会津磐梯山(あいづばんだいさん。1818.6メートル)

平成十六年八月三〇日。晴 

磐梯山は櫛ヶ峰(くしがみね)と赤埴山(あかはにやま)の二峰を従えて、会津富士と称される優美な姿を猪苗代湖(いなわしろこ)に映す百名山の一峰。猪苗代湖を前景とする磐梯山の眺めのすばらしさは、深田久弥氏も「日本百名山」の中で絶讃しているので、その絶景を見ようと湖を一周したが、雨が降り出してしまい見られなかった。猪苗代湖の周囲には松林が続き、何ヵ所か水泳場があった。

ところが会津富士と称される優美な山容は磐梯山の表の姿、この山はそれとはまったく別の姿を裏に隠し持っている。

明治二一年七月十五日、磐梯山は大噴火をおこし、本峰の後ろにあった小磐梯(こばんだい)という本峰に匹敵する峰を土台から跡形もなく吹き飛ばした。しかも雨が降り続くときだったので、二〇億トンもの岩石と土砂が泥流となって五つの村と十一の集落を襲い、死者四六四人という大惨事を引き起こした。泥流はさらに川をせき止めて裏磐梯に三つの湖と三百の沼をつくり、会津藩の財政を支えていた金山銀山も水中に没したのであった。(噴火記念館の資料による)

このときの噴火は溶岩の噴出ではなく水蒸気爆発であった。マグマで熱せられた水蒸気による爆発が水蒸気爆発、火山活動の中で最も危険なものだという。安全弁のない巨大な圧力釜が、マグマで熱せられて山の地下で破裂するようなものである。そしてその爆発の恐ろしさを実感できるのが、この日、私が歩いた道、八方台(はっぽうだい)登山口から入山、磐梯山頂、噴火でできた爆裂火口の底を横断、登山口にもどる、という一周コース。

八方台登山口は猪苗代湖から裏磐梯へ抜けるゴールドラインの峠の上にある。磐梯山頂にいちばん近い登山口、また猫又(ねこまた)伝説のある猫魔ヶ岳(ねこまがたけ)を越えて、特別天然記念物の雄国沼(おぐにぬま)へ行く道の登山口でもあるので、ここを利用する人は多く、ここには五〇台分の無料駐車場とトイレはあるが水場はない。

     
出発

登山口から「中の湯」の湯治場まではブナ林の中の林道を歩く。この林道で蚊の大群に襲われ、ゆっくり歩いていると攻撃されるので、これがもう限界という速度で歩き続けた。そのため最初から汗まみれになってしまい、中の湯を過ぎると蚊はいなくなったが、それまでに何十ヵ所も刺されてしまった。ところが下山のときには一匹もいなかった。

蚊は局所的に大発生することがあるらしく、琵琶湖西岸の比良山や南アルプスの塩見岳でも、大群に襲われたことがある。とくに比良山の蚊は信じられないほどの大群で、服が黒くなるほどであったが、なぜか顔面攻撃はしてこなかった。

磐梯の湯は古い歴史と卓越した効能で知られ、交通の便の悪い江戸時代にも、遠く越後から湯治に来る人もあった。会津藩が支配していた磐梯の湯には、上の湯、中の湯、下の湯、の三つがあったが、上の湯と下の湯は明治の大噴火で地盤ごと吹き飛ばされて消滅、中の湯は地盤が残っていたので再建されたが、私が行ったときは営業中止の看板が出ていた。

中の湯から一時間ほどで、山の肩にある弘法清水(こうぼうしみず)着。山頂まであと二〇分ほどの距離、小さな売店が二軒あるが両方とも閉じていた。山頂に立つと、眼下に猪苗代湖と会津若松の街並み、その反対側には吾妻山(あずまさん)と安達太良山(あだたらやま)、北西方向には遠目にも大量の残雪が目につく飯豊山(いいでさん)、その右奥には朝日岳らしき山が見えた。

涼しい風に吹かれながら山頂を独り占めにしていると、三〇人ほどの団体さんが登ってきた。磐梯山、吾妻山、安達太良山、という三つの百名山を登りに来た愛知県の女性たちであった。

弘法清水までもどり、爆裂火口へ下りるため櫛ヶ峰へと向かう。弘法清水の下にあるのが黄金清水、その先で道に岩ヒバリが飛び出してきたのでよく見ると、そこにも小さな水場があった。岩ヒバリは人を怖れず、横目でこちらを見ながら近くの岩の上を飛び回っていた。

地図によると櫛ヶ峰の手前で火口の底に下りるはずだが、火口壁は切り立った急斜面になっていて、とても道があるようには見えない。どうなることかと期待しながら進むと、火口壁をまっすぐに下りる手すり付きの道が現れた。ここに道を作るのは難工事だったと思う。

爆裂火口は巨大なお椀のような形をしていて、その底には涸れた水路がたくさん走っていた。大雨が降るとお椀の底に集まってきた雨水が、濁流となってこの水路を流れ下るのであろう。だから大雨のときには、おそらくここは通過できない。火口原にはシラタマノキが群生し、白い玉のような実を鈴なりに付けていた。このツツジ科の植物は火山好きらしく、つぶすとメンソレータムの匂いのする実は、がくが肥大したものと図鑑にある。

火口原には沼が点在し、水の色はみな違っている。その中で最大の沼は赤銅色の銅沼(あかぬま)、銅沼から登山口への登り返しは、日盛りのときだったのでまた大汗をかいたが、ゴールドラインをどちらへ下っても温泉がある。私は裏磐梯の温泉で汗を流した。

今回の寄り道は、野口英世(ひでよ)記念館、噴火記念館、かわいらしい噴火口の吾妻小富士(あずまこふじ)、の三ヵ所。

野口英世記念館では、英世のねばりとがんばりの生涯に感心させられた。極貧の農家に生まれた人間が、二〇歳で医者の資格をとり、米国に渡ってロックフェラー医学研究所の研究員になり、五一年の短い生涯に多くの成果を残した。その業績を顕彰するため世界各地に百三十の像が立つという。南米とアフリカにおける黄熱病(おうねつびょう)の研究は特に有名である。

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