏は黒井沢から入山し、この道で神坂峠に下山、峠の近くにある小屋に泊まったとある。
その小屋というのはおそらく万岳荘(ばんがくそう)のことだと思う。万岳荘は何でこんな所にこんな立派な小屋があるのかと不思議に思ったほど大きくて立派な小屋。利用するには予約が必要であるが、管理人が不在でもトイレと水場は利用できる。なお峠から万岳荘の方へ入ったところに登山者用の駐車場がある。
神坂峠を通る峰越林道は、峠から長野県側へ二キロくだった所で封鎖されていた。そのため広河原登山口に車で入れないのである。お金をかけて作った立派な林道を、理由もなく止めているはおかしいと思ったが、長野県側にある観光施設のローブウェイが封鎖の原因だという噂が流れていた。ロープウェイの客を逃がさないように通行止めにしているというのである。
東山道(とうさんどう)
神坂峠は木曽谷と伊那谷(いなだに)とを分ける峠。そして昔この峠を東山道という街道が通っていた。東山道は都と、中部、関東、東北地方、とを結ぶために大和朝廷が作った長さ千キロの道。西から木曽谷に入ってきた東山道は、木曽谷の奥にある難所を避けるため、神坂峠を越えて伊那谷へ入り、伊那谷を北上していたのである。
ところがその神坂峠は標高一五八五メートルという東山道最大の難所だったので、木曽谷を通る道が整備されると神坂峠越えの道は使われなくなり、同時に恵那山もさびれてしまった。今は神坂峠の地下を中央道の恵那山トンネルが通っている。
東山道を長野県側へ下りたところに神坂神社という小さな神社がある。小さいとはいえこの神社の歴史は古く、境内には日本武尊(やまとたけるのみこと)の腰掛け石、防人(さきもり)の歌碑、日本杉(やまとすぎ)という杉の巨木、栃の大木群、などがある。日本武尊は東征の帰路ここから神坂峠を越えたとされ、恵那山にも登ったとされる。
防人の歌碑には九州へ向う防人が神坂峠で詠んだ歌が彫られている。「ちはやふる神の御坂に幣(ぬさ)まつり、斎(いわ)う命は、母父がため」。意味は「荒ぶる神の領域である神坂峠で、ぬさを手向けて旅の安全を祈るのは、故郷で待つ母と父のため」ということであろう。出典は万葉集、この防人は信濃の国の若者とある。旅人たちが神坂峠で安全祈願の祭祀をおこなったことは、神坂峠遺跡から出土した大量の峠神への捧げ物によって裏付けられている。
東山道を岐阜県側におりたところに強清水(こわしみず)の水場がある。ここが峠越えの道の岐阜県側の基点であり、ここから神坂神社までが峠越えの難所の範囲である。この道は今も歩くことができる。
強清水の上に風穴の跡が残っていた。ここでいう風穴は山の冷気を利用した天然の冷蔵庫の石室(いしむろ)のこと。この山の地下には冷気の貯蔵庫があるらしく、堆積した岩のすき間から冷気が吹き出て来る場所がある。その冷気の吹き出す穴が風穴であるが、ここではそこに作られた石室も風穴と呼んでいるのである。
ここの風穴は養蚕に利用されていた。カイコの成長を調節するための冷蔵庫として使われていたのである。強清水の先に今も使われている石室が一つ残っていた。その石室の中には入れなかったが、前に立つと周囲の岩のすき間からも冷気が吹き出して来るのがはっきりと分かった。
ブユ山
恵那山はまれに見るブユの多い山。登山口で靴を履き替えているときからブユの攻撃が始まり、下山するまで続いた。なにしろ休憩場所の選定をまちがえたりすると、すぐに百匹ぐらい集まってきて、ブユ柱になって周囲を飛びまわるのだからたまったものではない。ブユは清流でしか繁殖できないというから、これはこの山が清流に恵まれている証拠なのだろう。
以下は百科事典にあったブユの説明。日本にはおよそ五〇種のブユがいて、激しく人を襲うのは十種ほど。吸血するのはメスだけ。皮膚を切って流れ出る血をなめるという吸血行動なので、吸血には時間がかかる。吸血活動は気温と照度に影響され、朝と夕方の薄暮時に活発になり、血を吸う相手に対する嗜好性が強い、などとある。確かにブユは天気のいいときにはほとんど出てこないし、食われる人と食われない人がいるのも確かである。なお東日本ではブヨ、西日本ではブトと呼んでいる。
ブユは蚊よりもはるかにタチが悪く、食われたときはあまり感じないが、後で強烈にかゆくなってきて、慣れていない人だと顔がお岩さんのように腫れあがり、かゆみが一ヵ月も続く。また顔にまとわりつくし、服の中にもぐり込んくるので、車の中に入られると面倒なことになる。ただし恵那山のブユはあまり食いついてこなかったし、食われてもそれほどかゆくなかった。
山頂で会った女性は、この山に慣れているらしく虫よけの網をかぶっていた。この網は私も使ったことがあるが、これには暑苦しいという欠点がある。ブユは煙を嫌うので、小さな焚き火でもすれば不思議と寄ってこないが、歩きながら焚き火はできない。また煙が嫌いなはずなのに蚊取り線香は効かない。もっとも蚊取り線香は屋外では蚊に対してもあまり効果はない。
昔の山里ではブユ対策として、綿のぼろ布を束ねて作った太さ五センチほどのヒモを腰に下げ、火を付けてくすぶらせながら農作業をする、ということがおこなわれていた。ただしこの煙はブユには効くが蚊には効かない、ということで、結論としては虫除けを塗るのが一番だと思うが、これは肌に違和感があるし、汗で流れるたびに塗り直さなければならない。
出発
縦走路ではドウダンツツジが見ごろであった。ほかにはゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、イワカガミ、それに最後のシャクナゲも咲いていたが、花の少ない道である。道の両側に茂る笹が涼風の邪魔をしていた。日本海側で笹といえばチシマザサであるが、ここの笹はクマザサ、笹のためよく見えないが道の両側は崖になって切れ落ちている。
道の中ほどに姥(うば)ナギと天狗ナギがあった。ナギは崩壊地を意味する古語とあるから、この山は昔から崩壊を続けているのだろうが、両方とも通過に問題はない。だから黒井沢登山口にあった立て札の、「神坂峠への道は崩壊とクマザサのため不明になっている」という警告はまちがいである。
姥ナギでは大規模な土留め工事が行われていた。誰しも生まれたからには死んでいく。山もできたからには崩れていく。むだな抵抗だと思う。
山頂手前の長い稜線には一ノ宮から六ノ宮まで六つの祠が並び、七ノ宮に当たるのが山頂の恵那神社本宮であった。小さいとはいえ七つの神社を間隔をあけて作れるほど、この山の頂上部分は奥行きがある。祠はすべて昨年建て替えられたばかりのもの、三ノ宮には天照大神、本宮にはその両親のイザナギとイザナミの両大神がまつられていた。
この山の標高は三角点のところで二一九〇メートル、避難小屋横の岩の上で二一九一メートルとある。地図によって標高が違うのはこのためらしい。山頂はオオシラビソの森に囲まれて眺望がなく、そのため展望台が設置されていた。富士山や白山が見えると「百名山」にあるが、この日は見えなかった。
山頂で会った十数人の登山者のうち、神坂峠から来たのは私を含めて三人のみ、やはり黒井沢から往復する人が多かった。広河原から登ってきた若者も一人いた。神坂峠まで縦走し林道を下って車に戻ると言っていた。
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