岩手山(いわてさん 2038メートル)

  平成十六年九月二日。曇一時雨

岩手山は岩手県の最高峰にして、南部富士とも称される百名山の一峰。南部片(なんぶかた)富士とも呼ばれるのは、複雑な山容をしているため、見る場所によっては半分だけ富士山型に見えるのがその理由である。なお岩手県にある百名山は、岩手山、早池峰山(はやちねさん)、八幡平(はちまんたい)の三山。

岩手山は火山活動のため長く入山禁止になっていたが、最近、全面的に規制が解除されたので、宮沢賢治も登ったことのある山に登ろうと車を走らせた。東北道を滝沢で下りてすぐのところに、馬返し(うまがえし)登山口へ向かう道があるから交通の便のいい山であるが、下見のときは迷わなかったのに当日はしっかり迷ってしまったので、東北道に接続する道からはずれると必ず迷うと忠告するべきかもしれない。

馬返しは古くからの信仰登山の道である柳沢道(やなぎさわみち)の登山口にして、岩手山の表口である。手前の柳沢集落に岩手山神社があったので、この神社のご神体は岩手山に違いないと下見のときお参りをした。神社と馬返しの間は巨木の並木が続く一直線の道、その道をのぼっていくと岩手山の重厚な山容が正面に迫ってきて、その迫力ある姿に背中がぞくぞくとした。

馬返しには百台分の無料駐車場とトイレと水場がある。また八合目の避難小屋の前にも水場がある。両方とも引き水である。五合目にも駒鳥清水なる水場があったが、坂を下るのが嫌で確認しなかった。この山にあった水場はこの三ヵ所のみ。

火山はガレキの山みたいなものなのでどこも水場は少ない。雨が降ってもすぐ地面にしみ込んでしまうからである。そしてその代表が富士山、この山にある水場は雪渓下の雪解け水ぐらいであるが、そのかわりに山麓にはたくさんの湧水がある。富士五湖も、白糸の滝も、柿田湧水も、山にしみ込んだ水が湧き出したもの、同じ理由で阿蘇山のふもとにも見事な湧水群がある。これらの湧水を見ると裏庭に湧水が一つほしくなる。

登山口を確認してから特別天然記念物の焼走り(やけばしり)溶岩流を見にいく。これは一七一九年の噴火でできた溶岩流の跡、黒々とした溶岩原の中に遊歩道が作られている。ここで奉仕活動で案内係をしている人と話をしたとき、「ここも岩手山の登山口の一つです。ここからの道にはすばらしいコマクサの群生地があります」という話を聞き、焼走り道を下山コースの選択肢に加えた。

さらに松川温泉まで車を走らせた。そこまで縦走するかもしれないと下見である。そこで登山口を探しているとき、松川地熱(ちねつ)発電所なるものを見つけた。

     
出発

早朝に馬返しに到着、すでに二〇台ほど車がとまっていた。天気の回復が遅れていて山の上部はまだ雨雲の中。柳沢道は新道と旧道の二本道になっている部分があり、旧道は岩場を直登する道なので景色はいいが風当たりが強い。八合目の小屋は避難小屋にしては大きな小屋、夏場は管理人が常駐していて、食事はなく素泊まりのみで千五百円、貸し毛布は一枚五百円とある。

この小屋までは雨や風はそれほど強くなかったが、ここからは登るごとにひどくなり、お鉢と呼ばれる噴火口の上では吹き飛ばされそうな風が吹いていた。温度計は十度を示していたが、体感気温はまちがいなく零度以下、手が凍えるので防寒手袋を探したが、叩きつける雨と風に邪魔されて見つからなかった。

お鉢のいちばん高い所が山頂の薬師岳、せっかく登ったのだからと、風に背を向けて腰を下ろし、二〇分ほど雨に打たれていたが、あたりは日が暮れたように暗く、三六〇度の大展望どころか、濃霧のため視界はせいぜい十メートル、聞こえてくるのは雨と風の音のみ、これはとても松川温泉まで縦走する雰囲気ではないと、焼走りに下山することに決めた。

とはいえこれだけ天気の悪いときに、入山者が一人もいないと思われる初めての道を下ることには不安もあったが、分岐点に立つ道標の新しいことや、途中に避難小屋があることから、道は整備されていると判断、この判断は当たっていた。

予想した通り十五分もくだると風は弱くなってきた。焼走り道は山のふところに入ったように感じる自然の豊かな道、歩く人の少ないことは踏まれ方で分かる。道の上部にはダケカンバの大木、下の方にはミズナラの大木が多かった。

山の肩にあるのが平笠不動(ひらかさふどう)避難小屋、百メートルほど横道に入った景色のいい場所に建っている。さんざん風に吹かれ雨に叩かれてきたので、新建ちの明るい小屋に入るとほっとした。地元の山の会の心づくしか、中はきれいに整理整頓され、サンダルもきれいに一列に並べられていた。

小屋から一時間ほど下るとコマクサの大群生地、火山活動でできた広大な砂礫の斜面全体にコマクサが群生している。これほどの大群生地を見るのは初めてのことで、おそらく日本一であろう。その砂礫帯の中を道が一直線に貫いているので、上を見ても下を見てもコマクサだらけ、高山植物の女王と呼ばれるコマクサであるが、これだけ生えていると平民に格下げしたくなる。花は咲き残りの数輪のみであるが、コマクサ特有の明るい緑色の葉が美しかった。

ところがここを歩いているとき膝の故障が悪化した。砂礫帯の急斜面の下りなので、ひと足ごとに足が滑る。そのため滑らないようにと足を踏ん張って歩いたことで膝に負担がかかり、膝が耐えられないほど痛くなってきたのである。そしてこのときついに膝の手術をする決心をした。

下界は山上の寒さがうそのような蒸し暑さで、雨も降らず風も吹いていなかった。タクシーを待ちながら「焼走りの湯」に入って暖めたら、膝の痛みはうそのように消滅した。馬返しまでのタクシー代は五千三百円也。

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