権現岳(ごんげんだけ。1104メートル)と
 鉾ガ岳(ほこがたけ。1316メートル)

  平成十九年六月五日。曇。

この二峰は新潟県能生町(のうまち)にある鉾ガ岳連峰を代表する峰。ともに険しい岩場を持ち、花にも恵まれ、低いながらも高山の雰囲気を備えている、という穴場の山。この日は雪が残っていたこともあって、二千メートル級の山の雰囲気を充分に味わえたし、交通の便の悪い、知る人の少ない小連峰なので、静かな山歩きを楽しむこともできた。

権現岳という山名は、おそらく集落を見下ろす岩場にまつられた白山宮(はくさんぐう)に由来するものだと思う。また鉾ガ岳の名は、金冠(きんかんむり)と呼ばれる険しい前衛峰を鉾に見たててのものであろう。

鉾ガ岳連峰縦走の基点は能生町。日本海ぞいに国道八号線でこの町を通過すると、この町は漁業しか産業のない、海と崖にはさまれたウナギの寝床のような細長い町に見える。ところが能生川沿いに少し山手へ入ると広々とした田園風景が広がっている。この町は、おいしい魚あり、米あり、山菜あり、という食べ物に恵まれた所なのである。能生川の奥には妙高連山の火打山(ひうちやま)がそびえ、この山が能生川の水源になっているが、こちら側から登る道はない。

前日の下見のとき、曲がりくねった農道を走り回っていたら、信じられないような山の上の方まで田んぼになっていたので、昔の日本人のがんばりには頭の下がる思いがした。道を教えてくれた男の人が、田植えの準備をしながら言っていた。「先祖が残してくれた田んぼだからやめる訳にはいかんし、売るといっても今どきこんな所の田んぼが売れる訳がない。最近は若いもんがいなくなって、あっちもこっちも荒れるばっかりだ」

権現岳のふもとの斜面に、なだれ止めの柵が大量に設置されていた。山で発生したなだれが集落にまで達し、大きな被害を出したことがあったのだという。町の中に、本殿が重文になっている白山神社がある。そのがっちりと作られた古い建物は一見の価値がある。

     
出発

この日の行程は、能生町の奥座敷というべき柵口(ませぐち)温泉の奥にある権現岳登山口から入山、権現岳、トッケ峰(ほう)、鉾ガ岳、島道(しまみち)鉱泉に下山、タクシーで登山口の車に戻る、であった。

権現岳と鉾ガ岳はともに山麓から一気にそびえ立つ山なので、この道はどちらから入山しても初めと終わりは険しい岩場の上りくだりになる。また高い山ではないが登山口が低い所にあるため標高差はかなり大きい。

権現岳は岩のかたまりをドンと置いたような険しい岩山、しかも岩稜を直登するように道がついているので、登山口から山頂まで途切れずに急登が続く。そのため地図に「急坂ロープ多数」の書き込みがしてあった。出発して十分の所に水場があるが、まだ水を補給する必要のない所なので、この道に水場はないと考えた方がよい。

中腹に胎内洞(たいないくぐり)という洞窟があって、道はその中に続いていた。ところが洞窟が曲がりくねっているため中は暗く、奥へ行くほど狭くなり、最後は四つんばいにならないと通れず、一番狭いところを通過したあと油断して天井に頭をぶつけてしまった。修験道では、洞窟や狭い岩のすき間を通り抜けることで擬死再生の体験をする修行を、胎内くぐりと呼んでいるから、おそらくこの山は修験修行の山だったのであろう。

権現岳山頂に出ると、妙高山、火打山、焼山(やけやま)、金山(かなやま)、雨飾山(あまかざりやま)、など頸城(くびき)の山々が正面に一列に並んで迎えてくれた。見えているのは山の北側なので残雪が多い。振りかえると眼下に田園風景と能生の町並み、その向こうには日本海、という三百六十度どこを見ても胸がきゅんとなるいい景色であった。

鉾ガ岳への縦走路に入ると道が急に細くなり、ウグイス、ホトトギス、カッコウ、ツツドリの声が絶え間なく聞こえ、イワカガミ、白根アオイ、ナナカマドが満開、カタクリはほとんど終わっていた。トッケ峰の手前は尾根がやせていて左右を見下ろしながら歩ける。やせすぎて道が消滅している所もある。西飛山(にしひやま)への分岐点は確認できなかった。

鉾ガ岳の近くで雪の上を四ヵ所歩いた。この時期に尾根の上にも大量の雪が残っているのだから、さすが豪雪地帯である。鉾ガ岳山頂は眺望がなく、小さな避難小屋があったので覗いてみたら、中はきれいに掃除されていた。ここから糸魚川への道が分かれている。

鉾ガ岳から島道鉱泉へは道が二本、予定では距離の短い島道コースをおりるつもりをしていたが、鉾ガ岳で会った反対側からきた登山者が、「金冠の下はとんでもない道だ。あんな道は絶対におりたくない」とこぼしていたので、金冠コースをおりることにした。

この奈良から来た男性が、この日会ったただ一人の登山者。彼は権現岳からくだる道もとんでもない道だということをすぐに知ることになる。とはいえ金冠からくだる道は、急な岩場続きの確かにとんでもない道であった。ロープが付いていなければ通過できなかったかもしれない。

島道鉱泉への道は分かりにくかった。道標はたくさん立っていたが意味不明のものが多く、また細いクイの道標なので簡単に向きを変えられるという不安もあったし、地図に載っていない分岐もいくつかあるということで、ずいぶん混乱させられた。岩場が多かったのと久しぶりの山歩きで疲労が激しく、道をまちがえたら登り返すのはたいへんであった。

島道鉱泉は季節営業の一軒宿の湯治場。頼んだら快くタクシーを呼んでくれたし、タクシーを待ちながら風呂に入れたのもありがたかった。前日の下見のときには定休日の札が出ていたが、休館の場合、携帯電話が圏外なのでタクシーを呼ぶのに困る。タクシー利用の人は確認しておいた方がいいと思う。

 
越後つついし親不知(おやしらず)

中学生のころ「越後つついし親不知」という映画があった。見てもいないそんな昔の映画のことを覚えているのは、語呂はいいけど意味の分からない題名が頭に引っかかっていたからだと思う。ところが地図を見ていたとき、能生町の隣に筒石(つついし)という集落があるのを見つけ、長年の疑問が氷解したように感じた。確認はしていないが、おそらく「越後つついし親不知」は地名を三つ並べたものなのである。

と水上勉氏の題の付け方にいたく感心したので、筒石まで足を延ばしてみた。筒石は海と崖にはさまれた窮屈な土地に、家が密に建ちならぶ小さな集落。こうした集落は日本海側には珍しくないが、この集落はとくに土地が狭く、陸からは滑り落ちそうな、海からは波に洗われそうな感じがした。産業はおそらく漁業だけであろう。

親不知は、後立山(うしろたてやま)連峰が日本海にぶつかってせり出した所。断崖絶壁の海岸線が続く昔の北国街道の難所。波に洗われる海岸に街道が通っていたので、いつ大波にさらわれるか分からず、そのため旅人たちが「親は子を忘れ、子は親を忘れ」て通過したことから、「親知らず子知らず」の地名が付いたという。

ただし別の説もある。平清盛の弟の平頼盛の夫人が、ここで二才の愛児を波にさらわれ、それを悲しんで「親知らず、子はこの浦の波まくら、越路の磯の、あわと消えゆく」と歌を詠んだ。この歌が親不知の地名の元になった、というのがその別の説。

途中に波を避けるための洞窟や避難所もあったが、荒波のため旅人がそこに何日間もとじ込められたこともあったという。十五キロ続く難所のうち、北陸道の親知らず出入口から西側を親不知、東側を子不知と呼んでいるが、全体を親不知と呼ぶこともある。平地がないのは今も昔も同じなので、北陸自動車道はトンネルと海上に作った橋でここをつないでいる。

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