巻機山(まきはたやま。1967m)
平成十六年七月二六日(月)。曇、一時小雨
新潟と群馬の県境にある巻機山は、越後山脈を代表する百名山の一峰。この山は、巻機山本峰、割引岳(わりめきだけ)、牛ヶ岳(うしがたけ)、前巻機(まえまきはた)、の四峰からなり、複雑な形をした山上には池塘をもつ魅力的な草原が広がっている。その草原とオオシラビソとの取り合わせの見事さに心を引かれ、下山するときには何度もふり返って眺めた。
登山には、新潟県塩沢町清水(しおざわまち・しみず)から井戸尾根を往復するコースがよく利用されるが、私は同じ所から入山、割引沢(わりめきざわ)を遡上、黒ツブネ尾根、割引岳山頂、御機屋(おはたや)、前巻機、井戸尾根を下山、という行程をとった。
登山口にはトイレ付きの桜坂駐車場がある。下見のとき料金所で、「明日、早朝に登りますけど、料金はどうしましょう」ときいたら、「はい、お金は帰りにいただきます」という丁寧な返事、翌日支払いをしたときも「ありがとうございました」と帽子をとって丁寧にお辞儀をしてくれた。
清水集落を通る国道二九一は、そこから十分ほど奥へ進んだ所で通行止めになっていた。この国道は清水峠を越えて群馬県水上町(みなかみまち)へと通じていたが、あまりに雪崩と落石が多かったので、完成後すぐ廃道になってしまったのである。谷川岳の下を通るのだから当然かもしれない。
隣町の湯沢温泉で「駒子の湯」に入り、そのとき湯沢温泉が川端康成の小説、雪国の舞台であることを知った。駒子というのは小説に登場する芸者さんの名前である。だから小説の冒頭に出てくる「国境の長いトンネル」というのは、上越線の清水トンネルのことらしい。
北越雪譜(ほくえつせっぷ)
登山口のある塩沢町は、江戸時代中期に北越雪譜という本を出した鈴木牧之(ぼくし。一七七〇年〜一八四二年)が住んでいた町。今回この山を選んだのは、塩沢町と鈴木牧之に興味を持ったのが一番の理由。北越雪譜の書名のごとく、この本には雪の結晶の図譜も載っているが、内容の多くは雪国越後の生活、民俗、伝説などに関することである。しかし単に雪国の珍しい話を集めただけの本ではない。
「雪中にある事およそ八ヶ月、一年のあいだ雪を看ざる事わずかに四ヶ月なれども、全く雪中にこもるは半年なり。ここを以て家居(いえい)の造りはさら也、万(よろず)のこと雪をふせぐをもっぱらとし、財を費やし力を尽くすこと紙筆に記しがたし」
「今年もまたこの雪の中にある事かと雪を悲しむは、辺郷の寒国に生まれたる不幸というべし」
とあるように、豪雪地帯に住む苦労と悲しみを多くの人に知ってもらうことが、この本の一番のねらいであった。塩沢町は日本海に向けて大きく口をあけた谷の奥にある。このラッパ型の地形が雪雲を集めるのが、ここに大雪が降る原因ではないかと思う。
その鈴木牧之が、「とんでもない山奥の辺境の地」として紹介したのが、塩沢以上の豪雪地、新潟と長野の県境にある平家の落人伝説の残る山里、秋山郷(あきやまごう)。「秋山紀行」を読むとそこからその裏山の苗場山(なえばさん)に登りたくなる。
鈴木牧之は家業の質屋を営みながら、名産の塩沢縮(しおざわちぢみ)の仲買いもおこなう商人であった。和歌や俳句、書や絵にも長じており、こうした文化的素養は鈴木家の遺伝というべきものであったが、彼は昼間はひたすら仕事に精を出し趣味には手を出さないという主義を生涯つらぬいた。
そして雪国の人特有のしんぼう強さで常に堪忍を心がけ、質素倹約、粗衣粗食、酒は壮年のときに禁酒して飲まず、商売だけでなく公的な仕事にも寸暇を惜しんで尽力したので、塩沢でも有数の資産家になり、五二歳にして町年寄格を仰せつかった。彼の辛抱強さは北越雪譜を出版するのに四〇年もの時間をかけたことにも表れている。塩沢町にある鈴木牧之記念館には、牧之の生涯、雪国の生活、塩沢縮み、などに関する資料が展示されていて、近くの寺には彼の墓もある。
塩沢の女は機織(はたお)りの上達祈願のため、巻機山に登ったり巻機神社にお参りしたりしたという。ところが北越雪譜には巻機山の名前は出てくるが、山名の由来を説明する記述はない。機織りに関係した山名なのに、織物の商売をしていた彼がその説明をしていないことには不満を感じた。なお辞書によると、機(はた)は布を織るための手動式の織り機、巻機は機織りの準備のために経(たていと)を巻き取ることとある。
巻機山の名は機織り神(はたおりがみ)の巻機姫(まきはたひめ)に由来するのではないかと思う。山上に御機屋(おはたや)と呼ばれる平地があって、そこが巻機姫の御機屋があった場所とされるからである。また登山口の清水集落には巻機神社、割引岳の山頂には小さな石の祠があったが、これらが巻機姫を祀るものかどうかは確認できなかった。
御機屋のことを北越雪譜はこう説明している。「貴重尊用の縮(ちぢみ)をおるには、家のほとりにつもりし雪をもその心して掘りすて、住まいの内にてなるたけ煙の入らぬ明かりもよきひと間をよくよく清め、新しきむしろをしきならべ四方に注連(しめ)をひきわたし、その中央に機を建てる、これを御機屋と唱えて神のいますが如く畏れうやまい、織り手のほか人を入れず・・・」
また名産の塩沢縮を次のように紹介している。「縮は越後の名産にして普く世に知るところなれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれど、さにあらず、我が住む魚沼郡一郡(うおぬまごおりいちぐん)にかぎれる産物也。他所に出ずるもあれどわずかにして、其の品魚沼には比しがたし」
破目山(われめきやま)の伝説、ということも北越雪譜に載っている。「清水村の奥に山あり、高さ一里あまり、周囲も一里あまり也。山中すべて大小のわれめあるを以て山の名とす。山の半ばは老樹枝をつらね、半ばより上は岩石畳畳(じょうじょう)として、その形竜おどり虎怒るがごとく、奇々怪々言うべからず。麓の左右に谷川あり合して滝をなす、絶景また言うべからず」
と、まず山の姿を描写してから、ある年の四月半ば清水村の人々が熊を捕りに山に入り、破目山の熊の居そうな穴にたき火の煙を流し込んだところ、山のここかしこから煙がもくもくと出てきた。どうやらこの山の割れ目は地下でつながっているらしい、という話を紹介する。
下調べのとき私は、この破目山は名前が似ている割引岳(わりめきだけ)のことだろうと思ったのだが、破目山は割引岳の下にある天狗岩に相違ない、と百名山の中に書いてあった。天狗岩は天に向かってそびえる天狗の鼻のような岩山、雪譜にあるように上部は岩が露出し、全体に割れ目も入っているから、実物を見ればそれが正しいことが分かる。だとすると「左右に谷川あり」とあるのは割引沢とヌクビ沢である。「合して滝をなす、絶景また言うべからず」とあるように、合流点の下にある吹上の滝やアイガメの滝はまさに絶景であった。天狗岩は割引沢を登るときのよい目印になった。
出発
駐車場で十人ほどの登山者を見かけたが、みんな井戸尾根に向かったらしく割引岳山頂まで人に会わなかった。駐車しているのは東京方面の車が多かった。駐車場の立て札にあった、ヌクビ沢と米子沢(こめこざわ)は入山禁止、割引沢は初心者は入らないように、という警告は残雪期を対象にしたものだと思う。
十分ほど歩いたところで、山の上部がよく見える場所を通過した。そこから見あげたときに見えた、上部に汚れた雪が大量に残る沢が割引沢であった。この沢は、白っぽい岩でできた、木のほとんど生えていない、広々とした明るい沢、北へ入る沢なので午前中は日が射さないのもありがたかったが、流れを渡ったり、滝の下を通過したりと、手ごわい面もあった。
沢が狭くなると雪が現れ、谷を埋めた雪の上を涼しい風が吹き下りて来た。この時期に、これだけの雪が、この高さの山に残っているというのは予想外のことで、さすがに豪雪地帯だと思った。
途中に雪橋(せっきょう)が二つあって、道をしめす矢印はその下に続いていた。一つ目はトンネルが長かったので雪橋の上を通り、二つ目は短くて危険がなさそうだったので下をくぐった。雪橋の下は氷水のような水滴が降りそそぎ、白いもやが漂い、わずかの距離だったのに凍えるほどの寒さを感じた。
天狗岩の下は雪のたまり場になっていた。道はここで雪渓を離れ、黒ツブネ尾根に取りつく。ところが雪渓と尾根との間に、一メートル以上のすき間が口を開けていた。しかも取りつく尾根は切り立っている、ということで、すき間を跳び越えて尾根にしがみつくは危険な仕事であった。
岩にうまくしがみ付かなければ、転落してすき間にはまりこむ。雪渓のへりに近づきすぎると、雪渓を踏み抜いてはまりこむ。はまって動けなくなればそれでおしまい。橋を架けようと倒木を探したが、雪渓の上に木が転がっているはずもなく、ここが一番の難所であった。駐車場にあった警告は、ここ対象にしたものだとそのとき気がついた。
尾根に取りついたところに最後の水場がある。ここまでは水に不自由しないので、水筒を軽くしてくると途中の岩場が少し楽になると思った。この辺りから雨具を付けるほどではないが雨が降りはじめた。天気は下り坂、下山後、塩沢町のそば屋から眺めたときには山頂は雨雲の中だった。
尾根には印が付いておらず踏み跡をたどって登る。尾根の中ほどに天狗池(白妙の池)と呼ばれる四つの小さな池がある。ここはまさに立ち去りがたい雲上の別天地、この池に惚れこんだ人がこの道の整備をしているのではないかと思った。
尾根を登りつめると一等三角点の割引岳山頂に出る。出たところに下山禁止の札が立っていた。黒ツブネ尾根は下り禁止なのである。もちろん登れるからには下れるはずだが、道は下る人のことを考えずに整備されている。ここで初めて登山者に会った。
山頂近くの斜面で、尾瀬で見たことのある食虫植物モウセンゴケを見つけた。湿原以外でも育つとは知らなかった。下山で使った井戸尾根の道は、ほとんど日が射しこまない深い森の中の道、途中に、天狗岩、ヌクビ沢、米子沢、がよく見える場所があった。
帰宅して地図を見ていたとき、最高点の巻機山本峰を踏まなかったことに気がついた。巻機山山頂と書いた標識が御機屋に立っていたので、山頂を踏んだと思いこみ、本峰に寄らずに下山してしまったのである。わずかな距離であるし、おそらく二度と来ることのない山なので心残りになった。
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